2007年8月29日水曜日

実存的問題-苦しみ 4/4

詩人の片山敏彦の作品に「奥降り」というのがある。奥降りとは、山の水源地の方で雨が降ることだ。この作品は、大きな川の橋の下に粗末な小屋掛けをしているハンセン病患者のことを記している。奥降りのため、急に水かさを増した川の濁流に追われて、人々は岸の方へ逃げて行くのだが、そこに一人逃げ遅れた老人がいて、そのところをこう記している。

「まだ一人、水の中に残っている者があった。それは、六十近く見える老人の乞食だった。彼は、流れの速い水の中で、一人取り残されて途方にくれていた。彼はもちろん癩病で、そのため目が見えず、両手もなく、両方の腕の下に、二つの松葉杖をくくりつけたまま、方角を失って水の中に立ちつくしていた。・・・後で思うと、あの時のあの老人の姿ほど孤独な人間の姿というものがあろうか。大きなうららかな青空の下で、他の人はみな安全なのに、自分だけは冷淡な水と無力なたたかいをやりながら、どうにかして安全な場所まで・・・ふつうの人なら難なく行ける所まで・・・行きつくために必死になっているその間にも遠慮なく水の力は増してくるのだった。」

「橋の上の人びとはみな黙りこくっていた。ある力があって、人びとの言葉と行為とを封じこめているようだった。人びとはただ見ていた。緊張して見ていた。人間というものは、そうしなければならず、そうすることが唯一の善だと感じていながら、そう感じるがために、かえってその事をするのを恥じる事があるものだ。ぼくもみなといっしょに、一人の人間の命が危ないのを上から見ていた。」

「そのとき、とつぜん一人の青年が土堤をかけ下りて、水の中へ駆け込んで行った。高等学校の制服を着た頑丈な骨組の若者だった。彼はじきに老人に近づくと、いきなり、その乞食を背中に背負った。老人は両腕にふたつの松葉杖をぶらさげたままで、その不具な体を、若者の広い背中の上へ、まるで木の片が倒れるように投げかけた。」

「そうして二人が岸に着いたその瞬間、橋や土堤に群がっていた人びとの緊張した沈黙が破れて、いちどに大きな歓声があがった。

『ばんざい!』

ぼくも思わずそれに和して叫んだ。」

「『おそらくあの老人は、あの時、あの水の中で自分を抱き上げてくれた、若々しい力と青年の頑丈な肩のあたたかさだけは、一生忘れることはないだろうね。』」

この作品は、実に見事に主イエス・キリストの救いを私たちに示してくれている。

2007年8月25日土曜日

復活は本当のことなのか

復活と生き返りは違う。生き返りは、また死ぬ体に生き返るのだが、復活は二度と死なない霊的体によみがえるのである。

イエス・キリストの場合、それは生き返りではなく、復活である。主イエスを葬った墓を訪れた弟子たちは、墓がからっぽだったことを知った。葬った墓がからっぽであったということは、可能性としてだれかが主イエスの死体をどこかへ運んだことになるだろう。その可能性として考えられるのは、主イエスに敵対していたユダヤ人議会か、それとも主イエスの弟子たちか、それとも中立の立場のローマの兵隊しかありえない。

ユダヤ人議会の中のだれかがもしも主イエスの遺体を運ぶことに何らかの目的があったとしたら、それは筋が通るだろう。主イエスは三日目に復活すると言っておられたから、その時、自分たちがその遺体を持っていることを示せば用が足りるということだ。ところが、主イエスが復活したということに対して彼らはなすすべがなかったのだから、これは可能性ゼロである。

次に、弟子たちが持って行ったということについて考えてみよう。彼らが青ざめた主イエスの遺体を持っていたとしたら、彼らは主イエスが復活したとうその宣伝をしたことになる。うそのために殉教の死を遂げる者があるだろうか。

次に、中立の立場にあるローマ兵が主イエスの遺体を運び去ったというのであるが、何のためにこんなことをしたのか。彼らが騒擾罪を鎮めるというのなら話は別だが、わざわざ起こすということがありえようか。

そこで、次に主イエスの弟子たちが訪れた墓を誤っていたと説明しようとする人たちがいる。しかし、私有の墓であり、38時間前に行った墓をだれが間違えることがありえようか。

それだけではない。パウロは復活した主イエスが500人以上の弟子たちに同時に現れたと書いている(1コリント15:6)。しかも、その中の大多数は、いつでもそのことの証人に立つとまで言っている。幻覚症状というものは、いつも個人的であって、500人以上の人が同時に幻覚症状になるということなどありえない。

そういうことになると、主イエス・キリストは復活したとしか考えようがない。初代教会の歴史は、キリストの復活を抜きにしては、到底説明することができないのである。

2007年8月22日水曜日

実存的問題-苦しみ 3/4

確かにこの世の中には不条理な苦しみはいくらもある。私は多くのハンセン病患者の友人を持っている。そのうちの一人について記そう。

その人は、小さな子供の時に、ハンセン病だということが分った。そのことが分ってから、どの店もその一家には何一つ物を売ってはくれなくなった。不治の病ハンセン病にかかったら大変だという気持ちもあり、伝染病であるハンセン病患者の出た家のお金は受け取らない。そのため、その一家は生きて行くためにはその子をハンセン病療養所に入れて自分たちとも全く縁を切り、自分たちも遠い所へ引っ越して行かなければならなくなった。

その子は東北新生園という療養所に入れられた。小さい子供ながら、親兄弟から捨てられた悲しみは、何にもたとえようがない。しかし幸いにして、そこの人たちは、同病相憐むということもあって、その子をかわいがってくれた。しかし、親と別れた悲しみは、何によっても癒されがたいものだった。その子供は次第に人を信用できなくなった。けれども、よく面倒を見てくれる人たちはクリスチャンで、その関係で教会学校へ行くようになった。みんな親切にしてくれた。でも、主イエスを、そう素直に信じることはできなかった。

それから何年か経ち、ふとあることを考えてみた。親兄弟も忌み嫌うこのハンセン病療養所に、毎週やって来る人がいる。医師でも看護士でもないその人は、一つも嫌な顔はせず、せっせと足を運んで来る。そしてキリストの救いについて熱心に語り、人々を救いに導くのだ。どうしてだろうと考えた時、この人の説くイエス・キリストこそ、きっと本当の救い主にちがいないと思って信じたというのだ。こうして、今では親兄弟に対する恨みもなく、変形してしまった指や足を持ちながらも、五体満足にそろっていてなお悩みを持っているこの世の人々に、せっせと手紙を書いては、その人々に生きる希望を与え、励まし、力づけているのである。

確かに、ハンセン病患者も不条理な苦しみを味わっている人々だ。しかし、彼らが不条理な苦しみを味わっているというのなら、罪のない神の御子イエス・キリストが十字架上で私たちの罪のために身代わりに死んでくださったこと以上に、不条理なことはないだろう。まさにイエス・キリストの十字架上の死こそは、不条理の極致と言うべきであろう。どんな苦しみにも意味と目的がある。神が私たちにお与えになるもので、意味も目的もないものなど一つもない。

2007年8月19日日曜日

天国は本当にあるの

「天国」と言うと、ある人々は、どこか場所のことだと考えがちだが、そうではない。「宇宙のかなた」、つまり普通「天」と呼ばれている「大空」のどこかにあると思っている人がいるかもしれないが、そうではない。「天国」と記された言葉は、また「神の国」のことで、「国」と記された言葉は、元々「支配」という意味だから、「天国」とは、「神の支配されるところ」である。

「神の支配されるところ」というのは、決してどこかの場所ではない。そう言うと、十字架に掛り、復活し、昇天されたイエス・キリストは、空中高く上って行かれたではないかと思われるかもしれない。しかし、私たちは超時間的、超空間的な存在を上空間的に意識するという観念を、生まれながらにして持っている。たとえば、ホワイト・ボードに字をかく場合、「神ー人」というふうに、神を上に、人を下にして書けば別に何でもないが、これをもしも「人ー神」というふうに、人を上に、神を下にして書けば、何だかそれに引っ掛って、後の話は頭によく入らないだろう。私たちのこのような生まれながらの観念を満足させるために、主イエス・キリストは上に上って行かれた。もしもそうせずに、主イエス・キリストがその場で姿を消してしまわれたら、人々は幽霊か何かではないかと思ったろう。だから、ある程度まで上空に上られると、雲によってさえぎられて、主の御姿は人々の視界からは見えなくなってしまった。

これは、ほんの一例だが、「天」とは、「大空」のことではなく、神の御座である。その神の御座である「天」は、この「世」と対比される。この両者は場所的な意味で言われているのではなく、倫理的なものである。だから、「ここも神の御国なれば・・・」と賛美歌にあるように、次元が違うだけで、神の国は今ここに存在しているのである。

私たちが神を信じ、神に服従すると、神の支配は私たちの心の中にも始まる。主イエス・キリストが、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われたのはそのことである。これはまだ、イエス・キリストを信じる者たちのうちに存在している霊的現実にしかすぎない。神に敵対する勢力が滅ぼされ、新天新地が出現するのは、イエス・キリストの再臨の時だ。その時、今は霊的現実にすぎない神の国が、すべて目に見える現実となるのである。

2007年8月15日水曜日

実存的問題-苦しみ 2/4

苦しみの問題を取り扱おうとすると、日本人の中には決まって因果関係を持ち出して来て、これを説明しようとする人がいる。いわゆるバチの思想がそれであると言ってよいだろう。今苦しみに遭っているのは、それ以前に、その人か祖先かのだれかが何か悪いことをしたという原因があるからで、そのバチが今当たったのだというわけである。しかし、このような考え方における根本的な欠陥は、私たち人間が何から何まで全部分るのだという前提を持っているということだ。しかしその実、私たちはほとんど何も知らないのだと言ってよい。知りもしないのに、あたかも何もかも見通しだと言わぬばかりに安易な因果関係で説明しようとすることは、全く傲慢のそしりをまぬがれない。

苦しみの原因は、その多くは分らないのだ。だから、その苦しみもひとしお大きくなるわけである。原因が分かっていて、そのためにその苦しみを経験しているというのであれば、まだまだ耐えやすいに相違ない。

それでは、聖書は苦しみの原因について、どのように教えているのだろうか。具体的なこの苦しみは、具体的なこの罪の結果であるというようには教えていない。しかし、苦しみが私たち人類の社会に入って来たのは、罪の結果であることは確かなのである。人類が罪に陥った結果、その罪の刑罰としての呪いが下り、苦しみが人類の中に入って来たのである。

今日、一人一人がバラバラになってしまったのも、耐えがたい孤独に陥っているのも、幸福であるべき結婚が不幸な結婚に終わるのも、すべて罪がこの世に入って来たからである。

また、多くの人は自己本位の生き方をしている。だれも自分のことを考えてくれないという悩みは、まさにそれを言い当てている。自己本位の生活は、いつでもお互いに対する不信感になって表れる。自己保身のとりこになると、自分一人が生きるために、ほかの人を殺すことさえしかねない。自己本位の生活は、いつでも優越感か劣等感のとりこになる。ほかの人が自分よりも劣っていると思うと、優越感を持ち、ほかの人が自分よりも優れていると思うと、劣等感のとりことなってしまう。また自己本位の生活は、いつでもほかの人に責任転嫁をし、自己弁護をしてはばからない。

こうしたことはすべて罪の結果である。わがままで、自分さえ良ければそれで良いと考えるエゴイズムの罪がなければ、何も悩んだり苦しんだりすることは起こってこないのである。

2007年8月12日日曜日

なんのための教育

今日、教育と言うと、かなり偏ったものを教育と考えているように思われる。教育の本質は人格教育であるはずなのに、知的偏重の教育が行われているし、しかもそれが上級学校への受験勉強という教育なのである。このようなものをいくら子供に教えても、偏った知識を身に着けるだけで、健全な人格形成はなされない。その上、上級学校への受験準備の教育では、友情が育つわけがない。ほかの人が皆敵に見えてくる教育しかできないのである。自分さえよければそれで良いというエゴイストの人間は育っても、愛と信頼による人格形成を期待することはできない。

教育の本来の目的は、人格形成にある。それでは、どのような人格形成をしていったらよいのだろうか。一言で言えば、神が目指しておられる人間の人格である。罪によってむしばまれた人間は、結局、自分さえよければそれでよいと考えてしまう。このような歪んだ人格が、ほかの人々を愛し、ほかの人々のために喜んで自分を犠牲にし、奉仕をするような高貴な人間になっていくことを願わなければならない。

私たちは、みんな違った性格を持っている。その違った性格は何によって決定されされるのだろうか。

まず第一に、遺伝を挙げることができる。生まれながらに持っている性格がある。それは遺伝である。

次に、生活環境を挙げることができるだろう。その子供がどういう所で育ったかということである。孟母三遷の教えではないが、教育環境の善し悪しは、確かに大きな影響がないとは言えない。しかし、もしもこの二つだけですべてが決まってしまうのだとしたら、私たちが子供の教育についてできることは、たかだか優秀な親から生まれた子供に、善い環境を作ってやることしかない。

しかし、人間は、それだけですべてを決定してしまうものではない。すでに述べた遺伝と生活環境のこの二つの要素に対する本人の反応である。この反応が好ましいものであるようにするところに、教育の働き、教育の可能性があるわけである。

汚い泥沼の中にも、美しい蓮の花を咲かせられる神は、人間的には絶望と思われるようなところにも、働き続けておられる。神があきらめておられないのに、私たちがあきらめてしまうことなどどうしてできるだろうか。参照「父親の責任・母親の責任」(いのちのことば社)。

2007年8月7日火曜日

実存的問題-苦しみ 1/4

だれでも皆何らかの悩みを持っている。しかし、その中でも深刻な悩みと、そうでないものとがある。その深刻な悩みとは、実はほかの人によっては決して代わってもらうことの出来ないものである。それだけでなく、金持であろうが貧乏人であろうが持つ悩みであり、どの国の人であろが持つ悩みである。それは、人間として生きていく上で味わう悩みであって、それを実存的問題と言う。宗教はこの実存的問題を扱うのであって、損をするとか得をするなどと言っているのは、宗教の取り扱う分野としては、全く枝葉の事柄にすぎないのである。

それでは、この実存的問題とは、具体的にどういう問題であるかと言うと、苦しみ、エゴイズム、死である。どんなに愛する人が苦しんでいたとしても、それと全く同じ苦しみを味わうことはできないし、死についても全く同じことが言える。死が大きな力を持って迫ってくるのは、ほかのだれかの死の時にではなく、自分の死においてなのである。

私たちがこの世において生きていこうとする時、そこにはいろいろな苦しみがある。それは、肉体的なものであろうと、自分の境遇に関することであろうと、その他どのようなものであろうと、すべて精神的なものである。

たとえば、重い病気にかかったような場合、治療や手術などのための痛みや苦しみもあるけれど、そこでの一番の悩みは、この病気にかかったことによって、これからの自分の人生はどうなっていくのだろかという不安や、こうしている間にも多くの同僚たちは出世してしまうのではないかというあせりや、自分がこのまま一生涯闘病生活をしなければならなくなったとしたらどうしようかという悲しみなど、すべてそれは心の悩みであり、精神的なものなのである。

ある人は、ある時になって、自分の出生の秘密知って、大きな精神的ショックを受けた。またある人は、肉体のハンディキャップを持って生まれてきたがために、人知れず悩まなければならないということもある。また、死に対する恐れのために、どんなに楽しい時も、決して手放しで楽しめない人もいるだろう。また、冷たい家庭の中で、親、兄弟に対する憎しみを抱いている人もいるだろう。こうしたことのほかにも、この世に生きている人には、いろいろな悩み、苦しみがある。人生の意味や目的が分らなければ、生きることに苦痛を感じるのは当たり前のことだろう。

2007年8月4日土曜日

なんで人間は結婚するのか

人間はだれでも男か女としてこの世に生まれてくる。人間が男か女としてこの世に生存しているという事実は、実は、神がそのように人間を造られたという事実に由来している。人間は、この地上に存在するようになった最初から、男と女として存在してきた。だから、私たちは「性」の問題を、不真面目なことと考えてはならない。私たちは「性」の問題を、神の創造の秘義として、真面目に考えてみなければならない。

神が最初人間を造られた時、ただの人間として造られたのではなく、「男と女とに創造された」(創世1:27)のは、まず第一に、男と女がお互いに助け合って、宗教的使命、社会的使命、個人的使命を果し、神の栄光を現わし、真に住みよい世の中を作り出していくためであった。もちろん、男同士、女同士の協力によって出来ることがあるのを否定するものではないが、神が人間を男と女とにお造りになったという事実は、男と女の協力なしに成し遂げられない使命を神がお与えになったのだということを物語っている。もちろん、これは単に結婚だけに限定される事柄ではないが、その中心は結婚して家庭を持つというところにあった。家庭というものは極めて重要であって、今日、家庭が崩壊しているがために、非行、犯罪が横行していることは、だれの目にも明らかである。

好きな者同士で同棲し、セックスをすることが何が悪いのかと言う人たちに対しては、家庭の崩壊がもたらす社会の崩壊が、ついには国家さえも破壊しかねないのだということを言えば、十分だろう。神が家庭を制定されたのにはわけがある。そこにしか本当の秩序はないからである。

男性と女性とが協力して、この世において使命を果していく場合、男性としての果す役割、女性としての果す役割がある。男性は、男性でなければできない働きをし、女性は、女性でなければできない働きをすべきである。

どんなに時代が変っても、子供を産み、育てるのは女性である。男性はこのことに思いやりと愛情を表さなければならない。と同時に、この子育てという実に重大な仕事-次の世代について責任を持つという意味において-に、夫婦して取り組むことは大切なことであると言わなければならない。このことについて、もっとよく知りたい方は、「結婚の備え」(いのちのことば社)参照。