2007年7月31日火曜日

積極的な人間になる

私の心の中の空洞は、神によって埋められ、本当に満たされた人生が始まった。それまでは、どちらかと言うと、消極的な人間で、考えることもすることもすべて消極的でしかなかった。ところが、主イエス・キリストによって変えられた私の人生は、積極的にならざるをえなかった。同じ大学にいる約5万人の学生たちにこの喜びを伝えたいと思い、早速、キリスト教サークルの門をたたいた。まず共助会の門をたたいてみたが、洗礼をまだ受けていない人は正会員にはなれないと言って断わられた。そこで、YMCAの門をたたいたところ、私の大学のYMCAは無教会運動の影響があったせいか、まだ洗礼を受けていなかったにもかかわらず、入会することができた。ところが入会してみると、生き生きとしたクリスチャンは一人もおらず、私が積極的に発言すると、すぐ委員にさせられてしまった。

一方、大学は戦時中の空襲のおかげで、いくつかの建物は焼失し、そのため、われわれ新入生たちは、二部授業をせざるをえなくなった。日月水金のクラスと日火木土のクラスの2つに分けられた。いずれも日曜日には授業をするのである。そのことを知った時、私はだれにも相談せず、日曜授業反対の署名活動を行なった。しかし今の時代とは違い、終戦直後の大学では、大学の方針に反対する文書に自分の名前を書くことは、それだけで大学ににらまれると考える学生が多く、署名に応じてくれる人はごく少数でしかなかった。そのため、それは挫折してしまった。

そこで今度は、大学内で日曜礼拝をしようと思い、その運動を起こした。クリスチャンと称する多くの学生たちは、これに協力するどころか反対する始末であった。日曜日の昼休みに来られる牧師のいるわけがないと言うのがその理由であった。しかし、私はこれを強行することとし、サークルを立て上げなければならず、そのため「キリスト者学生会」を作り、日曜礼拝を学内で行うことにした。この「キリスト者学生会」こそ、その後、日本全国のほとんどの大学に広がっていくキリスト教学生サークルとなっていった。

そして、私の大学では、学内で路傍伝道をしたり、大きな集会を持ったりして、多くの学生たちに生きる喜びを体験してもらった。消極的な私をこのように積極的な人間に変えてくださった神こそ、世界を創造し、支配しておられる全能の神にほかならない。

2007年7月28日土曜日

死の恐れの解決

だれもが死を恐れる。それは、どんな人でも、死後、生前の善悪についての総精算があって、神に裁かれるのではないかということを知っているからである。聖書もそう教えている。「人間は、だれでも一度は死に、死後裁きを受けなければならないことが決まっている」(ヘブル9:27)。また、「あなたの神に会う備えをしなさい」(アモス4:12)とも勧められている。神に会う備えとは、死への備えのことである。死後、私たちは皆、神の裁きの座の前に立たされる。その準備のできていない人は、いつまでも死に対する恐れを持ち続けなければならないだろう。

確かに自然的な死がある。この世に存在しているものには、初めがあり、終りがある。しかし、最初の人アダムが罪を犯した時、それ以来、人間の死には、自然的死のほかに、罪の刑罰としての神の呪いという意味が加えられるようになった。だから、死は恐ろしいのだ。もしも自然的な死だけなら、苦しまずに死ぬという方法でそれを行うことに何の躊躇も感じないだろう。しかし、人は皆死を恐れる。死後の裁きによって、神の呪いを永遠に受け続けなければならないからだ。

しかし、神の呪いは死後だけにあるのではない。すでに罪を犯している現在、私たちの上にのしかかってきている。何が善であるかを知っているのに、その善を行わないで悪を行ってしまうのは、私たちが罪の奴隷だからだある。自分さえよければよいと考えるエゴイストの現実も、対人関係において苦しまなければならないのもそうだ。

私たち人間にはどうすることもできない死の問題は、一体どうしたら解決できるのだろうか。罪を持っている私たちは、皆罪の呪いの下にあって、死の恐れを抱いている。しかし、私たちには死の解決者、勝利者がおられる。それがイエス・キリストである。一度は死なれたが、その死に勝って復活された。このお方を信じることによって、私たちもまた死の恐れに打ち勝ち、勝利者となることができる。

このように神の子どもたちは皆、人間として肉体を持っているので、イエスもまた同じように肉体を取られた。それは、人間として死ぬことにより、死の力を持っている悪魔の力を滅ぼし、一生涯、死の恐怖に取り付かれている人々を解放するためである。(ヘブル2:14-19)

参照「死への備え」(いのちのことば社)

2007年7月25日水曜日

本当の人生を見出すまで

私は本当の人生を見出すまで空しい人生を送っていた。まず私は体が弱かった。だから二十歳まで生きられるのかどうかを危ぶんだ。そんな私でも、戦争の影が濃くなってくると、いずれは徴兵検査で引っ張り出されると思い、それならばいっそのこと将校となる道を選ぼうと思って、旧制の中学を卒業すると、陸軍経理学校を受験した。すると合格して、まだ若冠17歳で士官候補生となってしまった。予科を終え、本科生になった時、日本は戦争で負け、心ならずも復員して帰って来た。

今まで教えられてきたすべてのことは偽りであって、何が本当のことなのか分らないまま、それでもどこかに真理はあるはずだと思い、それを求め続けた。

時代は変り、もう一度人生を一からやり直そうと思い、終戦の翌年、大学に入ったのだが、私の心の中にポッカリと空いてしまった空洞を埋めるために、本を求めては読んでみたり、修養団と呼ばれるような所へ行ってはみたけれども、私の空虚な心を満たしてくれるものは見出せなかった。

戦争中は、敵性語と言って忌避されていた英語をもう一度見直さなければならなくなった時、士官候補時代の友人が、英語をただで教えてくれる所があると言って連れて行ってくれた所が、教会の英語バイブル・クラスであった。私などは昔英語を勉強したことはあったが、そこでは英会話などという科目は全くなかったので、何を言っているのかさっぱり分らなかった。

そこへ教えに来ていたアメリカ兵(GI)が、私たちを週末に開かれているGIゴースペル・アワーという集会に誘ってくれるのだが、聞いてみると、キリスト教の集会だと言うので、断り続けていた。ようやく行こうと言って彼に答えたところ、当日になり、あいにく風邪を引き、熱がある。しかし、約束した以上行こうと思い、父の外套を借り、マスクをして出掛けて行った。

その晩、私は初めてキリストの福音を聞いた。そして、それを信じたのである。その時、私の心の中に思わぬ変化が起った。私のそれまで罪とも思っていなかったものがはっきり罪と示され、それらがすべて赦されたことを知った。心は満たされ、死に対する恐れが全く消え、引いていた風邪もいやされていた。この日から私は本当の人生を歩み始めることができた。それは、1946年11月30日のことであった。

2007年7月21日土曜日

科学的真理と宗教的真理

科学的真理は、だれでもそれを認めるのに、宗教的真理になると、それを認める人と認めない人に分れてしまう。それは、宗教的真理が明瞭でないからだと早合点する人がいるけれども、そうではない。前に「二つの認識法」について述べた時、科学的認識法というのは、自分たちの前に置かれた事柄を、客観的に見たり観察したりするわけだから、比較的事柄が一致しやすいという特徴を持っている。しかしながら、宗教的な認識法ということになると、そこへ飛び込んでいく方法以外にないので、客観的な普遍妥当性がつかみにくくなるということを説明しておいた。しかし、宗教的真理はこの方法以外に認識することができないとも言った。そのことをもう少し別の角度から考えてみたいと思う。

科学的真理の場合、それを頭で認めさえすればそれで済む。しかしながら、宗教的真理ということになると、それを頭で認めさえすればそれで済むわけではなく、そこに価値判断が入って来て、自分の生活に直接関わってくるから、それを認めてしまうと、今のままの生活をそのまま続けていくことができなくなる場合には、認めたくないという極めて利己的な要素が入ってくることになるわけである。

具体的な例を挙げると、1足す1は2ということは、ただ頭で認めればそれで済むということだが、宗教的真理になると、そうはいかない。人間が罪人であるということは、人間一般が罪人であることを認めればそれで済むということではない。むしろ自分が罪人であるということを認めなければならないことで、そうすると、このままでは罪人である自分は滅んでしまうわけだから、滅びたくなければ、悔い改めて、主イエス・キリストを信じなければならないはずだ。つまり、今の生活をそのまま続けていくことはできないわけで、そこにそうしたくないという利己的な思いがからんできて、その真理を認めたくないということが起ってくるのである。

多くの人が、「キリスト教が善いのはよく分っているのですが、キリストを信じたら、もう悪いことはできなくなってしまうので、信じたくないのです」と言う。つまり、今のままの生活をし続けることができないがために、信じたくないのである。極めて利己的な価値判断が入って来るから認めたくないのであって、宗教的真理を受け入れたくないだけなのである。しかし、最後は滅びであるのに。

2007年7月17日火曜日

生き生きとした人とそうでない人

クリスチャンと言っても、生き生きとした人とそうでない人がいるのはどういうわけだろうか。それは、生まれ変わった人かどうかで決まる。生れ変わりを体験していない人は、本当のクリスチャンではないから、命がなく、生き生きとした生き方をしないのは当たり前ではないか。聖書はこう教えている。

だれでもキリストを信じるなら、その人の心は全く新しく変えられる。もうそれまでと同じ人生ではなく、全く新しい人生が始まったのである。(2コリント5:17)

この生れ変わるとか、新生と称される体験は、聖書が一貫して主張しているところである。

洗礼(バプテスマ)を受けたらクリスチャンになれるという考え方は広く普及しているが、そんなことは聖書のどこにも教えられていない。御霊によるバプテスマ(コリント1.12・13)とか、キリストに合うバプテスマ(ローマ6:3-5)と言われているのは、水によるバプテスマ(洗礼)のことではない。その実質としての生れ変りのことである。

新しい命を神から与えられた人だけがクリスチャンであり、その人が個々の教会に加えられる時に受けるのが、水によるバプテスマ(洗礼)である。

教会には2つの面がある。ちょうど人間にも、霊という目に見えない面と、肉体という目に見える面とがあるように。目に見えない面というのは、霊的普遍的教会であり、かしらであるキリストの体としての教会のことである。すでに天に召されて行った人々から現在全世界に生きている人々、さらにこれから生れてくる人々に至るまでの人々が含まれる。だから、目に見えないのは当然である。

この霊的普遍的教会は、歴史的社会的に具体化された教会という形を取る時、個々の制度化された教会となる。

この霊的普遍的教会に加わるために必要なものが、聖霊によるバプテスマ(キリストに合うバプテスマ)であって、それが新生体験である。その実質を持っている人が個々の制度的教会に加えられる時に受けるのが、水によるバプテスマ(洗礼)なのである。

だから、いくら洗礼を受けていても、その実質としての新生を経験していなければ、新しい命を頂いていないわけだから、生き生きとした生活ができないのは当たり前である。本当のクリスチャンとそうでない人との区別は明快である。聖書が教えている通りである。

2007年7月14日土曜日

奇跡が信じられない

多くの人々は、聖書の中に出てくる奇跡が信じられないという。というのは、奇跡を認めたら、自然法則はどうなってしまうのかと言って心配するのである。

そういう人々の考えは、奇跡を自然法則に反するもの、つまり反自然と考えているのである。しかしながら、奇跡は反自然ではない。超自然なのである。

神は全世界を創造された後、摂理の御業によってこの世界を動かしていかれた。摂理の御業というのは、神の直接的な介入ではなく、自然法則のようなものによって間接的に働かれることを意味する。しかし、神はある特別な目的を遂行されるために、創造の御業によって、直接介入されることがある。それが奇跡なのである。

しかしながら、奇跡というものは、全能の神の気まぐれな行為によるものではなく、全能の神のある目的遂行のためになされるものである。その目的とは、言うまでもなく、人間の救いである。私たち人間の救いのために、神は奇跡をなさった。だから、聖書に記されている奇跡は、神の気まぐれな御業なのではなく、救いという目的に向っての神の特別な御業なのである。

神は、私たち人間を救うために、その尊い御子をこの世にお遣わしになった。永遠の神の御子が、時間の世界に入って来られたのだ。無限の神の御子が、有限の世界に入って来られたわけである。絶対者であられる神の御子が、相対性の世界に入って来られたのである。このこと自体が奇跡である。だから、主イエス・キリストがご降誕される時の処女降誕も、その地上生活において、子供一人分の弁当を2万人以上の人に食べさせた奇跡も、水の上を歩かれたことや、病人を癒したり、悪霊につかれた人から悪霊を追い出されたり、死人を生き返らせたことや、また、十字架上で死なれた後、死人の中から復活されたということにしても、そこに奇跡が伴うのは当然のことでなければならない。

そういうわけで、この奇跡の記事を合理化して、ある教訓の象徴的記述であるとしたり、科学的に説明しうる方法を考えたりすることは、全く的外れであると言わなければならない。奇跡は、そのまま奇跡として受け取り、信じなければならないのである。

2007年7月11日水曜日

思い煩いの処理法

思い煩いも厄介な問題である。人によって思い煩う事柄は違う。ある人は,経済的な問題で思い煩うかもしれないが、ほかの人は対人関係の問題で思い煩う。ある人は、入試や入社の問題いで思い煩い、ほかの人は失恋で思い煩う。また別の人は、事業の失敗や失職で思い煩い、ほかの人は病気のことで思い煩う。人によりその対象は違っていても、だれでも何らかの形の思い煩いというものを持っている。

人が思い煩うのは、自分が全知全能ではなく、自分の思った通りにいかなかったためであることが多い。要するに、自分の足りなさと、自分の思い通りにいかなかったというかなり自分中心の考え方に原因がある。

ところで、思い煩いというものは、現在の苦しみや、将来への不安など、自分の思いを、ああでもない、こうでもないと決めかね、心を千々に砕くことである。

こうした思い煩いの解決法について、聖書はその至る所で教えているが、その代表的な箇所が次のものである。

何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるがよい。そうすれば、私たちの常識を超えた神の平安が、キリスト・イエスによって、あなたがたの心と思いを守ってくださる。(ピリピ4:6-7)

ここで教えられている解決法は、思い煩わざるをえないことが起こってきたら、それを率直に神に申し上げるということである。思い煩いというものは、自分の弱さと利己主義から発しているものであって、自己中心的な空転になりがちである。そのために、いつまでたっても、そこからは解決が見いだされないのである。そこで、私たちの心の中にある「思い煩い」の原因になることも、心の中のモヤモヤも、すべてを神に申し上げるのがよいのだ。これが祈りなのである。

私のうちにある「ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようか」と考える心の分裂ーそれが思い煩いなのだからーをそのまま神に申し上げる時、神は私たちの心に、統一を与えてくださる。その心の統一こそ「平安」なのである。常識の枠を超えたことが起ってくる時、思い煩うのだが、神にありのままを申し上げる時、神はその常識の枠を超えたところにおいて、心に平安を与え、解決してくださるのである。

2007年7月7日土曜日

前提を設けることの可否


「神が存在するかどうか分らないのに、神が存在するというようなことを言うことは、独断ではないか、非科学的ではないか」という人によくお目に掛る。神が存在することを実証してからでないと、話を進めるべきではないというのである。
 しかし、どんな考え方であっても、必ず前提というものを持っている。実証に先立つものとして、前提(ア・プリオリ)を持っている。それは、自然科学においても同様だ。普通、自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提としている。「・・・の原理」とか、「・・・の公理」とか、「・・・の定理」とか、「・・・の法則」などと呼ばれるものがそれである。原理とか、公理とか、定理と呼ばれるものの前には、大抵、アルキメデスとか、ピタゴラスとか、パスカルといった発見者の名前が付けられている。しかし、このようなものだけでは研究を進めていくことができないために、仮説を立てなければならないのである。

もっと基本的な事柄として、自然科学においては、いくつかの前提を持っている。たとえば、数概念が実在するとか、比較の概念が実在するということは、実証することはできないが、これを前提としているではないか。1、2、3といった整数や、0.1、0.2、0.3といった小数や、2分の1、3分の1といった分数や、√2、√3といった無理数や、循環数など、いろいろな数がある。こうした数の概念が実在するということを、どのようにして証明することができるだろうか。また、これはあれよりも大きいとか、こちらが重くて、あちらが軽いとか、こちらが赤で、あちらが青であるとか、こちらが美しくてあちらが醜いとか、いろいろな形の比較がある。ところで、そうした比較の概念が実在するということを、私たちは証明することができるだろうか。

このように、前提を設けること自体が悪いのではない。要は、その前提が、それから導き出されてくる結果を、すべてよく説明できるかどうかに掛ってくる。

それでは、キリスト教の前提は何だろうか。この世界を創造された唯一人の神がおられて、その神が私たち人間を罪から救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書にあるということである。この前提に立って事柄を進めていく時、イエス・キリストを信じることによって本当に救われるのかどうかが問題の焦点となるのである。参照「聖書の教理」(羊群社)

2007年7月1日日曜日

怒りの効用

前回、「笑いの効用」について書いたので、今度は「怒りの効用」について書くことにしよう。アメリカのワシントン大学の実験心理学者のケーツ教授が、こんなを実験をした。かんかんになって怒っている人の呼気をガラスの入れ物に採って、そのガラスの入れ物の周りを液体空気で冷却する。すると、その呼気から凝結した水滴が得られた。その水滴を蒸発させると、精神的に平静な人の場合には、後に何も残らないのに、かんかんになって怒っている人の場合には、そこに灰色のかすが残るのだ。そのかすを水に溶かして、実験用の動物に注射してみたところ、その動物は苦悶して頓死してしまった。

そこで、ケーツ教授は、被実験者の憤怒の状態の強弱によってその実験をしてみると、それぞれの毒性の強弱も異なったというのである。ケーツ教授の実験によると、一時間怒り続けていた人の呼気を全部採取して得られた毒性を、実験用に動物について検定してみると、数百頭の動物を即時に倒すことができたということである。これを、ピロキロに換算してみると、七十人の人間が死んでしまう毒性だということであった。

だから、怒る人は、自分の肉体をその怒りの毒によってむしばんでいるのだということが分る。ほかの人を怒りによって傷付けているだけでなく、自分自身を害しているわけだ。

だから、怒るということは、何としても避けなければならない。ところで、怒りの処理法として、一般的には二つの方法が考えられる。一つは、怒りを表に現さないように抑制する方法であり、もう一つは、怒りをぶちまける方法である。前者は、ほかの人を傷つけることはことはないかもしれないが、自分の体を害してしまう。後者は、一時的にはよいかもしれないが、根本的な解決にはならない。

それに対して、聖書はどう教えているか。

たとい怒ったとしても、罪を犯してはいけない。寝床で静かに祈りなさい。(詩編4:4)

聖書が勧めていることは、怒りを抑制したり、爆発させたりすることではなく、神の御前に出て、自分の今の気持ちを注ぎだして、神に申し上げること、つまり祈ることである。つまり、怒らないではおられない心の状態を、そのまま神の御前に申し述べるのである。そうするとき、神が私たちの恨みつらみを聞いてくださり、私たちの心に平安を与えてくださるのである。

二つの認識法


何もかもすべてのことが理性だけで分るのだと考えている人がいるけれども、そういう科学万能主義者は、理性の限界を知らない人の間違いに気付いていない人である。理性の限界とは、また科学の限界でもあって、私たちが物事を知る場合、それには、二つの認識法がある。

フランスの哲学者ベルグソンは、「形而上学序論」(みすず書房)の中で、そのことを説明している。一つは、対象の周りをめぐる仕方であり、もう一つは対象の中に飛び込む仕方であると言っている。前者の方法は、科学の認識法であるのに対して、後者の方は、宗教における神の認識法であると言っている。

同じフランスの哲学者ガブリエル・マルセルも同じようなことを言っている。言い方はベルグソンと違っているが、第一の認識のことを「問題の認識」と言い、第二の認識のことを「神秘の認識」と言っている。これは、彼の「形而上学的日記」の中に記されている。

彼によると、「問題」というのは、自分の存在から離れて、自分の前に投げ出されてあるということなのである。「問題」つまりプロブレムという英語は、ギリシャ語のプロブレーマから来たもので、「前へ」という意味のプロと、「投げる」という意味のバローという二つの言葉が結び付いたもので、マルセルは自分の存在と関係ない事柄を表すのに、この「前に投げ出されている」プロブレムという言葉を用いたわけである。この問題という領域において事柄を認識する時には、すべての人の認識は一致することができるから、いわゆる普遍妥当的な真理というものが成り立つ。たとえば、一と一を足せば二であるとか、三角形の内角の和はニ直角であるというような、人間の存在と無関係な、「前へ投げ出されている」問題の領域の事柄を知るには、知性は実に透明で曇りがない。

ところが、「神秘」となるとそうはいかない。「神秘」というのは、マルセルの言葉で言えば、「自分自身が可能であるための内在的な条件を侵蝕するような問題」だからなのである。しかしながら、神を認識しようと思えば、この神秘の認識、つまり飛び込んでいく以外には決して認識することができないのである。

今日の日本人の多くは、問題認識には慣れていても、神秘の認識、つまり飛び込んでいく以外にない認識、この信仰の認識を全く知らない。