2008年12月28日日曜日

日本人は霊性が幼稚

日本人は、宗教に関しては極めて幼稚だ。宗教学的に言うと、最も原始的な宗教であるアニミズムを信じている。古い木などにしめ縄などを張っているのは、まさしくそれで、そこに何らかの霊が存在していることを信じているからではないか。それを肯定する人も、しない人も、少なくとも宗教に関しては、極めて幼稚である。

宗教を否定することが科学的であると考えるのも、これまた幼稚と言うほかはない。科学万能主義の考え方に至っては、もはや何をか言わんやというところである。

そうかと思うと、宗教にこる人もいないわけではない。年始などに神社やお寺に群がる人も、本当に信仰を持っているのかと言うと、ただ一年のご利益のために詣でるにすぎないのではないか。ご利益が宗教に結び付くところには、宗教についての本質が全く分っていない姿をそこに見るのである。

宗教とは、何であるよりも、人間の実存的な問題を扱うのであって、ほかの人によって代ってもらうことのできない問題、つまり、エゴイズムとか、苦しみとか、死という問題が、実は宗教の本質にかかわることである。

日本人が宗教を考える場合、それがご利益と結び付けてしか考えられないところに、日本人の霊性の貧困さを表わしているとは言えないだろうか。そこにあるものは、自分のとって得をするか、損をするかということでしかない。

人間は徹頭徹尾、自己中心的だから、そういう考え方をするのも仕方がないのかもしれないが、実はそういう考え方をしている限り、本当の解決には至らないということを知らない。そのことが霊性の貧困さと幼稚性を表わしているとは言えないだろうか。

いつでも、そこには自己保身の姿がある。宗教において、本当のものをつかむためには、自己中心の考え方をやめなければならない。自分が中心なのではなく、この世界は、この世界を造られた神がおられて、そのお方を中心とした考え方にコペルニクス的転換をする必要があるのだ。そうする時、今まで見えなかったものが見えてくると同時に、今まで見えていたわずらわしいものが見えなくなってくる。そこから道が開かれてくる。幼稚な霊性からの解放がなされていく。幼稚なアニミズムの神ではなく、造り主の神がいくらかでも分ってくるだろう。

2008年12月22日月曜日

憎しみは愛に

1919年に一人のアメリカ人宣教師が日本に来た。その名前はJ・H・コルベと言った。彼は平和主義者であったため、次第に軍国主義化していく日本では、いろいろな面で圧力が加えられ、ついに1939年に日本を追われ、フィリピンへ行かざるをえなかった。フィリピンではパナイ島で伝道活動をしていたが、やがて太平洋戦争が始まり、山中へ逃げていった。1943年に、彼は奥さんのシェルマやそのほか9人の宣教師たちと共に、日本軍に捕えられてしまった。日本軍の隊長は、今ごろアメリカ人がこのような所にいるのはスパイ活動をしているためだと決めつけ、処刑することにした。隊長はこう言った。
「お前たちはこれから処刑されるが、30分だけ時間を与えるから、最後に今生の別れを惜しむがよい。」

こういわれて、コルベ宣教師夫妻は、聖書を取り出し、新約聖書のマタイの福音書5-7章に記されている主イエス・キリストの山上の説教の箇所を一節ずつ交読した。約15分ぐらいかかって、交読した後、二人は祈った。
「もう時間だ。さあ、やめい。」

隊長の号令と共に祈りを中止させられた後、二人は日本刀で首を切られて殺された。

コルベ宣教師の二人の娘マーガレットとアリスは、勉学のためアメリカへ帰国していたため難を逃れた。この知らせがアメリカにいたマーガレットとアリスのもとに届けられると、彼女たちは悲しみに打ちひしがれた。やがて悲しみは憎しみに変り、両親を殺した日本人に対して、いつの日か仇を打ってやろうと思うようになった。しかし、戦時中のこととて、近くに日本人がいないので、すぐにどうのということができずにいた。

毎日、悲しみと憎しみの中で神に祈っていたところ、ある日、祈りながら、ふとこんなことを考えていた。
<両親は日本の軍人に殺される前に祈っていたと言うけれども、一体何について祈っていたのだろうか>

そのことを考え始めると、どうしても二つのことに思い至るのだ。働き半ばして殺されたあのフィリピン人の救いと、両親をその国から追放し、両親を殺した日本人の救いのためだ。そう考えてみると、自分たちの願いと思いが、両親の最後の祈りと全く反対のことであったことに気付かされた。そうは言うものの、そう簡単に憎しみが取り去られるものではない。悶々とした毎日を過ごしているうちに、聖書の御言葉によって、目の前が明るくなる経験をした。
「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちも他の人のために喜んで自分の命をささげるべきである」(1ヨハネ3:16)。

そして、マーガレットはこの御言葉通り、日本人に対して愛を示したいという思いが心に湧いてくるのをどうしようもなかった。しかし、近くに日本人がいるわけではなく、なかなかその機会はなかった。ところが、捕虜収容所に日本の軍人がいることを知り、彼女は早速ボランティアとして志願し、日本人捕虜たちの身の回りの世話をすることにした。

捕虜収容所にいる日本人捕虜たちは、マーガレットのことを話題にしていた。ある日、その日の働きを終えて帰ろうとするマーガレットを捕まえて聞いてみた。
「あなたはどうして私たちの身の回りのことをこんなに親切にしてくださるのですか。」

すると、マーガレットは、今述べたような話をして聞かせた。すると、それを聞いていた日本人の捕虜たちには、さっぱり理解できない。日本の軍人たちは、「親の仇は子が討て。子が討てなければ孫の代になっても」と教えられてきていたから、彼女の気持ちなど理解できる道理がなかった。

捕虜たちは理解できぬまま日を過し、いよいよ敗戦後、捕虜交換線で帰国した。この人々を出迎えた人々の中に、かつて太平洋戦争勃発の時、真珠湾の爆撃隊長だった淵田美津雄元海軍大佐がいた。彼はこの話を捕虜たちから聞いたが、さっぱり分らず、マーガレットの人生を変えた聖書を手にし始めた。そして、新約聖書のルカの福音書23章34節の所まで来た時、彼は電気に打たれたかのように感じ、キリストの御言葉に捕えられてしまった。それはご自分を殺そうとする人々のために、十字架上で彼らの赦しを祈られた御言葉である。
「お父様。どうかこの人々を赦してあげてください。この人々は自分たちが何をしているのか、何も分っていません。」

彼は、マーガレットの人生を変えた神の霊によって捕えられ、彼もまた憎しみが愛に変えられて、余生をクリスチャンとして通した。

コルベ宣教師のもう一人の娘アリスは、自分が働いて得た一年分の給料を日本伝道のためにささげたのである。

2008年12月14日日曜日

身代わりの愛

1954年9月26日のことであった。折しも日本列島を直撃した台風が、青函連絡船洞爺丸に襲い掛ってきた。函館を出た洞爺丸は、波が荒いため、港内に借泊した後、七重浜へ行き、そこで座礁することにし、乗客には全員救命具を着けるようにという館内放送があった。そうしているうちに、
「大丈夫です。大丈夫です」

と叫んでいた船員の言葉がうそのように、水は容赦なく船内に流れ込んできた。

一等船客は、救命ボートに乗り移っていた。その時、二人の日本人の若い女性が病人として連れて来られた。しかし、人々はそれに気がつかぬふりをして、どんどん救命ボートに乗り移っていた。しかし、そこに二人のキリスト教の宣教師がいた。一人はアルフレッド・ストーンと言い、もう一人はディーン・リーパーと言った。彼らは泣いているその女性たちを見ると、見て見ぬふりをすることができず、
「ドーシマシタ?」

と聞いた。救命具のひもが切れたと言って泣いていた。
「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマショウ。」

宣教師たちは自分たちの着けていた救命具を外しながら、こう言った。
「アナタガタハ、スクワレテイマスカ?」

彼女たちは、
「私は助かりたいの」

と叫んだ。宣教師たちはこう言った。
「ワタシタチハモウスクワレテイマス。ケレドモ、アナタガタハ、スクワレテイマセンネ。デスカラ、タスカッタラ、カナラズキョウカイヘイッテ、スクワレテクダサイ。」

そして、自分が乗るべき救命ボートにこの日本の若い女性たちを乗せてやり、自分たちは乗らぬことにした。しかも、自分の救命具までその女性たちにあげてしまった。

突然ガーンという音と共に、船は転覆し、水が船内に流れ込み、乗客の頭から水が覆ってきた。救命ボートに乗り移った人たちが全員助かったわけではなかったが、この二人の女性たちは助かった。その代わり、あの二人の宣教師たちは、千数百人の人々と共に海の藻屑と消えてしまった。この話は、助かった二人の女性が、宣教師たちの最後の言葉通り教会を探し、救いの体験をした後、そのあかしをしたことによって明るみに出た。

だれが、見ず知らずの人のために命を投げ出すことができるだろうか。聖書で、
「人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません」(ヨハネ15:13)

と教えているとおりである。しかし、主イエス・キリストの愛を知った人には、それが出来る。次のように教えられているからである。
「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちもほかの人のために喜んで自分の命をささげるべきである。」(ヨハネ13:16)

これには、後日物語がある。リーパー宣教師には四人の子供、三男一女がいた。その一人娘リンダは小さくて、父の顔を覚えていない。彼女は十四歳の時、恵泉女学園に半年留学していた。その時、洞爺丸記念の会が函館で開かれるということを知り、函館へ行った。会が開かれるまでにまだ時間があったので、ゆかりの地七重浜へ行ったところ、リンダは案内した人に対して、
「一人にしてほしい」

と言って、まだ冷たい海の中へどんどん入って行き、頭が隠れるくらいの所まで来ると、急に大声を出し、暴れ始めた。
「パパ、なぜ死んだの。パパ、なぜ日本人ために死んだの。パパ、ここに帰って来て。」

両手で水をたたきながら叫び狂ったリンダは、その後一言もしゃべらず、一種異様な様子であったというのである。

やがてアメリカへ帰り、カリフォルニアから次のような手紙が案内した人のところに送られてきた。
「まことに申しわけありませんでした。あの時は本当に失礼いたしました。しかし、ようやく分ったのです。子供のころから、母が父の写真と一緒に枕元に置いてくれていた聖書を、ようやく開くことができました。そこにはこう書かれていました。『人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません』(ヨハネ15:13)。私はこの御言葉によって、なぜパパが日本人のために死んだのかが分ったのです。そして、主イエスの愛がそうさせたのだということも。」

そして、リンダは宣教師夫人として、また日本に帰ってきたのである。

2008年12月7日日曜日

愛は人を動かす

1900年代に、山口県の秋吉台で大理石の発掘をしていた本間俊平という人がいた。初めのうちはキリスト教を妨害していたが、後にクリスチャンとなり、秋吉台で刑余者と生活を共にしながら、彼らを導いていた。彼のもとには沢山の前科者がおり、刑を終えると、人の紹介によって、ここへ集まって来ていた。

その中に、相川勝治という至って乱暴な男がいた。彼は元警察官で、警部補にまでなった人だが、酒のために退職し、その後十八か所で強盗を働き、あちこちで悪事を重ねた後、ついに捕えられ、十六年九か月の刑に処せられた。彼は元警察官だから、法律はよく知っているし、強情な上、短気で、入獄中もわがままで通し、乱暴を働き、そのため、看守長に始末書を書かせるほどひどいことをするものだから、刑務所でも持て余すほどだった。ところが、最後の三年余りは、聖書を読むようになり、出所後は教誨師の紹介で、妻子ともに秋吉台にやってくることになった。

本間俊平は、彼を七、八人の青年たちの小頭として、大理石の切り出しをさせた。ところが、相川は予想以上のわがまま者で、ほとほと困ってしまったほどだった。ある日のこと、本間は思い余ったあげく、意を決してこよ子夫人を呼んで、こう言った。
「お前は、今日まで私の妻としていろいろ尽してくれたが、先ごろ来たあの男は、お前も知っての通りの人間で、あの男のためにお前か俺のどちらかが、生首を飛ばされるようなことが起るかもしれない。今さら改まってお前の決心を聞くまでもないが、もしもそのようなことが起った時、音をあげるようだと困るが、どうかね。その時、お前の口からキリスト様に仕える者らしからぬ言葉が出たら、神様に仕える者として大きな恥だと思うが、どうかね。」

すると、夫人は、ご自分の堅い決意をこのように述べられた。
「私は、何一つの取り柄のない者でございますが、イエス様の十字架だけは心から信じております。もしもそのようなことを私の身に引き受けますことが神様の御心でございますなら、私は喜んでお引き受けいたします。」

ところで、相川の下で働いている一人の青年が、強情という点では彼よりも上手で、彼の言うことに従わないために、相川はこよ子夫人に、「あいつを追い出してください」と何度も訴えた。ところが、夫人はどうしても聞き入れないので、あるとき、また同じことを申し出て、夫人に迫った。しかし、夫人はどうしてもそれを聞き入れず、このように言うのである。
「ここに来てもらっている人たちは、自分で勝手に出て行くか、あるいはここにいる必要がなくなり、善くなって帰っていただくことはありますが、悪いからとか、強情だからという理由で、こちらから出て行ってもらうわけにはいきません。」

このように、キッパリ断られたので、相川は怒り出し、
「これだけ言っても聞いてくれないのなら、あなたを殺して、おれも死ぬ」

と怒鳴りながら、隠し持っていた石切りのみを取り出して、夫人の左腕に斬りつけた。その時、夫人は少しも騒がず、血潮のほとばしる左腕を右手で押さえながら、
「神様。どうか相川を赦してやってください」

と祈るばかりであった。相川はただブルブルと震えているところを、物音を聞きつけて来た人々に取り押さえられてしまった。

そうこうしているところに、こよ子の夫、本間俊平が帰って来、この有様を見ると、相川の前に手を付いて、こう言った。
「お前が殺したいほど憎かったのは、このおれだろう。相川、どうか赦してくれ。さあ、家内を早く医者の所へ連れて行ってくれ。」

この時以来、相川は心から悔い改め、真人間となり、後に本間俊平の下を去り、自分も同じように刑余者の面倒を見るようになった。本間俊平夫妻のいのちがけの愛が、この箸にも棒にもかからなかった男、相川勝治を変えたのである。

ちなみに、本間俊平は結婚をする時、四つの条件を出したと言われている。第一は、家柄などを問題にしないこと。第二は、学歴のない人であること。第三に、容貌などどうでもよいこと。しかし第四に、愛の人であること。そして、この四つ目の条件にかなった女性と、二十五歳の時に結婚した。それが、こよ子夫人だったのである。

だから、家柄や学歴などどうでもよい。愛さえあれば、驚くべきことをすることができる。神がその人を動かして、驚くべきことをさせてくださるのである。箸にも棒にもかからない人を変えてくださることは、今も同様である。

2008年11月30日日曜日

トルストイの生涯(2)

トルストイがモスクワの貧民窟について彼の友人たちに語る時、彼は泣き叫び、こぶしを振るいながら、
「どんな人でもこのような生き方をしてはならないのだ」

と言っては、呆然とするのであった。こうして、56歳になった時、彼は、「私たちは何をなすべきか」という論文を書き、不幸な人たちが救われなければ、私たちも本当には救われないのだと告白し、このように語っている。
「本当の人間は、理性的な生活を送らなければならない。そして、理性の活動は愛であって、愛は直ちに実行が伴わなければならない。」

トルストイは、主イエス・キリストの山上の説教を実践しなければならないと考え、それを主張しながらも、実践しきれない自分に悩み続けた。

このようなトルストイの人間性に徹した主義主張に対しては、多くの追従者が現れてきた。とくに50歳の時から書き出した、宗教的な通俗物語は、ロマンロランが、「芸術以上の芸術」と推薦したほどのもので、それは、ロシア本国だけでなく、全世界の人々にも広く読まれ、その発行部数は、なんと一年間に400万部にも及んだと言われている。

トルストイの主張は、ロシア正教会の教えとは相容れないところから、ついに彼が73歳になった時、彼はロシア正教会から除名されてしまった。その除名が発表された時、それとも知らずにクレムリン宮殿の近くの広場を散歩していたトルストイを、労働者を加えた学生たちの一群が取り囲み、除名に憤慨し、かえってトルストイを激励するという場面もあった。やがて、各地からはトルストイを激励する文書が舞い込み、トルストイの誕生日のようなにぎやかさを呈したほどであった。

日露戦争が勃発し、トルストイを悲しませたのは、彼の76歳の時のことであった。彼は年老いて、なお自分の言行の矛盾に悩み続けた。特に彼の言葉に従って立派に実行しているように見える、いわゆる彼の弟子たちの姿を見ては、自責の念にかられた。そのころトルストイは、よく目に涙を浮べながら、こう言った。
「よく人が、お前は立派な説教をするけれども、お前の生活はどうだ、お前のやっていることはどうだと言って責める。その通り、私も本当に悲しく思っている。自分は説教したいのはやまやまだけれども、説教はしないつもりだ。自分のやっていることが主流なら説教もできようが、自分のやっていることがよくないのだから仕方がない。私のは説教ではない。ただ人生の意義を見出したいと努力しているにすぎない。私もその教えを守ろうと努力していることだけは認めてほしい。」

トルストイは、パウロが語っている福音(パウロの手紙の中にある)は、神秘的説教であり、倫理的な面が欠けていると言って批判していたが、彼の理解していたキリストの福音は、いわゆる道徳訓にすぎなかった。そして、それを実行するところに重点が置かれていた。

主イエス・キリストの山上の説教にある、
「右の頬を打たれたら左の頬も向けてやりなさい」

を実行することだった。また、
「あなたの敵を愛しなさい」

を実践することであった。

このように、キリスト教の福音をただの道徳訓と規定したトルストイは、自らその実践が出来ないことに悩み、絶望しなければならなかった。そこに、妻から逃げ出し、家出をし、ウラル・リヤザン線の一寒村アスターボーの駅で、独り寂しく死ななければならない運命が待っていたのである。

トルストイは、自分の心を責めるものが、彼の名声であり、富であり、彼の人間としての幸福であると考えた。そして、彼の晩年は、それらの一切から逃れたいと思ったのだ。80歳の坂を越し、厳しい妻の監視の元で、トルストイの心は若者のように悩んだ。彼の悩みを病的わがままと見て、二度までも試みた家出を防ぎさえすれば平和が与えられると堅く信じていた妻は、夜も昼も親切な言葉を使って、トルストイの周囲につきまとい、監視し、自由と解放を望むトルストイの魂を、自分自身に縛り付けておこうとした。しかしながら、ついにトルストイは家出に成功するのだが、自由になった彼にはすぐに死が訪れてきた。

人間の力で愛の人になることは出来ないのだということを、トルストイの生涯は私たちに教えてくれている。トルストイの涙ぐましいまでの苦闘も、ついに実を結ぶことはできなかった。聖書が一貫して、人間は自分の力によっては決して愛の人にはなれない罪人なのだと教えていることが、これでよく分ったのではないかと思う。

2008年11月23日日曜日

トルストイの生涯(1)

ロシアの文豪トルストイの名前を知らない人はいないだろうと思う。たとい彼の本を読んだことはなくとも、彼の大作「戦争と平和」の名前を知らない人はいないだろうと思う。

世界的文豪レオ・トルストイは、1829年8月28日、ヤスナヤ・ポリヤナに生まれた。一歳の時に母を失い、八歳の時に父を失い、その後、母親代わりとして彼を育ててきてくれた叔母を十三歳の時に失ってしまっている。そうしたことから、彼は十六歳になると、深い懐疑に捕えられ、それ以来「青春の荒野」の旅をしなければならなくなった。そのため、それまでずっと続けてきた祈祷をやめ、教会にも行かなくなってしまったのである。そして数年間というものは、虚無的な考え方に走り、賭け事にふけったり、ジプシーの女に迷ったり、また酒におぼれたりして、獣のような生き方をしていた。

しかし、彼は驚くほどの健康体の持ち主で、クリミヤ戦争に参加した時も、セバストポーリの籠城戦では、勇敢に戦い、将来、将軍になることを夢見たこともあったほどである。しかしながら、戦争の悲惨さを見るに及んで、人間の運命と人生の目的と永遠の真理を瞑想して、その中から初期の文学作品が生まれていった。

彼は三十四歳の時、モスクワの王宮に仕えていた医師ベールスの次女ソフィヤと結婚した。その時、ソフィヤはまだ十八歳になったばかりの乙女であった。その結婚は極めて幸福な結婚であって、彼は友人に「私は全く新しい人間になりました」と手紙をしたためているほどである。結婚後、彼は「戦争と平和」の大作に取りかかり、妻ソフィヤの助けを借りて、数年にしてこれを完成することが出来た。そして、彼が五十歳になった時には、「アンナ・カレニナ」も完成して、文士としての名声は世界に広まり、文豪としての地位も確保していた。

ところが、世界的に名声を博した五十年の彼の人生も、トルストイの心には平安をもたらさなかった。そして、年齢にも似合わぬほど若々しい煩悩が彼の心を捕えていたのである。時には、自殺の誘惑にもかられるほどであった。しかしその時、彼はかろうじて新約聖書の福音書によって救われた。彼は、当時のロシア正教会の持つ迷妄から解放されたいと思い、聖書を原語で学ぼうと決心し、ヘブル語やギリシャ語さえも勉強するようになっていた。

このように、文学者としてのトルストイは、宗教家としての面も持つようになっていった。いや、むしろ文学者という過去の一切の名声をかなぐり捨てるために、自分のすべての作品を、ちりあくたのように思い、聖書の研究と宗教論文に熱中していったのである。そのようなトルストイの姿を見て、彼のうちにある従来の才能に期待していた人々は失望し、多くの友は彼のもとを去って行ってしまった。しかし、トルストイは、ヤスナヤ・ポリヤナの預言者と認められ、その名声はとみに上がり、彼を慕う人々もまた現れるようになっていった。

ところが、ここにはからずも、トルストイを破滅に至らせる不幸がきざしていたのである。それは、文学的労作を去って宗教に熱中するトルストイに対して、どうしても心から喜ぶことのできなかった妻ソフィヤとの衝突であった。全ロシアの文豪であるだけでなく、世界的大文豪となることを夫に期待していた妻のソフィヤの目には、トルストイの宗教活動が、いわば気まぐれな遊び事ででもあるかのようにしか思えなかった。だから、一日も早くこのような事が過ぎ去ってくれることを願っていた。しかも、心の中でひそかに願うだけではなく、時には面と向かってののしることもあった。こうして、この夫婦は、寄ると触ると、けんかで明け暮れるという有様になっていった。

ロシアの国に革命のきざしが見え、アレクサンドル二世が暗殺されたのは、トルストイが五十三歳の時のことであった。五十四歳になった彼は、静かに自分の生涯を顧み、人生の区切りを付けようと考え、「わが懺悔」を発表した。この同じ年の冬、モスクワでは民勢調査の企てがあって、彼は自分の目でモスクワの貧民窟の実状を見る機会があった。その時、彼はみじめな人々の有様を見て、自分が罪を犯していると感じた。彼は家に帰って来て、じゅうたんを敷いた階段を上がり、じゅうたんを敷いた部屋に入り、毛糸の暖かい上着を脱ぎ、それから白いネクタイを着け、白い手袋をはめて食卓に着き、揃いの服を着た二人の召使いの給仕によって、五品の料理を食べようとした時、自分がどんなに深い罪を犯しているのかを感じた。それは、だれかが良い生活をするということは、だれかを貧しく不幸な生活の中に突き落とすことになるのだと思ったからである。

2008年11月16日日曜日

「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」

もう何年も前のことになるのだが、私はある本を読んでいて、その本の中に出てくる強烈な印象を与える詩との出会いを経験した。今もなお私の心の中に生き続けている感動とともに、その詩は私の心に焼き付いて離れないのである。それは、重度の脳性マヒで、しかも短い十五年の生涯を送った土谷康文君とそのお母さんの詩である。

私たちが文章を書くのとは違い、一つの言葉を選ぶにも、その言葉を構成している字を、五十音図の中から一つ一つウインクのサインを出しながら、字の書ける人に示していくわけである。こうして出来たのが、次の詩なのであった。

ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくは言う
ぼくさえ 生まれてなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわの子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら

この母を思いやる切ないまでの美しい心に対して、母親の信子さんも、彼のために詩を作った。

わたしの息子よ ゆるしてね
わたしの息子よ ゆるしてね
このかあさんを ゆるしておくれ
お前が脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと 泣きました
いっぱい いっぱい 泣きました
いつまでたっても 歩けない
お前を背負って 歩くとき
肩にくいこむ重さより
「歩きたかろうね」と 母心
"重くはない"と聞いている
あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ ありがとう
ありがとう 息子よ
あなたのすがたを 見守って
お母さんは 生きていく
悲しいまでの がんばりと
人をいたわる ほほえみの
その笑顔で 生きている
脳性マヒの わが息子
そこに あなたがいるかぎり

このお母さんの心を受け止めるようにして、康文君は、先に作った詩に続く詩をまた作っている。

ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは 生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが、大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

この母親と子供の間に通ういたわりと、やさしさに、私の心が強烈に反応したのは、もはやこのような強い絆(きずな)で母子が結ばれているのを見ることがまれになってしまっているからであろうと思う。親子とは名のみで、そこにあるものは、相手のことよりも自分のことしか考えていない醜いエゴイズムしか見られないというのがほとんどではないだろうか。親の面倒を見ないで、老人ホームに預けっ放しであったり、たとい面倒を見たとしても、世間体を気にしてのことであって、愛が全く見られないのが現実である。親は親で、自分のために子供を利用し、子供は子供で、自分のために親を利用し、利用価値がなくなると、ポイと放し出してしまうのがほとんどである。最近では、平気で親が幼い子供を殺し、また子供が自分の気に食わないことを親に言われたと言って、平気で親を殺すという風潮がある。それほどまでとは行かないまでも、今日、ほとんどすべての家庭で、親子の関係は冷たく、多くの家庭は崩壊寸前である。
このような現実の中で、この心温まる詩は、泥沼に咲く美しい蓮の花を思い出させてくれる。と同時に、今日私たちが失ってしまったものが、どんなに価値のあるものであったのかということに気付かせてくれるのではないだろうか。それは、愛であり、相手を思いやる優しさである。

2008年11月10日月曜日

信仰のからくり

前に、「キリスト教信仰のからくり」について書いたこたがあった。キリスト教信仰は、何かをすることによって救われるのではなく、信仰によって救われると聖書は教えるのだが、そこで言う「信仰」というのは、「何もしない」ということなのではなく、「受け身になる」ことだと言った。そのことについて、もう少しここで考えてみようと思う。

私は元々、寝付きの悪い人間で、横になるとすぐ眠ってしまう人をうらやましく思ったものである。そんなに宵っ張りの朝寝坊の方ではないのだが、翌朝早く起きなければならないという日には、いつもよりも早く床に入る。早く寝付かなければいけないという思いが強いせいか、なかなか寝付くことができない。いつも寝ている時間が来ても、眠れずにいる。十一時、十二時、一時になっても、目はさえてしまって、眠れずにいる。そして、いつしか眠り、翌朝起きた時には、睡眠不足で、頭痛がするという具合である。夜、早く眠ることができないのは、低血圧の体質のせいだと思っていた。

ところが、ある日のラジオの放送で、一人の医者がこんなことを話しているのを聞いた。「私たちは疲れると、夜眠ります。眠ることによって疲れを取り去るのです。ところで、眠らなくても、暗い部屋で心を静かにして横になっていれば、疲れの70%は取れるのです。」これを聞いた私は、「眠らなくてもいいんだ。少し時間を長く取って体を休めていれば、疲れは取り去られ、体は回復するんだ」と分った瞬間から、眠ろうと努力する必要がないことが分り、寝付きがよくなった。それから、私は寝付きの悪さから解放されたのである。

信仰も同じだと思う。「信じなければいけない。信じなければいけない」と言って、いくら努力してみても、そんなことで信仰が持てるわけではない。神が聖書で教えておられることを、そのまま受け止めればよいのである。

これは、水泳からも教えられる。泳げない人は、妙な迷信を持っている。太っている人は水に浮くけれども、やせている人は浮かない。これは、何も知らない人の理屈である。太っていようが、やせていようが、リラックスすれば、だれでも浮くし、緊張すれば沈むのである。水がこわいと思っている人は、水に入ると緊張するから浮かずに沈んでしまう。海水ではなく真水のプールでも、リラックスすれば、顔も手も足も水の上に出すことができる。水の中に入って、リラックスすれば、体は浮き、泳ぐことはだれにでもできる。水泳の場合は、あと呼吸法を覚えれば、本当に楽しむことができる。私は時間の取れる時には、週一、二度プールに行って泳ぐことにしている。これは健康維持のためにしているのだが、しなければいけないからやっているのではなく、水の中に入って泳ぐことが楽しいから泳いでいるのである。

私は元々水がこわくて、泳げなかった。今考えてみると、水は冷たいし、泳ぐことを楽しく教えてくれる人がいなかったということもあったろう。しかし、今は夏でも冬でも温水プールだし、ゴーグルを付けて泳ぐので、目が痛くなることはなく、本当に楽しめるようになった。それは、水がこわくなくなったからである。そして、人間の体は水に浮くということが分ったからでもある。水というものがどういうものか分ったということが一番かもしれない。

信仰も同じだと思う。私たちが信じる神とはどういうお方なのかということが分ると、信じることのすばらしさが分ってくる。神というお方を、何か悪いことをしたらすぐ罰を加えられるこわいお方と思っているうちは、あたかも冷たい水と、目が痛くなるということと、よく息つぎができなかった時には、水を飲んでしまい、水は恐ろしいものというイメージが強く、いきおい水泳はいやだという思いが強かったのと同じであったのだと思う。しかし、今は水が恐ろしくなくなり、温水とゴーグルと息つぎができるようになり、水を飲んで苦しい思いをしなくなり、水泳が楽しくなったように、神が本当によく分ってくると、信仰生活ほど楽しいものはないということも分ってくるのである。

神はいつも私たちを助けようとして、私たちのすぐそばにいてくださる。聖書の御言葉を実行しようとすれば、それができるように助けてくださるお方である。そのことが本当に分れば、信仰生活の醍醐味を味わうことができる。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、あなたがたについて、キリスト・イエスの神の御心なのである」(1テサロ二ケ5:16-18)

これは、信仰者のゴールないし理想図なのではなく、今できることを教えている御言葉である。それが出来るためには、神の助けが必要で、それを求めれば、神がそれを出来るように助けてくださるのである。

2008年11月2日日曜日

キリスト教の前提

「神が存在するということを実証もしないで、それを前提とすることは独断であり、非科学的ではないか。」と言う人がいる。こういう人たちは認識論において初期的な誤りを犯している人たちである。というのは、どんな考え方でも、そこには必ず前提というものを持っているのだということを知らないからである。実証に先立つものとして、前提(ア・プリオリ)を持っている。それは、自然科学でも同じである。普通、自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提としている。普遍的原理というのは、「・・・の原理」とか、「・・・の公式」とか、「・・・の定理」とか、「・・・の法則」などと呼ばれるものがそれである。原理とか、公理とか、定理と呼ばれるものの前には、大抵、アルキメデスとか、ピタゴラスとか、パスカルといった発見者の名前が付けられている。しかしながら、このようなものだけでは研究を進めていくことができないために、仮説を立てなければならないのである。

このようなものの中でも、最も基本的な事柄として、自然科学においては、いくつかの前提を持っている。たとえば、数概念が実在するとか、比較の概念が実在するということである。1、2、3といった整数や、0.1、0.2といった小数や、2分の1、3分の1と行った分数や、√2、√3といった無理数や、循環数など、いろいろな数がある。このような数の概念が実在するということは、どのようにして証明することができるだろうか。

また、これはあれよりも大きいとか、こちらが重くてあちらが軽いとか、こちらが赤であちらが青であるとか、こちらが美しくてあちらが醜いとか、いろいろな形の比較がある。ところで、そうした比較の概念が実在するということを、私たちははたして証明できるだろうか。そして、実証してもいないものを、あらゆることに先立って前提として持って来ることが独断であり、非科学的であるというのであれば、自然科学も同じ言葉で批判されなければならないはずだ。しかし、これほどナンセンスなことはない。

これで分るように、前提をもうけること自体が悪いのではない。要は、その前提が、それから生ずる事柄を、すべてよく説明できるかどうかにかかっているのである。

つまり、前提というものは、それ自身だけをどんなにいじくり回してみたということで、それが正しいかどうかを判断することはできないのである。その前提が正しいか、それとも誤っているかを決するものは、その前提から導き出された結果(ア・ポステリオリ)が、すべてのことに正しく当てはまるかどうかによる。つまり、木はその実によって知るという方法以外に、前提の正誤を判断する道はない。

一つの例を挙げよう。湯川秀樹博士が、中間子仮説を発表したことがあった。これはまだ仮説だから、当然まだだれもその実体を実証したわけではなかった。それが実在することを実証するためにも、前提として設けなければならない事柄は、「中間子があるとするならば・・・」ということことである。「中間子がないとするならば・・・」ということは、前提とはなりえないのである。つまり、前提というものは、いつでも肯定的、存在的で、したがって限定的でなければならないのである。そしてその後、世界中の学者がたゆみない研究を続けた結果、約三年ほど後に、わが国では理化学研究所の仁科博士の研究室で宇宙線の中に捕えられた。こうして湯川博士の一仮説は、「中間子論」として、一躍広く人々に知られるようになり、後に日本で最初のノーベル物理学賞受賞者となったのである。

それでは、キリスト教の前提は何なのであろうか。それは、次のような一連の事柄である。この世界を創造された唯一の神がおられること。そして、その神が私たち人間を罪から救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書であるということである。だから、神の実在は前提であって、それ以外の何ものでもない。しかも、これは前提の要件にかなっている。肯定的であり、存在的であり、限定的だからである。また、この前提で気付くことは、神が創造主であるということである。つまり、永遠とか無限とか絶対というものが、ただ抽象的に存在しているのではなく、そうしたものがすべて、この世界の創造主である唯一の神に属しているという考え方がある。永遠という抽象的な世界があるのではなく、永遠とは神のみに属するのである。同様に、無限も絶対もそうであって、そうした世界は、神においてのみ具体化して実在しているのである。それだけでなく、この神は創造主なのだから、啓示をなさるはずである。

この前提に立つ時、神の御心の啓示である聖書によると、イエス・キリストを信じれば救われるというのである。だから、イエス・キリストを信じて救われれば、この前提は正しいことになる。そして、それ以外の方法で神の実在を知ることはできないのである。

2008年10月26日日曜日

キリスト教信仰のからくり

一般に人々が考えているところは、善行を積むことによって天国への階段を登って行くことができ、天国に入れるというものだと思う。ところが、聖書が教えているのは、いくら人間が善行を積んでも、それで神に受け入れられたり、天国へ行けるのではないというのである。それでは、どうしたら神に義とされたり、救われたりするのかと言うと、信仰によってであると言うのである。
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28 新改訳)

これをもう少し分りやすく訳されている現代訳で見てみると、次のようになっている。
「だから、私たちが救われるのは、律法を行なうことによるのではなく、キリストを信じることによるだけだというのが、私たちの主張しているところにほかならない。」

つまり、聖書の教えているところによると、私たちが救われて天国へ行くことができるのは、私たちが何か善行をすることではないというのである。それでは、何もしないことなのかと言うと、そうではなく、信仰によるのだというのである。なぜ何かをすることではなく、それと反対のものとして、そこに信仰が来るのかということが疑問となるだろう。

ここで教えている「何かをすることではなく信仰による」ということは、何もしないことだと考えると、分らなくなってしまう。むしろ、アクティブに何かをすることではなく、パッシブに受け身になることだというのである。

神と私たち人間の関係は、創造主と被造物の関係である。これが最も基本的なことである。この両者の関係を、もう少し分りやすく説明すると、放送局とラジオの関係と思えばよく分るだろうと思う。放送局というのは、いつも一方的に電波を発信している。それに対して受信機であるラジオは、一方的にそれを受信するだけである。そのラジオがどんなに性能が良くても、放送局が発信しているものを聞こうと思えば、その電波に合わせなければ、放送局から発信しているものを聞くことができないのである。かりに1650キロヘルツの電波に乗せて、すばらしい音楽が放送されていても、それを聞こうとすれば、こちらの受信機であるラジオは、1650キロヘルツに合わせなければならない。

それと同じで、神が創造主で、私たち人間が被造物であるなら、神の愛のメッセージを聞こうとすれば、神に対して「受け身」になることが必要なのであり、これが信仰というものなのである。

この理屈が分らないがために、信仰も分らない人が多い。信仰とは、被造物である私たち人間が、創造主である神に対して受け身の姿勢を取ることにほかならない。これが分らなければ、いくら経っても神が分らないだろう。こちらが人間としてどんなに優秀であっても、神を知る方法はこれ以外にはないのである。受信機であるラジオがいかに性能が良いかどうかにかかわりなく、放送局から発信されている電波に合わせなければ、その放送局から発信されている放送を聞くことはできないのである。だから、神を知ろうとするのであれば、神は創造主であり、自分は被造物であることを認めなければならないのである。

神が創造主であって、私たちは被造物であるということをなかなか認めたがらない人であっても、いくつかのことを考えたら、それを認めないわけにはいかなくなるはずだ。たとえば、自分の誕生について考えてみれば、それは分るはずだ。いくら主体性を持って生きるべきだと叫んでいる人でも、自分の誕生については、自分の意思のかかわりのないところで、それは決定されていた。それは、親の意思なのだろうか。そうとも言えない。親は生まれてくる子供の性別すら決定することはできないのである。今度は男の子が欲しいと思っているのに、また女の子であったという人がいる。そして、その逆の人もいる。人間の意思だけで、生まれてくる子供の性別を決定することはできないのである。

それでは、だれがそれを決めるのだろうか。創造主の神である。だから、どんな時代でも、男の子の生れて来る数と女の子の生れてくる数はほぼ同じである。こんなことは人間業ではありえない。丙午の年に生まれてくる女の子は、結婚してくれる男性があまりいないという迷信を多くの人が信じて、その年の子供の誕生は極めて少ないが、それでも、男女の比率はほぼ同じなのである。この不思議な出来事を偶然として片付けようとする人は、偏見で凝り固まった人だと言われても仕方がないだろう。

神は創造主であり、私たち人間は被造物であるというこの厳粛な事実の上に、キリスト教信仰のからくりがある。だから、このことをしっかりと認めておかないと、キリスト教信仰が分らないだけでなく、それに入ることもできなくなってしまう。

2008年10月19日日曜日

信仰の分りにくさ

この前、健康であるためには、ストレスをまともに受けないようにすることが大切だと言った時、嫌な事、耐えられないことが起ってきたら、主イエスのみもとに行って、その心の重荷を下すことだとも言った。

ところで、「主イエスのみもとに行く」とか、そこで「心の重荷を下す」とは、具体的にどうすることなのかということについてお話したいと思う。これは、キリスト教信仰を持っている人々にとってはよく分ることなのだが、信仰を持っていない人にとっては、何のことなのか、さっぱり分らないだろうと思うからである。

主イエスは、神であられる方なのに、私たち罪に陥った人間を救うために、天から降りて来られ、私たちと同じ人間となってくださった。そして、地上生活をされた後、私たちの罪を身代りに背負って、十字架上でその罪の刑罰として、神の裁きを受けてくださった。それから三日目に死人の中から復活して、天に帰っていかれた。天と言うと、何かはるかかなたにあるように思うかもしれないが、次元が違うだけで、私たちのすぐそばにあると言ってもよい。その主イエスが、今私たちを助けようとして、私たちのすぐ近くにいてくださるのである。私たちがそのことを自覚するかどうかにかかわりなく、すぐそばにいて、私たちを助けようとしておられるのである。

その主イエスが、「疲れている人や重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)とおっしゃっておられるのである。だから、私たちのすぐそばにいて、私たちを助けようとして待ち構えてくださる主イエスに心を開いて、自分の思い煩いをありのままに申し上げればよいのである。ちょうど小さな子供が、自分よりも少し大きな子供に、理不尽なやり方でいじめられた時、母親のもとに行って訴えるのと同じである。難しいことをするのではなく、自分の心の中に今ある重荷、思い煩いをそのまま主イエスに申し上げるだけでよいのである。

このことを一度でもやって、心の平安が与えられるという経験をしたら、このすばらしい体験を決して手離すことなどできなくなるに相違ない。それでもまだよく分らない人のために、もう一つの例を挙げて説明しようと思う。私たちは毎日呼吸をしている。ほとんど意識することなく、呼吸している。しかも、だれ一人としてそのために努力している人はいない。なぜなのかと言うと、私たちの周りには大気の圧力があって、必要な空気を体の中に入れようとしているのである。だから、呼吸器を開きさえすれば、空気は私たちの肺の中に入ってくるわけである。むしろ呼吸をとめようとする時でないと、努力する必要はない。これと同じで、主イエスは私たちを助けようとして、私たちのすぐ近くにいてくださるのだ。だから、主イエスに心を開きさえすれば、主イエスは助けてくださるのである。

そこで、次に問題になることは、主イエスは本当に信頼できるお方なのかということになるだろう。本当に信頼できるお方なら、そうできるけれども、はたしてどうなのかということが当然問題になることだと思う。だから、信仰における課題は、信仰する対象をよく知ることにあると言えると思う。

「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の歌に表現されているように、日本人の場合、信じる対象を余り問題にしない。いわしの頭でも何でもよいのである。これで、はたして大丈夫なのだろうか。

もしも私たちが、なけなしのお金を預ける場合、金利の高いことだけに釣られて、お金を預けるだろうか。月一割の金利を払ってくれるというふれこみに釣られて、なけなしのお金二千万円を預け、一ヶ月目に行くと、その一割の二百万円の金利をくれた。二ヶ月目に行くと、また二百万円の金利をくれた。この分で行くと、一年も経たないうちに元は取れてしまい、元金と合せると、倍になってしまうと思い、三ヶ月目に行ってみると、もうそこはもぬけの殻、近所の人に聞いてみても、どこへ行ってしまったのか、だれも知らないと言う。そんな所へ、大切なお金を預ける人がいるだろうか。たとえ金利は低くても、安心できる金融機関に預けておくのではないだろうか。

ところが、お金よりももっと大切な自分の命を、相手をろくすっぽ調べもしないで、そこに預けておくということほど愚かなことはあるまい。信仰において大切なことは、だれを信じるかである。信じて、本当に救ってくださるお方なのか、どうかである。つまり、信仰において重要なことは信仰する対象なのである。

だから、主イエス・キリストというお方がどういうお方なのかということを調べる必要がある。アメリカの南北戦争の時の有名な将軍リュー・ワラスは、キリスト教を迷信であると独断的に思い込み、それを証明する意図で調べ尽し、ついに否定できぬ真実の前にひれ伏し、イエス・キリストを本当の救い主と信じた。その彼の信仰告白の作品こそ、あの「ベン・ハー」なのである。

2008年10月11日土曜日

病気について思うこと

私は元来、体が弱く、よく病気をした。風邪をひいたり、おなかをこわしたりするのがしょっちゅうだった。そして節目には大病をわずらったものだった。小学校を卒業する時には、大腸カタルから虫垂炎になり、少し手遅れになったため、三週間も入院していた。この分では六年をもう一度やらなければならなくなるかもしれないと言われていたのに、回復が早く、留年しないでも済んだ経験がある。中学を卒業する時には、痔瘻になり、入院中に陸軍経理学校入学の通知を受け取り、約二ヶ月の入院生活を送らなければならなかった。大学を卒業する時には、肺浸潤になり、卒業式には出席できず、両親が代りに出席して、卒業証書をもらってきてくれたことがあった。

このように体が弱かったのに、時勢ということもあって、戦争が激しくなると、一兵卒として軍隊に行くよりも将校として軍務に服した方がよいという思いが強くなり、陸軍経理学校入学へ行った。そこでの厳しい訓練は、体の弱い私には、かなりきつかったが、そえれでもそれに耐えられ、なんとかみんなに付いていくことができた。

私は、体力については、いつも引け目を感じていた。走ること以外は、すべてレベル以下であった。人並みの体力を持っていなかった私は、はたして二十歳まで生きられるかと思い悩んでいた。しかし、そんな私が今八十歳になり、なお現役で活動していられるのは、健康について無知であったところから目覚めたからであると思う。

健康についての無知は、体を害すること必然である。私はずいぶん長い間、健康について不安であるにもかかわらず、そのからくりを知ろうとはしなかった。病気になったら医者に行けばよいと考え、食べる物については、好きな物を食べ、何を食べたら体はどうなるかというようなことについては、とんと無知で、また知ろうとも思っていなかった。

ところが五十代半ばのことであった。長男がアメリカの神学校を卒業して、その卒業式に出席し、帰国すると、私が責任を持っていた日本教会成長研修所のセッションが開かれ、責任の立場にある者として、そこに出席しなければならず、出席していた時、家から電話があって、父が倒れたというので、すぐ家に帰った。その二日後に父が召され、葬式を済ませると、その週の土曜日には娘の結婚式があり、それを済ませ、その翌日の礼拝をも済ませ、月曜日から始まる学生会の合宿に行こうとして靴を履こうとするのだが、足がむくんでいて、靴が履けない。家内が私の行くのをとめるので、ちょうど神学校を卒業して帰国したばかりの長男がいたので、学生会の合宿の方は長男に任せて、家内と一緒に医者に行った。すると、医者は心筋梗塞の一歩手前だと言うのだ。薬を飲み、安静にしていることを薦められた。その年の夏は湯治に行ったりしたのだが、いくら医者の出してくれる薬を飲んでも、一向に心電図がよくならないのだ。

そうこうしているうちに、一人の婦人がわが家にやってきて、食事療法を薦めてくれた。われわれ夫婦はそういうことに無知であったので、三白の害とか、四白の害と言われても、それが何のことなのかさっぱり分らなかった。三白の害というのは、白米、白砂糖、化学調味料の害のことであり、四白の害というのは、それに食塩が加えられるのだ。なぜ食塩がいけないのかと言うと、99.6パーセント以上の塩化ナトリウムであり、科学薬剤にほかならないからなのである。こういうものを採っていたら、必ず病気になると言う。

そして、玄米、雑穀飯に、野菜中心の菜食主義がよいと言うのである。蛋白質は植物性蛋白質がよく、大豆製品として、豆腐、納豆、味噌、醤油など、それにごま、木の実やコーンなど。そのため、大好物であった肉類や甘い物はやめなければならなかった。

するとどうだろう。一ヶ月で9キロやせてしまった。医者は心臓のために、ゆっくり泳ぐことを薦めてくれていたのだが、千メートル泳ぐのに、二、三百メートル泳いでから一息入れないと、その後泳げなかったのに、休みなしに千メートル泳げるようになったのである。これには驚いた。家内も同じ食事を食べるようにしたら、重かった足が軽くなり、非常に高かった尿素窒素の数値が平常値になった。

それから、わが家では玄米雑穀飯に菜食で、いたって健康である。健康を保持するために、良く眠ることや適度な運動も大切だが、食事は何よりも重要である。添加物はなるべく避け、有機農法で自然食を心掛けている。

それと同時に、ストレスをまともに受けないように心掛けている。ストレスになりそうな事はしょっちゅう起ってくるが、嫌なこと、耐えられないことが起ってきたら、いつも主イエスのみもとに行って、その心の荷物を下すことにしている。だから、人からひどいことをされたり、腹立たしいことが起ってきたら、主イエスのみもとに行くのが一番である。主イエスは、こう言っておられるから。
「疲れている人や重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

2008年10月5日日曜日

病気と医療をどう考える

病気というものは、決して健全な状態であるとは言えないから、歓迎すべきものではないだろう。だから、治療をすることを考えなければならないはずだ。ところが、これについて、二つの極端な考え方がある。その一つは、医療行動などによって病気を治したりするのは不信仰であって、神に祈って治していただくべきだと言うのである。もう一つは、病気になったら医者に行って治してもらうべきで、心の病気は神に、そして肉体の病気は医者に行って治してもらうのだと言うのである。

まず第一の考え方について考えてみよう。このような考え方をする人々は、神癒と称して、祈りによる神の直接的癒しを強調する。しかし、このような人々の考え方の間違いは、医療の進歩、発達を神が許しておられるということを認めないところにある。医学というのは、自然科学の一分野だから、神癒ばかりを余りに強調すると、自然科学の発達を神は許してはおられないということになってしまう。

けれども、このような人々も、医学以外の自然科学の他の分野については、その発達を神が許しておられることを実際に認めており、その自然科学の最新分野の恩恵に十分あずかっており、インターネットやパワー・ポイントを駆使しているのである。これは、殺生は嫌いだけれども、肉を食べることは大好きだというたぐいの矛盾であると言うことができる。一方においては、科学の発達の恩恵に存分に浴していながら、他方においては、それを否定しているのが、この立場の人々である。ただ誤解してほしくないのは、神が私たちの病気を癒してくださることを否定しているのではない。そして、今日、医療行為と同時に、祈りによる癒しがあることを私は体験している者である。ここで取り上げているのは、医療行為を全く否定し、神癒だけを主張する極端な立場についてのことである。

第二のものは、二元論的な考え方をしているところに誤りがあると言ってよいだろう。心の病気は神によって治していただき、肉体の病気は医者によって治してもらうという考え方は、神を全能の神として認めてはいないことになりはしないだろうか。神は、人間の心も肉体も支配しておられるお方なのだから、このような考え方は、神を限定してしまうことになるだろう。

それでは、私たちはどのように考えたらよいのだろうか。医学の発達を許しておられる神は、医療を用いることを決して不信仰とはお考えにならない。だから、私たちが医療を用いて治すために医者にかかることは間違いでもなければ、不信仰なことでもない。しかし、ここでよく覚えておかなければならないことは、医学や医療行為が人を治すのではないということである。つまり、医者が病気を治すのではない。神が医療行為を用いて病気を治してくださるのである。

医療行為が病気を治すのではないことは、多くの実験によって証明されている。同じ治療をしても、本人が治って自分の家へ帰りたいという強い願いを持っている人と、治っても帰る家がないので、治りたくないと思っている人とでは全然違う結果が出るのである。本人が治りたいという強い願いを持っていない場合には、たといそれほど病気の程度が悪くはなくても、治らずに死んでしまうことがあるそうだが、本人がどうしても治りたいという強い願いを持っている場合には、かなり病気が重くても治ってしまうことが多いということである。

これは、普通、本人が治癒力を十分持っている場合というようにして説明されているけれども、それだけでは不十分だ。治癒力を与えるのは神であって、決して本人ではないからである。

だから、私たちは病気になって医者にかかる場合にも、決して医者が治すのだと思ってはいない。医者のできることは、医学の知識によって悪いところを取り除き、それ以上悪化しないようにすることと、本人の自然治癒力を増進させるために体力をつけたりすることだけである。治してくださるのは神なのである。だからと言って、医者などどうでもよいなどと思ってはならない。医者の働きは非常に重要だ。それだけに、医者は自分の分をわきまえ、それに全力を尽くすべきである。また、患者は医者を信頼し、神がその医者を用いて治してくださるように祈るわけである。

そういうわけで、神は普通、医療を用いて癒してくださるが、医療を用いずに癒すこともおできになる。ことに今日の医学の研究ではどうにもならない分野においては、直接癒してくださるよう祈る以外にはない。そして神は不思議に癒してくださることがしばしばある。このようなことからも分るように、病気を治すのは医療行為なのではなく、神ご自身にほかならない。そして、すべての病気がいつでも治るとは限らない。神の御心でなければ、決して治ることはないのである。

2008年9月28日日曜日

病気と医療について

病気や医療についてどう考えたらよいのだろうか。多くの宗教は、病気の癒しを看板にし、どこの医者に行っても治してもらえなかった人が、その宗教によって治ったと言っている。つまり、医者に見離された人を、信仰一つで治してあげるという宣伝をしている宗教がかなり目につくのである。

それでは、私たちキリスト教の立場から見る時、病気や医療をどう考えたらよいのだろうか。私たちの健康をつかさどっておられるのは神であって、神は最初、人間を健康人としてお造りになったのである。その健康な人間がどうして病気になってしまったのかと言うと、それは人間が罪に陥ったからである。もちろん、これは具体的にこの罪を犯したからこの病気になったというのではなく、病気という異常現象が起ってくるのは、人類が罪に陥った結果だということである。

本人が不摂生をしたがために病気になるということもあるが、今日のように複合汚染の時代になると、食料品自体に、体を害する有害物質が付いていたり、入り込んだりしていて、それを食べているうちに、いつしか体を壊してしまったということもないわけではない。食品添加物や防腐剤や農薬など、体に悪い物が沢山あるし、食肉には抗生物質が含まれていることすらある。だから、規則正しい生活をし、別に暴飲暴食をしているわけではないのに、いつしか体を壊してしまうことがある。

だから、病気になるのは、一概に本人の不注意とばかりは言いきれないが、それだけに今日では病気の原因を簡単に突き止めかねることが多いのだと言える。だから、簡単に因果関係を持ち出してきて説明することは、しばしば偏見や独断であることがあって、かなり無理なことなのである。しかしながら、病気は決して健全な姿ではないから、決して喜ばしいことであるとは言えない。それは、罪の結果、人類の世界に入ってきたことからも分ると思う。

病気になった場合、ともすると「バチが当った」と考える人々がいるけれども、それは決して正しい考え方であるとは言えない。罪を犯したがために病気になることもあるが、すべての病気が何かある特定の罪の直接の結果であると言うことはできない。

聖書では、個々の具体的な病気の直接の原因については何も教えていない。そのようなことは、私たちに必要がないことだからである。たとえば、もしもその人が生れてすぐ大病にかかり、高熱のために体の一部に故障が起ったとしよう。そしてその大病が、もしも親の不手際から起ったとして、そのことを知ったからといって、そこに解決があるだろうか。おそらく、その子供は親を恨むだけではないだろうか。だから、生れながらの盲人がいた時、主イエスの弟子たちが主イエスにその原因について質問した時、主イエスはその原因については答えることを避け、むしろ主イエスは過去ではなく将来に目を向けるようにされ、それが神の恵みの御業の現れる契機となることを教えておられる。それについて、聖書は次のように記している。
「イエスが道を歩いておられると、生まれつきの盲人がいた。弟子たちは、この盲人を見て、イエスに尋ねて言った。『先生。この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためでしょうか。本人でしょうか。それとも、両親でしょうか。』イエスは答えられた。『本人でも両親でもありません。だれが罪を犯したのかなどと聞いて、そこに解決があるでしょうか。この盲人が生れつき盲目であったことも神様の御心に無かったことではありません。神様はこの盲人の身の上に御業をなさろうとしておられるのです。』」(ヨハネ9:1-3)

私たちの体は、神のご支配のもとにあるから、病気もまたそこに神の深い御心があることを知らなければならないと思う。それを、ただ単に呪いとか宿命とか考えるのは、異教的な考え方である。もしも神からの警告であるとすれば、素直にそのことを認め、不摂生や、その原因を取り除けることが必要だろう。

病気をする時、私たちはそれまでの生活にストップがかけられることになる。今までと同じ生活をしていくことはできない。
「順境の時には、それを楽しみ、逆境の時には、よく考えてみよ。」(伝道者7:14)

神は私たちに内省の時を与えられる。忙しかった時には考えようともしなかった人生の目的とか意義について考える機会ともなることだろう。「一体、自分は何のために生きているのか」ということについては、健康な時、仕事や勉学に励んでいる時には、考える余裕すらないだろうと思う。しかし、病気になり、仕事や勉学から離れると、考えざるをえなくなるはずだ。人生においては、仕事や勉学以上に、人生そのものの方がはるかに大切であるということが、分ってくる。病気とは、実にそのようなことを考える時なのである。

2008年9月21日日曜日

教育は自分が変ることから

親が子供を育てる時、数多くの失敗をしてしまう。親となった人でなくとも、一人前の人なら分ると思うが、ずいぶん多くの傷を親から受けてきているということである。心の中に、いまだに癒えぬ傷を持っている人が、どれだけ多くいることか。私は牧師として多くの人に接してきて、そのことをつくづく感じる。必ずしも崩壊した家庭でなくとも、親から受けた心の傷に悩んでいる人が数多くいる。それは、よく考えてみると、親にも同情すべき点がないわけではないのに、子供はそこまで考えが及ばないのである。

ある青年は、父親を激しく憎んでいた。彼によると、父親からはぶんなぐられた記憶しか残っていないそうだ。父親のことを思うと、恐ろしさと憎しみで、体がブルブルふるえると言うのである。

そこで、私はその人に聞いてみた。「君のお父さんの生い立ちについて、知っていることがあったら話してください。」すると、その人の父親は、幼くして両親と死に別れ、叔父さん一家の手で育てられたというのである。その叔父さん一家にひどくいじめられ、いつかこの仕返しをしてやろうという思いで生きてきたと言うのである。彼が兵隊として戦地に行っている間に、叔父さん一家は、空襲で死んでしまい、彼が復員して帰って来た時には、叔父さん一家は一人もおらず、彼もそんなことは忘れて、仕事をし、結婚したそうである。しかし、酒を飲むと、叔父さん一家のことを口ぎたなくののしり、「今生きていたら、ぶっ殺してやる」と言うのだ。そして少しでもそれに逆らったりすると暴力を振う。こうして私の所に来た青年は父親を激しく憎んでいると言っていた。

彼から父親の話を聞いた時、私は彼にこう言ってやった。「君のお父さんも被害者だったんですね。そのことを理解してあげることが大切ですよ。」彼は、「えっ、おやじが被害者なんて信じられないですよ。被害者は僕なんですから」と言うのだ。「君が被害者だっていうことはよく分る。しかし、君のお父さんがなんで君に暴力を振ったのかと言うと、被害者だったからなんで、そのことをよく理解してあげる必要がある。被害者は被害者を生むんだっていうことをもね。」私がそう言うと、彼はしばし無言のまま、「分りました」と小声で言った。

どんな人にも、それをする理由があるのだ。だから、ひねくれた子供を作りたくなければ、小さな子供も一個の人格を持った存在なのだということを知る必要がある。

よくこういう図を見かけることがある。母親が夕食の仕度をしている時、小さな女の子が母親のところに来て、「お母ちゃん、来て、見て」と言って、母親を呼ぶのである。その時、母親はどのようにその女の子に対するだろうか。「お母ちゃんが今何をしているか分ってるの。忙しいんだから、向うへ行っていなさい」と言う母親が多いのではないだろうか。その時、その子はどう考えるだろうか。「お母ちゃんはあたしのことなんかどうでもいいんだわ。」こうしてその女の子の心には深い傷が残っていくのである。

その時、賢い母親はどうするだろうか。「ちょっと待っててね。お母ちゃんは今、天ぷらをあげているから、それが終ったら行ってあげるからね」と言うにちがいない。子供はその一言で満足するのである。というのは、母親は自分のことを認めてくれていると分るからである。

ところで、前の母親のような行動を取る人の場合、どう考えているのかと言うと、子供のことなんか、自分が今やっていることと比べたら、比べものにならないほどの価値のないことだと考えている。しかし、子供にとっては、それは大切なことなのである。そのことを認めてやるかどうかは人格形成において重大なことなのである。

もしかしたら、早く夕食の仕度をしておかないと、いつもより早く夫が帰って来た時、夫に怒られたら大変だという思いがあって、子供の要求を拒んでも、自分のことをやり終えたいという極めて利己主義的な考え方があったのではないだろうか。だから、教育とは子供の生き方をあれこれ考えたり、提示したりすることなのではなく、自分がどういう生き方をしたら良いのかということに帰着すると言ってもよいのではないだろうか。つまり、人を教育しようと思えば、まず自分が変ることが先決で、今まで通りのエゴイズム丸出しの生き方から、ほかの人のことを心から考える愛の人に変ることから始めなければならないのではないかと思えてならない。

子供であろうとだれであろうと、その人を立派な人にしたいなら、まず自分が変ることである。自分がいいかげんな生き方をしていて、子供だけ立派な人になるわけがないだろう。親が率先し、自ら模範を示すこと、これが教育の第一歩ではないだろうか。親が変れば子供も変る。親が変らないで子供だけを変えようとしても、それはどだい無理な話なのである。

2008年9月14日日曜日

教育について思うこと

前回、思春期の子供の教育を考える場合、スポーツをさせることを薦めたが、ことに男の子の場合、これは必要なことだと思う。そのように言うと、そんなことをしていたら、入試戦線から落後してしまうのではないかと心配する人がいるかもしれない。そのように考える人は、教育について間違った考え方をしていることを暴露していることになる。教育とは、人格形成なのだということをしっかり覚えておいてほしい。人格形成は、普通、文化的遺産の継承を媒介として、人格と人格との触れ合いによってなされていくものなのである。文化的遺産と言うと、何か難しいことを想像するかもしれないが、私たちの先輩たちが私たちに残していってくれたものである。学校では、それを国語とか数学とか社会とか理科などといった科目として教え、学んでいく。しかし、このような科目を習得させることが教育の本質なのではなく、それを媒介とした、教師と生徒、生徒同士の人格の触れ合いによって人格形成を行うところに教育というものがあるのだということが大切なのである。

だから、教育というのは、何も倫理とか道徳といった科目を学ぶことによって出来るのではい。数学であろうと、英語であろうと、体育であろうと、それは問うところではない。それを教える教師の人格との触れ合いが大切なのである。

このことは、親子の場合でも同じである。しばしば教育について間違った考え方を持っている人がいる。それは、教育をする親は、自分が完成者であって、子供は未完成者であると思っていることである。教育において、これほど大きな間違いはなく、親も子も、どちらも未完成者なのである。どちらも人格形成への道を求めつつある途上の、いわば求道者同士なのである。そこには、共通の「弱さ」があるはずだ。しかしまた同時に、道を求める「厳しさ」があって、そこにおいては、親が一歩なり半歩なり「先んじていなければならない」。そのことがなければ、決して教育は成り立たないのである。

また、子供の教育について考えようとする時、ずいぶん間違った考え方を持っている親がいることを知って驚かされることがある。子供を自分の理想の鋳型に入れようと考えたり、自分の見はてなかった夢を子供に託して、強制したりするのだが、これは大抵教育ママと相場が決っている。また、世間体を第一にして、他の人にどう見られるかという人の目ばかりを気にしている人が、案外多いのである。

また、親の権威を笠に着たり、ごまかしたり、むら気であったり、えこひいきをしたりする親も少なくない。同じ自分の子供なのに、素直であったり、成績が良かったり、女の子の場合には、顔がかわいかったりする子供を特別にかわいがる親がいる。それがどういう結果をもたらすかは、火を見るよりも明らかである。

よく一家の物差しが父親である場合がある。父親の言うことは絶対であって、言う言葉はいつも一方通行である。父親は、母親に対しても子供に対しても「ごめんなさい」とも「ありがとう」とも言わず、言うのは、いつも子供の方から父親や母親へ、また母親から父親へ(妻から夫へ)という一方通行なのである。こういう家庭は、あとでバラバラになってしまう。しかし、クリスチャンの家庭は、そうではない。一家の本当の主人は、父親でも母親でもなく、主イエス・キリストなのだから、聖書の御言葉に照らして間違っていれば、それが父親であろうが、母親であろうが、ほかの人々に謝る。こういう家庭は、いつも円満で美しい家庭になることは間違いない。

一家においては、親の価値観が子供の価値観を決めるから、親が正しい価値観を持つことは極めて重要になってくる。能力や頭の良さや、社会的地位や、身分や、お金の有無ではなく、人間として最も重要な価値は「愛」ということでなければならない。

私たちが、このように子供の教育について深い関心を持つのは、どうしてなのだろうか。それは、子供が自分のものではなく、神から預かっているものであるというところにある。

わが国では親子心中ということが行われる。それは、幼い子供たちだけを後に残していくことへの心細さであることはよく分る。しかし、子供は自分のものという考え方がそこになければ、そんなことは起らなかったと思う。子供は親のものではない。神からの預かりものである。最後の日に、私たちは皆、自分の子供をどのように育てたかということについて、神に報告する責任がある。

子供にとって良い親というのは、子供が安心していられる親だ。どんなことも、その良い動機を理解し、受け止めてくれる親、たとい失敗しても、それを許してくれる親だ。そうなれるためには、自分で自分を制することの出来ない自分が、まず神によって変えられなければならないのだと思う。

2008年9月7日日曜日

教育とは何か

人間の中心は、何と言っても人格なのだから、教育とは人格形成ということにほかならないだろう。ところで、人間の人格は、知性と情操と意思という三つの面を持っているから、これらのものの健全な形成ということになる。つまり、知性だけに偏った教育は、実は教育とは言えないということになる。これら三つのバランスをもった教育が重要なのである。

それでは、一人の人が人格を形成していく場合、どういうものによってかということを考えてみると、私は三つのものを挙げることができるように思う。第一は遺伝である。だれでも生れながらにして持っている性格というものがある。生まれた子供は、顔形だけでなく、性格までも親に似ていることがよくあるが、それは遺伝なのである。

しかし、遺伝だけですべてが決ってしまうわけではない。第二の要素としては、その子が育っていく生活環境が影響を及ぼすのである。有名な「孟母三遷の教え」は、孟子のお母さんが、子供の孟子の教育のことを考え、三回引越しをしたという話なのだが、生活環境は人格形成に大きな影響を与えることは確かである。

この二つの要素以外に、本人の反応というものがある。これは、いろいろな事態に対して取る本人の態度と言ってもよい。乳幼児の場合には、はっきりとした反応を示すことはできないが、少年期に入っていくと、自覚的態度を取っていく。この反応を好ましいものにするのが、実は教育の働きであって、教育の課題と可能性の問題がここに残されていると言ってよいだろう。

たとえば、大酒飲みの父親と、その父親をいつもののしってばかりいる母親との間に育った子供が、いつも悪人になるとは限らないという例がいくらもある。そこには、その子供に良い影響を与えた親戚のおじさん、おばさん、あるいは近所のお兄さん、お姉さん、学校の先生などがいたのだ。そういう人の好ましい影響が、あまり好ましくない環境にもかかわらず、良い反応をもたらしたのだと言ってよいだろう。汚い泥沼の中にも、美しい蓮の花を、神は咲かせることがおできになるのである。

この人格形成を教育の中心と考えるとしたら、人格形成には、重要な時期があるということを知らなければならないと思う。まずそれは、生まれて最初の四年間である。その間には、離乳期とかエディプス期と呼ばれる時期がある。離乳期にきっぱり離乳させないと、決断力の弱い性格が出来上がってしまう。エディプス期というのは、父親と母親と赤ん坊の三角関係の時期のことである。赤ん坊は、生まれるとそのまま母親との固い絆で結ばれていて、そこには一体感がある。ところで、そこへもう一人の人物、つまり父親が現われてくると、母親は自分を愛してくれており、また父親のことも愛しているらしい。そして父親も、自分と同時に母親も愛しているらしいという感じを、赤ん坊ながら抱くのだ。この三角関係を乗り越えていくためには力が必要で、その力は母親との間に堅く結ばれた絆なのである。

だから、もしも母親との間がこの堅い絆で結ばれていない場合には、このエディプス期を乗り越えることができず、いつまで経っても不安定な性格、人を信頼することのできない性格になってしまうことが多いのだ。情緒不安定などもこの部類に入る。そのことを考えると、赤ん坊が生まれてからの四年間は、母親は人任せにせず、自分が自分の子供を育てることが、どんなに大きな良い影響を与えるかが分ると思う。

もう一つの重要な時期は、思春期である。これは、大体、中学生、高校生、大学生のころである。このころ一番重要視しなければならないことは、はちきれんばかりのエネルギーを建設的な方面に向けてやることである。その点、スポーツなどは良いと思う。陸上競技のように一人でするスポーツでも構わないが、何と言ってもチームでするスポーツの方が良いと思う。エネルギーを建設的な方面に向けることだけを考えれば、どんなスポーツでも同じだが、友情を養い、連帯責任を自覚させるためには、チームでプレイをするスポーツに勝るものはない。たとい自分がうまくやっても、ほかの人が失敗すれば、自分たちのチームは負けてしまうのだ。将来、社会人になってこの連帯責任の理屈が分らず、社会の落後者になっていく人が少なからずいることを知る時、このようなスポーツを通してそれを身につけていくことは賢いことだと思う。

水蒸気がものすごい力を持っていることはだれでもよく知っていると思うが、それを建設的な方面に向ければ、蒸気機関車となって十何両もの車両を動かすことができるが、そうでない時は、破壊的な力となることもある。ちょうどそれと同じで、思春期の子供たちは、エネルギーが余っている。これを勉強だけに向けようとしても、なかなかうまくいかない。うっかりすると、ノイローゼになったり、自殺したりすることもないとは言えない。そのエネルギーをスポーツに向ければ、最も健全に活用できるのである。

2008年8月31日日曜日

子供の教育

わが国では、子供の教育については、一般的に言ってとても熱心だ。しかし、その熱心さがどうも少しピント外れになっているのではないかと思われないでもない。というのは、教育に熱心な人を見ると、子供の学校の成績や上級学校への入学試験のことに熱中しているからである。けれども、こういうことを教育だと考えている人がいたとしても、はたしてこれが本当に教育なのかどうかということを考えてみなければならないだろうと思う。

わが国で行われている教育は、どうやら知的偏重の嫌いがないわけではない。子供の学校の成績とか入学試験用の勉強について考えてみても、そのように言ってよいのではないかと思う。しかし、さらによく考えてみると、知的偏重の教育でもなさそうだ。知的偏重なら知的偏重で、欠けている徳育とか体育に力を入れれば良いわけだが、わが国における教育は入学試験用の教育で、これ一点張りと言っても言いすぎではない。入学試験用の勉強というのは確かに知育に偏ってはいるけれども、知育全般にわたる教育ではなく、入学試験用の、いわばテクニック修得の勉強にすぎないのである。

入学試験が選抜試験である限り、だれにも出来る問題を出すわけにもいかず、つまらないところで間違いを犯しやすい問題を出し、受験生に差をつけなければならないことになる。しかも、短時間の間に公正な採点をしようとすれば、おのずと○×式の問題にならざるをえないだろう。そうすれば、叙述式の小論文などとは違い、思想内容が問題にされるのではなく、暗記テストにならざるをえないわけである。いかに迅速に、いかに正確に暗記しているかということが問われることになる。

ところで、私たちが生活をしていく時、真に重要なものは、暗記力よりも、推理力であり、また判断力である。けれども、今の入試用の勉強では、この重要な推理力や判断力はほとんど無視され、暗記力だけが問われることになる。このような勉強をしていればいるほど、偏った考え方をするようになっていってしまうのは当然のことである。だから、入試用の勉強にうつつを抜かしていれば、将来使いものにならない人間が出来上がってしまうのだ。そのことを考えると、私たちは教育というものを、もっと根本から考え直してみなければならないのではないかと思わざるをえない。

さて、教育というものは、一部の教育専門家である教育者だけに任せておけばよいものなのだろうか。世の中には、そのように考えている人もいないわけではない。けれども、次の世代はどうなっても構わないと考えている無責任な人は別として、次の世代について真剣に考えようとする人であれば、それは、すべての成人した人の責任であることは間違いないことであると思う。

ところで、わが国では、自分の子供の教育について無関心でいられる人が必ずしも多くはないという現実を考えてみると、教育というものは、一体だれがすべきものなのか、だれの責任なのかということを考えてみなければならないと思う。子供の教育は親がするべきものだと考える人もいる。このごろの教師には任せておけないと考えるのだろう。そこで、ホーム・スクーリングに取り組む人も出て来ている。ところが、今の日本でホーム・スクーリングをするということは容易なことではない。一般的に認知されていないため、いくら家庭で高校ぐらいまでやっても、アメリカなどの大学にしか入ることが出来ない現実があるので、英語中心の勉強しかしないことになってしまう。

私は、ホーム・スクーリングが悪いとは思わない。しかし、親だけで子供の教育は出来るものなのだろうかと考えてしまう。そうかといって、学校の先生だけで出来るものでないこともまた事実である。多くの親は、先生に教育を任せてしまって、何の協力もせず、ただ批判だけはする。しかも、その批判たるや、自分の思い通りの教育をしてくれないと言う批判である。それに、その思い通りの教育とは、自分の願っている良い学校に入ることだけを願うものにほかならない。極めて利己的な姿勢ではないだろうか。

教育というものが、一人の人間を作ることであるとすれば、第一義的には親の責任であることは当然のことだと思う。しかし、親だけで出来るものではない。学校の先生の協力が必要である。子供が時間を過ごす場所を考えてみると、学校でよりも家庭の方がはるかに多い。その家庭で、親が子供の人格形成に無関心であったら、一体どこで教育がなされるのだろうか。学校でも、はたして先生が教育とは何かということを考えて、子供を教育しているのだろうか。良い学校に一人でも多くの子供を入れるための単なる知識伝授をし、一方で落ちこぼれを作っていっていたとしたら、はたしてそれは教育と言うことが出来るだろうか。教育とはただ単に成績の良い子供を作ることではなく、一人一人の人格形成でなければならないのではないだろうか。

2008年8月24日日曜日

仕事とつき合い

職業というものは、ただ私たちが自分の生活の資を得るためのものと考えるべきではない。それを通して神の御業に参与するのであり、まただれかほかの人の役に立っているということを知らなければならないのだということを考えてきた。そして、自分が勝手にその職業を選んだのではなく、神が自分をその働きに召してくださっているのだということも考えてきた。

そういうことになると、神が私たちをその職場に遣わしておられるのだということにもなるだろう。私たちがその同じ職場にいる人にあかしをしなければ、生涯主を知らずにいる人がいることも知る必要があると思う。その人に対して主をあかしする責任は自分にあるのだ。その使命を忘れて、過ぎ行くこの世のことに夢中になってしまったとしたら、本末転倒と言わなければならないだろう。

仕事の上でのつき合いは、仕事がうまくいくためだけだと考えるべきではない。むしろ、もっと深い人間と人間とのつき合いであることを考えていくべきである。それは、その人の人生を祝福し、その人に幸福をもたらすためなのである。そのことを考えないで、ただひたすら自分の仕事がうまくいくことだけを考えて、自分に利益のある人だけとつき合っていくというのでは、余りにも利己的なつき合いであるとは言えないだろうか。職場における人間関係も、同様に考え、ただ目先のことだけに捕われず、もっと高い見地から考えていくべきではないだろうか。

同じ仕事仲間、職場の友人と仲良くすることは良いことだが、単なる表面的なつき合いで終始したり、遊び友達程度のものであるとしたら、余りにも無駄をしているのではないかと思えてならない。時間という点からしても、限られた自分の精力という点からしても、無駄遣いをしているように思われる。このようなことを、はたしてどれだけの人が真剣に考えて、友達づき合いをしているだろうか。友達を作ることは良いことなのだが、一体心の友なのか、仕事上だけの友なのか、それとも友という名の利用価値にすぎないのか、よく考えてみる必要があるのではないだろうか。

この世の中において、人間関係は非常に重要だ。この重要な人間関係を決してテクニックなどで出来ると考えてはならない。心と心の深いところでつながり合う交わりであるべきだ。そういう友を作るためには、私たちがどういう心掛けで友達づき合いをするかによる。相手を自分の仕事上で利用価値がある人ぐらいにしか見ない場合には、結局のところ、心と心の触れ合う交わりにまでは要らないだろう。私たちが一生涯、広く浅く適当につき合っていればよいと考えているのであればまた別だが、もしも心と心の通い合う交わりにまで至る友を作ろうと考えるのであれば、あらゆる機会にテクニックではなく、誠実なつき合いをすることが必要だろう。つまり、相手のことを真剣に考えてあげることである。

仕事とつき合いは、どの程度に考えたらよいかという質問を受けることがしばしばある。その答えは、人間関係というものをどう考えているかというところに帰着するわけで、そこのところをよく考えてみることが大切だと思う。そうすれば、一時的なつき合いとしてではなく、生涯にわたるつき合いとして考えることが出来るだろうし、私たちが心の友を得る機会は、あらゆるところにころがっているとも言えるわけである。こちらが誠実に接することをしないで、相手にだけ誠実を期待し、要求することは、どだい無理なことだと思う。

仕事が終わった後、一緒に何かを見に行くとか、一緒に何かをするとか、あるいは一緒に旅行に行くとか、一緒に遊ぶといった程度のつき合いではなく、もっと深い人間関係を作り出していくことを私はお勧めしたいと思う。そして、そういう人間関係の中から、必ずキリストを仲立ちとした人間関係が生まれてくる。

ただ、この世のこと、仕事のこと、趣味のことなどだけでつながっている友ではなく、永遠に至る友が出来てくる必要がある。そういう友達関係は、私たちが誠実に生きるところから始まるはずだ。私たちは、クリスチャンとして何が一番重要なことなのかということを知っているわけだから、それを友達づき合いの中においても、ごまかしたりしないで、第一としていくべきである。そうした中から生まれていく友情こそ本物で、永遠に続くものであると思う。小さなことの中においても、よく物事を考え、意味のある行動をしていくのがクリスチャンであるとするならば、このように考え、行動するのは、当然のことではないだろうか。

ところで、あなたは本当の心の友を持っておられるだろうか。何でも話すことのできる友、相手が困っている時には、心底から愛を持って助けてあげることのできる友を持っていないとしたら、あなたの生き方のどこかに問題があるということを知ってほしいと思う。

2008年8月17日日曜日

職業について

職業選択を簡単にやってのける人がいる反面、将来の仕事について思い悩んでいる人も少なくない。私は元々数学が好きで、その上家の設計に興味を持っていたので、建築家を目指して、大学の建築科に入ったのである。ところが、大学へ入り、その年の終りにクリスチャンになり、しばらくすると、牧師になることが私の使命であることがはっきりしてきて、それまで専攻していた理工学部の建築科をやめ、文学部の西洋史専攻に変えることにした。私にとって最も苦手の、しゃべることと書くことを専門とする牧師への道は、確かに新しい分野への挑戦だった。語学や、暗記物と考えていた歴史が苦手の私が、進路を変えて、新約聖書の原語であるギリシャ語や、旧約聖書の原語であるヒブル語をやるようになった。やってみると結構面白く、使命が先行すれば、結構やれるものなのである。

私は、多くの人々に勧めたいのだが、大企業とか将来性のある職場を選ぶことも決して悪いことではないけれども、そこだけが仕事場ではないということである。むしろ、そうした安定した仕事場だけではなく、主が必要としておられる分野への進出ということが求められているのだということも覚えてほしいと思う。主が必要としておられる所なら、どこへでもいくというパイオニヤ精神が重要なのである。私はそういう人生を生きてきて、本当に充実した人生であったことを感謝している。

クリスチャンだけの職場も結構だ。積極的にクリスチャンとして新しい事業をしていくことは良いことだ。私もゼロからのスタートで開拓伝道をしたから、そのことが分る。しかし、クリスチャンだけの職場を求める心の中に、わずかでもその方が楽だと言う安易さがあるならば、それは大いに問題だと思う。そういう人がいくら集まった所で、何も出来ないだろうし、かえって主をあかし出来ない職場になってしまうだろうと思う。

ある人々は、クリスチャンになると、仕事の上でうそが言えなくなるから、クリスチャンになりたくないと言う。確かにクリスチャンはうそを言わない。正直である。それでは、うそを言わなければ仕事はうまくできないのかと言うと、それは間違いだ。仕事は、うそを言うことによってうまくいくのではない。むしろ、そういううそは、いつかはばれてしまうもので、けっして長続きするものではない。正直にやる方がはるかに得策なのである。

仕事がうまくいくかどうかは、うそを言ってごまかすところにあるのではなく、真に相手の立場に立ってものを考え、相手が得をしつつ、自分も得をするというやり方でなければ、けっして成功するものではない。

ごまかすことに頭を使うべきではなく、人々が必要とし、求めているものは何なのかということを考えて、ものを作り、売り、他の人に喜んでもらうことのために頭を使うべきなのである。

たばこや酒を飲むかどうかというところに、人とのつき合いの大事な点があるのではなく、人間としての誠実なつき合いこそ重要であり、お互いに信頼し合える関係を作ることが大切なのである。

ところで、クリスチャンのつき合いの場合、それはけじめのあるつき合いであるべきで、何でも相手のペースに巻き込まれてしまうようなつき合いであるべきではない。出来ることと、出来ないことをはっきり区別し、人間同士としてのつき合いをするべきである。酒が入らなければつき合えないというのは、人間としてのつき合いのどこかにごまかしがあるのであって、人間同士としてのつき合いを作り出していかなければならない。

今日、職業観が極めてあいまいになっているような気がしてならない。聖書からもう一度、正しい職業観を教えられる必要があるだろうと思う。

聖書の中には「召し」という言葉が二種類の意味で使われている。一つは「職業」を指し、もう一つは「救い」を指している。前者については、次の御言葉がそれを示している。
「使徒として召されたパウロ。」(ローマ1:1)

これは、使徒という働きに召されたという意味である。後者については、次の御言葉がそれを示している。
「神の賜物と召しは変ることがない。」(ローマ11:29)

これは救いへの召しである。この「召し」ということは、私たち人間の業によってそれがなされたのではなく、神が私たちをそこへ召してくださったという意味である。だから、職業は召しと言われるのだ。それはラテン語でも、ドイツ語でも、英語でも、フランス語でもそうである。英語やフランス語やラテン語ではvocationと言い、ドイツ語ではBerufと言う。つまり、ここで大切なことは、その仕事を私たちが選んだ場合でも、究極的には神が私たちをその仕事に召してくださったのだと言うことを自覚する必要があるのである。

2008年8月10日日曜日

働くこと

今日、働くことに喜びを感じなくなってしまった人が沢山いる。それは、働くことの意味や目的が分らなくなってしまったからだと思う。ある人々はこう考えている。遊ぶためにはお金がいる。だから、お金を得るために働くのだと。こういう人々は、主として独身者だろうが、遊ぶことが人生の目的ぐらいに考えているのだ。しかし、人生の目的は決して遊ぶことにあるのではない。

私たち人間は働く者として神によって造られた者たちである。だから、よほど疲れているか、体の具合が悪い人でない限り、横になって寝ていることはできない。疲れが取れ、病気が治れば、布団の中に入っていることが苦痛になってくるはずだ。働く者として造られた人間は、働かないではいられないのだ。ただ何のために働くのかという、働くことの意味や目的が分らなくなったために、働くことに苦痛を感じるようになってきた。働くことの意味や目的が分らなくなってしまったのは、人類が罪に陥ったからなのである。

さて、私たちが働くという場合、それにはどういう意味や目的があるのだろうか。それは、自分で考えても出て来るものではない。神が私たち人間をお造りになったという原点に帰って考えてみなければ分るものではない。それでは、それは何なのか。一つは、神の御業への参与である。神は天地万物をお造りになった後、すべての被造物を動かしておられる。この神の御業は、創造以来ずっと続いてきており、私たちはその御業に参与させていただき、この宇宙の完成に向っての働きの一端にあずからせていただくのである。

もう少し身近に考えてみると、私たちは働くことによって、誰かの役に立っているということを知らなければならない。たとえば、衣食住のことについて考えてみよう。もしもそれを全部自分でやるとしたら、大変なことだ。食べるご飯一つとってみても、それを苗代から始めて、田植、草取り、そしてようやく刈入れをし、脱穀をしても、それはまだ玄米である。たとい精白をしても、それだけではご飯しかない。

味噌汁が欲しければ、大豆を蒔き、収穫してから味噌を作らなければならない。けれども、それだけなら具のない味噌汁だ。あさりの味噌汁が飲みたければ、海へ行ってあさりを取って来なければならないし、わかめの味噌汁が飲みたければ、海の中のわかめを取って来なければならない。卵が欲しければ、鶏を飼わなければならないし、牛乳が飲みたければ、乳牛を飼わなければならない。鮪の刺身が食べたければ、大きな船に乗って、鮪を釣って来なければならないのである。

着る物についてはどうだろうか。肌着は木綿が良いと思えば、綿を栽培しなければならないし、そこでできた綿花を糸に紡ぎ、次に織らなければならない。織り方にもいろいろあって、平織でよい場合と、綾織にしなければならない場合と、メリヤスのように一種のニットにしなければならない場合がある。Tシャツなどは、メリヤスで作らなければならない。ウールのものを着たければ、綿羊を飼わなければならないし、化繊のものが着たければ、化学工場を作らなければならない。また、色物を着たければ、染色工場を作らなければならない。

しかし、これだけでは食べる物と着る物だけである。住む所となると、自分で木を切ってきて、組み合せ、建て上げ、屋根をふき、壁を塗り、棚や家具を作ることもしなければならない。

こう考えてくると、自分一人の力だけでは、到底何も出来ないことが分る。私たちは、何から何まで自分一人でやることは出来ないのである。だれかの厄介になっている。このことが分ると、私たちもまた、だれかの役に立たなければならないことが分ってくる。それが働くことの意味なのである。働くことによって、その仕事がだれかの役に立っていることが分ると、そこに働くことの喜びがあるはずだ。

ところが、今日一人一人の働きが、社会の大きな仕組の中の一つの歯車のようになってしまい、自分がだれかの役に立っているという感じが持てなくなってしまっているため、多くの人々は、だれかの役に立っているということが実感として湧いてこないのである。

それでは、私たちが自分の仕事を選ぶにあたって、どういうことを考えたらよいのだろうか。まず第一に、その仕事を通して神の栄光を現すことである。今日では、とかく人の弱みにつけ込んだり、余り感心しない仕事もないわけではない。そのような人間性に反する仕事を選ぶべきではない。

私たちが仕事を選ぶ場合、自分に与えられている賜物と関係のある仕事を選ぶのが普通である。たとえば、血を見ると、気分が悪くなってしまうような人は、医者には向かないだろうし、高所恐怖症の人は、高い所へ上ったり、そこで仕事をしなければならないような職業は避けた方がよいし、自分でも決してそういう仕事を選ぶことはないだろう。

2008年8月3日日曜日

結婚について 2/2

私たちがだれと結婚するかについては、神がすでに決めておられ、その人と結婚するわけである。そのことを、私たちはそれぞれ主体的に受けとめ、結婚することになる。このように主体的に自分で結婚の相手を決められる人が、実は一人前の人間なのである。両親を離れて二人が一体になれるためには、どうしてもこのように精神的に独立した一人前の人間であることが必要である。結婚の相手さえも親に決めてもらわなければならない赤ん坊では、とうてい結婚する資格などないと言ってよい。

ところで、結婚する人は、一人前の人間なのだから、結婚するにあたっては、当然、精神的にも経済的にも親から独立している人でなければならないはずだ。これができていない人は、結婚して、何か問題が起ってくると、すぐ親の助けを借りなければならず、夫婦の絆が揺ぎ出す原因を初めから作っていると言ってよいだろう。

結婚は、神によって定められている男女の二人が一体となることであり、それを神の御前において誓約するのが結婚式である。だから、結婚式の中心は、あくまでも結婚する二人の神の御前における誓約である。その内容は、相手が神によって定められている人であることの確認と、そのような人として生涯相手に対するということにほかならない。

しかし、神の御前で誓約しさえすれば、それで自動的に一体になれるのかというと、決してそうではなく、生涯、一体になることの努力が課題として与えられているのだ。それは、夫はキリストが教会を愛された愛によって妻を愛し、妻は教会がキリストに従う服従に倣って夫に従うことによってできる(エペソ5:22-33)。

こうして、クリスチャンは自分たち夫婦を結婚するように定めてくださった神がいかにすばらしいお方であるかを表す生活をし、今日、崩壊しつつある家庭を築く働きをし、また夫婦が相互に啓発し合うわけである。結婚には、このように宗教的、社会的、個人的使命があることを知り、それを果たしていくのだ。

今日どれほど多くの家庭が崩壊しているかということを知る時、恐ろしい気がしてならない。崩壊家庭が増えれば、青少年非行問題も増える。離婚が増え、その犠牲者が増えつつある今こそ、クリスチャンは本当の家庭を築いていくべきである。人間は皆エゴイストだから、いつも問題が起りがちだが、クリスチャンはこのエゴイズムの問題を解決した者たちであり、絶えず反省心を持っている者たちだから、問題が起った時、相手を責めるのではなく、自分自身反省すべきである。

クリスチャンの家庭にも多くの誘惑が襲い、危機とも呼ばれるべき時が来る。その時、二人が別々に考えたり、別々の方向に行動を起こしたりせず、それぞれが反省し、一緒に力を合せて乗りきることにより、揺るぎない家庭を築いていくことができる。

結婚とは、一人の人間と一人の人間とが裸になってつき合うことである。もしも私たちがそれを肉体的なことだけだと考えるとしたら、それは人間を偽って見ていることになる。人間は、霊肉両面あって初めて完全だ。つまり、結婚とは、全人間的なつき合いなのである。ここにおいてうまくいかなかったとしたら、一体ほかのだれとうまくつき合うことができるだろうか。ここにおいて真の人格的交わりが成り立たないとしたら、もはや絶望と言うほかはない。それほど結婚は重要なことだ。人間社会において、人格同士の交わりが重要であるとしたら、結婚はその基本なのである。

しかも、結婚そのものは神によって定められたことで、結婚する二人も神によって結婚するように定められていた者同士である。つまり、結婚というものは、あくまでも神から出たことであって、人間が自分たちで考えだしたことではない。だから、私たちは、結婚式という社会のしきたりが二人を夫婦にするのではなく、神が二人を夫婦にするのだということを覚えることが大切なのである。

そういうことになると、私たち夫婦が交わりを持つことが許されるのは、神の許しということ以外にはない。二人の愛ではない。もちろん二人が愛し合っているということは大切なことである。しかし、二人が肉体の交わりをすることが許されるのは、二人が愛しているからなのではなく、神が許してくださったからだ。そしてそれは、二人が神の御前で厳粛に誓約した時であることは言うまでもない。

ここに、私たちが婚前性交、婚外性交を認めない真の理由がある。神が許しておられないことを、どうして人間が行えるだろうか。どんなにもっともらしい理由をつけても、結局は自分のしたいことをするということに帰着する理論を認めることはできないし、人間の欲望が最終的判断の基準なれるわけがない。このように、キリスト教に立った結婚以外に、一体どこに聖い結婚、揺るぎない家庭というものがありうるだろうか。ここにまた、結婚の確かさがあるのである。結婚について、もっと知りたい方は、拙著「結婚の備え」(いのちのことば社)を参照されたい。

2008年7月27日日曜日

結婚について 1/2

神が人間を男か女かにしてお送りになったのは、神が人間を結婚するものとしてお造りになったということである。結婚というものは、人間が作り出した制度ではない。人間が罪に陥ってからは、結婚しないで独身で生涯を過す人も出て来た。とは言っても、独身が罪だと言うのではない。しかし、元々は結婚するものとして造られたのだ。だから、結婚をいいかげんに考えることはできないのである。

この世において結婚をいいかげんに考えるというのは、好きなもの同士が同棲したり、結婚の前であろうが後であろうが、そんなことはお構いなしに性生活を始めることを指している。婚前性交や婚外性交、夫婦交換など、きりがないほどだ。しかし、私たちクリスチャンは、そうしたルーズな結婚観を持っていない。もっときちっとした考え方を持っている。

多くの人は、いまだに結婚を家と家との結び付きだと思っているようだ。新憲法がはっきり規定しているように、結婚とは、本来結婚する当人同士のものであって、家同士が結婚するのではないことは言うまでもない。もちろん、結婚すれば相手の親兄弟とは義理の親兄弟となるわけだが、結婚は決して家同士の結び付きではない。旧憲法がいまだに生きているような有様を見る時、私たちははたして新憲法下に生きているのかどうかさえ、疑わざるをえないような気がしてならない。

結婚は、人生における三大行事の一つである。誕生と死という二つの人生行事は、だれ一人として経験しない人はいないが、結婚はしないで一生独身という人もいるので、すべての人がこの三大行事を経験するわけではない。しかし、大抵の人はこれを経験する。誕生も死も、いずれも人生の厳粛な出来事であるとすれば、その中間に位置する結婚も、同様に厳粛な出来事であるに相違ない。だから、結婚をいいかげんに扱うことは間違いだと思う。

ところで、誕生と死は自分の意思の届かないところで起るものだが、結婚だけは自分の意思によって自由にできると思うところから、余り真面目に考えない人が起ってくるのかもしれない。実はそこに間違いがあるように思えてならない。

結婚するということは、自分たちが勝手に決められることと考えてはならないのだ。相手はすでに神によって定められているのであり、自由に選べるのではない。自由に相手は選べると考えるところから、いろいろな問題が起ってくるように思われる。確かに、ある意味では、自分の責任において配偶者の選択をするのだが、自由に、また自分勝手にできると考えるなら、あまりにもおごり高ぶった考え方である。私たちにそのような完全な自由がはたしてあるのかどうか反省してみる必要がある。

そして不思議でならないことは、そのようにして自分で選択したと考える人ほど、あとでうまくいかなくなった時、自分で責任を取ろうとはせず相手の責任にしてしまう。本来なら、自分が選んだのであれば、うまくいかなかった時、「自分はなんと見る目がなかったのだろう」と言って、反省するのが筋だと思うのだが、悪いのは相手の方であって、自分は被害者だぐらいに考えてしまう。ここに初めからうまくいかない原因があるのだと思う。

だから、結婚してしばらくたってから相手の欠点が見えてきた時、ただ相手を責めるべきではなく、相手に欠点があるように、自分にも必ず欠点があるのだということを知るべきだろう。そして、欠けているところをお互いに補い合って生きていくようにと、神が定めておられた相手なのだということを知り、ますます励んでいくべきではないだろうか。神によって二人が結び合わされたという事実があって初めて考えられることだと思う。

ところで、聖書は結婚についてどう教えているかと言うと、次のように教えている。
「そういうわけで、人はその父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となるのである。」(創世記2:24)

この箇所が結婚の憲法のような意味を持っていることは、聖書の中に出て来るある出来事によって知ることができる。ある時、主イエスのところへ離婚の問題について質問に来た人がいた。主イエスは、離婚の問題を、結婚の本来の姿から説き明かしておられる。その時、主イエスはこの天地創造における人間の創造から説き起こして、この聖句を引用しておられる。そういうことからも、この御言葉は、聖書が教える結婚の憲法と言えるだろうと思う。

この御言葉によると、三つのことが明らかにされている。一つは、結婚するのは、神によって定められている一組の男女であるということ、次に、両親を離れるということ、三つ目に、二人は一体になるということである。

私たちは時間の中に生きていて、いつも現在にいる。過去のことは記憶に頼るしかなく、未来のことについては皆目分らない。しかし、永遠に生きておられる神は、未来のことをご存じであるだけでなく、私たちの結婚の相手もすでに定めておられるはずである。

2008年7月20日日曜日

男と女

人間はだれでも男か女かとして生まれてくる。男でも女でもない人間などどこにもいない。しかも、だれ一人としてこれを自分の意志で選び取ったわけではない。皆、この世に生まれてきた時、男か女かであるのだ。こういうことを考えてみると、この世の中には、自分の意志だけで決めることができないものがあるのだということに気付かざるをえない。何でも主体性を持って生きていこうとすることは、決して間違ったことではなく、依頼心を持って生きていくよりははるかにましな生き方だと思うけれども、何から何まで自分の意志で決められるものではないことの証拠が、出生において出て来ることを知らなければならないだろう。

それなら、私たちが男として、あるいは女として生まれてくるということは、だれが決めたのだろうか。親であるとも言えない。親はもしかしたら、次に生まれてくる子供を、その前の子とは反対の性を考えていたかもしれない。私の知っている人で、六人姉妹の人がいる。親は、今度こそ男であるようにと願ったのに、生まれてきた子供は六人とも女の子だったのである。だから、親の意思によって性別が決まるわけではないことは明らかである。

私たちが男か女かとしてこの世に生まれてくるのを決定したのは、人間ではなく、私たちに命を与えてくださる神なのである。性ということだけに限って考えても、そのことはよく分る。毎年生まれてくる赤ん坊は、男女共ほぼ同数であるということは、人間のだれがそんなことをすることができるだろう。丙午(ひのえうま)の年に生まれる女の子は結婚してくれる人がいないといった迷信は、今でもかなりの人が信じているらしく、その年の子供の出生数は極めて少ない。今年四十二歳になる人がそうなのだが、その年は他の年と比べると、極端に少ないのだ。しかし、少ないけれども、それは女性だけではなく、男性の方も少なく、男女の比率はほぼ同数なのである。人間がいくら小細工をしても、神のなさることは依然変ることがないということを、この事実ははっきり示しているのではないだろうか。

だから、私たちは、この事を厳粛に受けとめる必要があると思う。つまり、私たちは神によって男か女かに召されたのである。このことが分ると、男として召された人はそのことを、女として召された人もそのことを自覚し、神が召してくださった以上、そこには与えられた使命があるのだということを自覚することができ、そこに男の生きがい、女の生きがいを見出すことができると思う。

今日なお男女間に差別があることは事実である。それゆえ、女と生まれてきて、損をしたとか、貧乏くじを引いたと感じている女性がいることも事実である。男女間の差別撤廃のために私たち男性が力を尽すことは当然のことだが、それと同時に、女性自身が生きがいを見出す努力をすることも必要だと思う。

女性の生きがいは、女性としての誇りから生まれてくるのではないかと思う。女性でなければできないものがあることの自覚から始まるだろうと思う。その重要なものの一つは、女性が子供を産むということである。どんなに時代が変り、あらゆるものが進歩していったとしても、男性が子供を産む時代は来ない。もちろん、女性だけに子育てを任せてしまうことがよくないことは十分分っているつもりだが、授乳、子育ての中心は母親である女性なのである。だから、女性は幼い頃から母性本能を持っている。ままごと遊びをしている時、女の子はいつも人形を赤ん坊にしつらえ、母親として面倒を見ようとしている。この女性にしかできない仕事の中で最も重要な子育てこそ、次代を背負う子供を育てることになるのである。次の時代などどうなっても構わないと考える無責任人間ならいざ知らず、次の世代の責任を感じる人なら、この世のいかなる仕事よりも重要な子育てに誇りを持たなければならないだろうと思う。

こうした女性の生きがいは、どこから生まれて来るのかといえば、自分が女性として召されているということの自覚からだと思う。神がこの尊い働きへと自分を召してくださったのだという自覚からである。

子育てをだれにでもできる簡単な働きだと考え、それよりも社会に出て、社会に貢献する働きをしたいと考える人が案外多いようだが、私は人間を育成する働き以上に大切な働きはないのだと言いたい。社会で働く働きは、同じ能力を持っている人ならだれでもよいのだが、子育てはそうはいかない。その子供にとって世界広しと言えども母親はただ一人しかいない。その人の愛情がなければ、健全な人格を持った人には育っていかないのである。

神が私たちを男か女に召しておられるということが本当に分ってくると、私たちにはそこから自ずと男の生きがい、女の生きがいが生まれてくる。そして男だけ、女だけの働きと同時に、男と女の協力なしでは出来ない働きがあるのだということも分ってくるはずだ。

2008年7月13日日曜日

キリスト教の葬式

クリスチャンの葬式は、そこにクリスチャンの死についての考え方がはっきり表れている。私たちは、死を暗いじめじめしたものとは考えない。むしろ天国を思わせるような美しい花で飾り、神を賛美し、神の言葉である聖書から、遺族や参列者に対する慰めや勧めの言葉が語られる。死んだ人はもうそこにはいない。そこにあるものは、死んだ人の遺体で、死んだ人の霊はもうそこにはいない。だから、死んだ人の霊を慰めるとか、その人を祀るのではない。その人の霊は、もうパラダイスにあって、神とのすばらしい時を持っている。

クリスチャンでない人は、死んだ人の冥福を祈ったり、成仏するようにと祈ったりする。けれども、クリスチャンは、人が死んだとき、その人の生前の生き方によって、パラダイスかハデス(よみ)かにはっきり分かれてしまい、私たちが何かをすること、その人をパラダイスへ行くようにすることはできないことを知っている。だから、人の死後、冥福を祈ったりしない。葬式は、死んだ人の運命を左右するためのものではなく、むしろ遺族、知人、友人のため、つまり生き残っている人々のためなのだ。その人々がやがて自分の身の上にも起こって来る死に対して、心の備えができるようにという目的がある。

死んだ人の運命を左右するのは、今生きている人なのではない。死んだその人自身なのだ。その人が生きていた時、神のご好意として用意されていた救いを受け入れたか、それとも拒絶したかに掛っている。だから、葬式もおのずとそのことを表すことになる。

クリスチャンにとって、葬式は、最後の証の場でもある。自分がクリスチャンであったということを、他の人に知っていただく良い機会である。だから、そのような準備をあらかじめしておくことが必要だ。葬式に限らず、人が死んだ後は、とかくごたごたが起りがちだ。それは、生前、自分の身辺のことについて、きちっとした整理ができていなかったがためだ。遺産の問題を始め、いろいろな問題が起りがちだ。そういうわけで、問題が起きないように、よく処理しておくことが大切だと思う。それだけではなく、葬式のことについても、はっきり指示しておく必要がある。

キリスト教の葬式は、普通、葬式とその前夜行われる前夜式がある。前夜式というのは、仏教式で行われるお通夜とは違い、夜通し眠らずに行うのではない。一定の時間を限って行う。賛美、祈り、聖書朗読、説教が行われる。その後、故人の思い出話をしながら、個人をこの世に送り、天に取り上げられた神に感謝する時を持つのもよいことだと思う。最近では、翌日の葬式に来られない人が前夜式に来るため、葬式よりも多くの参列者があることが多くなっている。

葬式は、死んだ人をこの世に送り、天に取り去られた神を礼拝する礼拝である。死んだ人を拝んだり、その人が天国へ行けるように祈る行事ではない。その人が生前イエス・キリストの救いにあずかっていたのであれば、当然パラダイスに行ったのであり、今さらそうなることを祈る必要など毛頭ない。むしろ、後に残された遺族を慰め、励まし、またそこに列席する故人の知人、友人などに、やがて迎えなければならない自分の死に対する心の備えをするように勧める時でもある。

したがって、葬式は棺に納めた遺体を正面には置くけれども、その周りを生花で飾る。キリスト教の葬式では、造花は使わない。そして、花につける名札も取ってしまう。人間が前面に出て来るのではなく、神が前面に出てくるべきだからなのである。周りの壁は、天国を思わせるように白布で覆い、余計なものはなるべく置かない。後で献花をする場合には、献花台を用意しておく必要がある。

葬式の日取りだが、死んでから二十四時間経たないと火葬することはできないので、そのことはあらかじめ承知しておかなければならない。火葬場は普通、友引の日が休日だから、その日に火葬場へ遺体を持って行くことはできない。だから、葬式の直後、火葬場へ遺体を持って行く場合には、友引かどうか調べておかなければならない。葬儀屋に聞けば分ることだ。クリスチャンは、もちろん友引など問題にすることはないのだが、火葬場が休みではどうにもならない。

ところで、葬式の式次第は全部、司式牧師にお任せしなければならないのだが、その中で弔辞を述べる箇所がある。その時、世間一般では、そこにある遺体に呼びかけるような言い方をするが、クリスチャンの場合、「あなたは・・・」などと言うべきではなく、「○○さんは・・・でした」というように話すべきである。故人はもうそこにはいないのだから。献花をするのは、故人に対する愛惜のしるしであって、それをすることによって、故人の霊を慰めたり、故人に拝礼をすることではない。この件に関してさらに詳しく知りたい方は、拙著「死への備え」(いのちのことば社)を参照されたい。

2008年7月6日日曜日

人は死んだらどうなるか

人間が生きているということは、霊と肉体が不可分離的に結合している状態であり、死ぬということは、この霊と肉体との結合が解かれることである。考えてみれば、本当に不思議なことだと思う。霊と肉体という全く次元の違った二つのものが結合しているのだから、これほど不思議なことはない。この不思議な結合が、ある日突然崩れ、霊はそのまま生き続けるが、肉体は土に帰っていく。これを死と呼ぶのだ。

霊は、肉体と結合している間は、肉体によって制約され、時間と空間の法則の下にある肉体とともに生きなければならないが、死ぬと肉体から解放され、自由になる。しかし、自由になったからといって、自分のしたいことができるわけではない。地上においてどういう生き方をしたかによって、主イエス・キリストと共にパラダイスに行くか、それとも暗黒と苦しみしかないハデス(よみ)に行くかのどちらかだ。そして、やがてキリストが再び来られて、この世が終りになる時、体が復活して霊的体となり、それが再び霊と結合して、パラダイスにいた人は天国へ、ハデス(よみ)にいた人は永遠に地獄へと入れられてしまう。

この世にいた時、どのような生き方をしたかが、人間の永遠の運命をこのように二分してしまうとすれば、この世にいる時の生き方は、極めて重大であると言わなければならない。それではどのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行ってしまうのだろうか。人間は、生まれながらエゴイストであり、自分さえよければよいのだという考え方を持っている。聖書では、それを罪人(つみびと)と呼び、罪人のままでは滅び(破滅)に至る運命にある。

しかし、神は憐み深いお方で、私たち滅び行く運命にある罪人を救うために、救いの道を用意してくださった。だから、この神のご好意を感謝して受けるなら、私たちはだれでも天国へ行くことができるのであり、それを拒むなら、私たちは地獄へ行かなければならない。神のご好意を素直に受け入れる生き方をするか、それともそれを拒む生き方をするかが、人生の分れ道になってしまうわけである。神のご好意を受け入れるなら、神は恵みによって私たちの罪を赦し、私たちを罪から救ってくださる。だから、このような救いを受け入れる生き方こそ重要なのであって、そのような生き方をするようにと聖書は繰り返し私たちに勧めている。

人が死を恐れるのは、死の後に裁きがあるからだ。人類が罪に陥って以来、自然死のほかに、罪の裁きという意味が加わった。そのため、死を恐れるようになった。死は確かに不気味だ。しかし、罪が入って来なかったら、不気味というだけで、死に対する恐れはなかっただろう。けれども、今はだれでも死に対する恐怖に恐れおののいている。

だから、この罪の問題が解決しなければ、私たちは死を恐れ続けなければならないのだ。クリスチャンというのは、この罪の問題を解決した人々、つまりキリストによって罪を赦していただいた人々だ。だから、死に対して恐れを抱かなくなった。しかし、クリスチャンにもなお自然死はあるわけで、それは、天国への入り口という意味に変った。朽ちゆく肉体を持ったまま、天国へ入ることはできない。だから、肉体を脱ぎ捨て、やがてキリストが再臨されるこの世の終りの時に、復活して、霊的体が与えられ、天国に入ることができる。

クリスチャンが死を恐れない理由、および死に際してノンクリスチャンのように悲しまない理由がここにある。もう一度、天国でもっと確実な方法で愛する人と会うことができるからだ。この世の生は短く、一時的だが、天国での生は永遠に続く。クリスチャンは、この永遠の生への備えをしている者たちなのである。

だからと言って、クリスチャンは死を喜んで迎えるというのも、必ずしも当を得ているとは言えない。この地上におけるしばしの別れでさえも、寂しく悲しいものなのだから、ましてこの世ではもう再び会えない死出の別れを、寂しくまた悲しく思わないわけがない。しかし、クリスチャンの死別は、それが永遠の別れではなく、再会の希望のある別れだから、そこには平安があり、また期待がある。そういう意味で、喜びもまたあると言うことができる。ただ死ぬのが嬉しいというのとは違う。

だから、クリスチャンは、死に際して決してあわてることがない。日ごろ親しく交わっている神のみもとに行くのだから、そういう意味では、あわてるどころか喜びで一杯だ。私たち人間は、遅かれ早かれ、この世界の創造主である神の御前に立たなければならない。だから、だれも皆、神に会う備えをしていなければならない。それができているのがクリスチャンである。

そういうわけで、クリスチャンの葬式は、死んだ人をあがめたり死んだ人の霊を慰めるのではなく、その人をこの世に送り、また取られた神をあがめる礼拝なのである。

2008年6月29日日曜日

死とは何か

死は何かと聞かれれば、生命活動の停止のことだと答えることができると思う。ところで、ただそれだけではない。

聖書を見ると、「死」と言う場合、三つの死がそこに表わされている。第一は、「肉体の死」で、これはだれにでもよく分る。普通「死」と言えば、このことである。ところで、聖書では、それとは別の死を述べている。その一つは、「霊的死」である。これがなかなか分りにくいのだが、聖書は次のように述べている。
「あなたがたは、以前は、自分の持っている罪のために、神から離れ、道徳面で無力な死んだ存在であった。」(エペソ2:1)

「道徳面で無力な死んだ存在」とはどういうことかと言うと、善いことが何であるかが分っていても、それを行なうことができなくて、悪いことを行なってしまうということだ。たとえば、学校でほかの人が試験の時にカンニングしている時、それが悪いとは思いつつも、自分もやってしまうということを考えてみると、よく分ると思う。つまり、この世の流れに流されてしまうのが、その特徴であると言うことができるだろう。

川の流れを考えてみたらよく分る。命のあるのものは、どんなに流れが急であっても、流れに逆らって上流に行くことができる。鮎でも鯉でも鮭でもみなそうだ。ところが、命のないものは流されていってしまう。

この世においても、霊的命のあるなしは、その流れに抗して立ちうるか、それとも流れに流されるかによって決ってくる。学生時代この世の流れに流されつけてきた人々は、社会に出ると、同じような生き方をしてしまう。職場ぐるみで不正がなされている時、「ノー」と言うことができないため、後でその不正がばれた時、その不正をした人たちの中に入ってしまうことになるのである。その時になって後悔してももう遅いのである。これが、霊的に死んでいる人の姿であると言うことができる。

ところで、もう一つの死がある。それが「永遠の死」なのである。死ということを存在の絶滅と考えている人にとって、永遠の死とは永遠に存在を失うことだと考えやすいのだが、そうではなく、永遠に存在し続けるのだが、祝福の源である神から永遠に切り離されることなのである。これほど恐ろしいことはない。

この世においては、生きていくのに苦しくなると、自殺をしたり、あるいは発狂することがある。しかし、この永遠の死というのは、自殺することもできず、発狂することもできない。苦しみを永遠に味わい続けなければならないのである。これほど恐ろしいことがあるだろうか。

聖書が「命」とか「死」と言う場合、それは単に生命活動の有無を意味しているのではない。命は神の祝福を表わし、死は呪いを意味する。だから、永遠の死とは、永遠に呪われ続けるということであり、永遠の命とは、永遠に神の祝福を受け続けるということである。

最初の人アダムが罪を犯したことによって人類に死がもたらされたと聖書は教えている。
「一人のアダムによって罪がこの世界の中に入って来、罪の結果、死が入って来た。そしてすべての人が罪を犯したので、死は全人類に広がっていった。」(ローマ5:12)

それでは、アダムが罪を犯さなかったら、アダムは永遠に生きることができたのであろうか。そんなことはない。神の披造物には、皆初めがあると共に終りがある。つまり、罪を犯さなくても、自然的死はあったはずである。アダムが罪を犯したことによって死が入って来たという場合、その死は罪の刑罰という意味での死であった。すべての人が死を恐れるのは、その死のことなのである。

クリスチャンは罪赦されたことを自覚している人々である。それなのに、なぜクリスチャンも死ぬのかと思う人がいるかもしれない。それは罪の刑罰としての死なのではなく、自然的死にほかならない。罪の刑罰としての死はもはや取り去られた。だから、クリスチャンにとって、死は肉体から解放されて、天国へ行く門口という意味になったのである。そういうわけで、クリスチャンはもう死を恐れない。恐れないどころか、天国へ行って、愛する主イエス・キリストのみもとにいつまでもいることができる契機なのである。これはどすばらしいことはないわけである。

クリスチャンはもはや死を恐れない。この世において与えられている使命を果すため、一生懸命毎日やっているが、主が「もうそれで十分だから、こちらに来て、休みなさい」と仰せられ、天国へ招いてくだされば、喜んで主のみもとに行くまでである。いつ死んでも、天国へ行くことが確かであるので、今の時を力一杯生き、使命を果すことができるのである。

死んだらだれでも天国へ行けるのではない。罪を持ったまま天国へ行くことはできない。
「罪や欲望を持ったままでは決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。」(マタイ7:13)

2008年6月22日日曜日

人間をどう見るかが鍵

以前、ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中に彼が記している言葉を引用したことがあった。「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました。」こういう言葉を聞くと、カチンとくる人がいるかもしれないが、実はここのところが、本当に分らないと、クリスチャンにはなれないのである。

どんな宗教でも、一応まともな宗教なら、善いことをするようにと教えるはずだ。オウム真理教のように、無差別に人を殺すことを教えるようなものは、もはや宗教という名にも値しないと言ってよいだろう。宗教というものは、実存的な問題(苦しみ、エゴイズム、死などほかの人に代ってもらうことのできない問題)を扱うものである。損をするとか得をするなどというようなことは、宗教が取り扱う事柄ではない。しかし、とにかく、まともな宗教なら、どれも皆、善いことを行なうようにと教えられるはずだ。

ところで、そのように教えるということは、そのように教えてさえおけば、人間はだれでもそれを行なうことができるはずだという人間観がそこにあるからである。しかしながら、はたして人間は善いことを知ったから、それを自分の力で行なうことができる者なのであろうか。そのことを無視して、問題の解決ははたしてあるのだろうか。

近代における文学を見れば分るように、ごく普通の人がごく普通に行動していって、最後は破滅になってしまうということから分るように、人間は善を知っていても、それを行なうことができない者なのである。それをエゴイストと呼んでもよいだろう。エゴイズムを持っていない人などいないのだから、そこに問題があるのだ。ほかの人を愛さなければならないということは分っているのに、最終的には、ほかの人の幸福よりも自分の幸福を選んでしまう。なんと醜い自分であることか。

聖書では、この醜く、自分さえよければ他の人などどうでもよいと考える人間を罪人(つみびと)と呼んでいる。つまり、善いことを教えられていても、それを行うことができない人間のことである。次のように言われている通りである。
「良心の願いに従いたいという思いは、私のうちにあるのだが、それを実行することができない。私は良心の願いに従うことができず、それと反対のことばかりをしてしまう。・・・私は何という哀れな存在なのだろう。分裂してしまっていて、自分の力では決して善いことができなくなってしまった。死んだようなこの私を、一体だれが救い出してくれるだろうか。」(ローマ7:18-19、24)

このような人間のことを、聖書では罪人(つみびと)と呼んでいる。だから、いわゆるこの世の法律に違反した犯罪人のことではない。それなのに、なぜ罪人(つみびと)と言うのかと言うと、自分の力では自分の今の姿を改善することができなくなってしまった道徳的破産者だからである。それは、神の定められた律法違反者なのである。人の作った法律に違反すれば犯罪人であるのだが、神が定めておられた律法に違反すれば、罪人(つみびと)となる。いずれも共通していることは、違反者であるということである。

人の作った法律の場合でも、それに違反すれば必ず罰せられる。それから救われる道は償いがなされるということである。それは神の律法違反の場合も同じである。償いがなされない限り、罰せられるのは当然である。ところで、神の律法違反の場合、それに下される刑罰は死なのである。そして、それを償うために払われる値もまた死にほかならない。
「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである。」(ローマ6:23)

本人が償いをしようとしても、死んでしまえば、救いはそこにない。

そこで、救われる道としては、だれか第三者の人が身代りに死をもって償う以外にはないことになる。ところで、すべての人は一人の例外もなく罪人だから、自分自身の刑罰としての死を受ける以外にはない。だからと言って、アダムにあって一体の人類以外の者が身代りになることは意味がないわけだから、ここに私たちを罪から救うことのできる人というのは、アダムの子孫として生まれて来た人であり、同時に罪のない人以外にはないことになる。その二つの相矛盾する条件を満たす救い主こそ、神が人となってこの世に来られた神の御子イエス・キリスト以外にはない。

永遠の神の御子は、私たちを罪から救うために、処女マリヤの胎内に罪のない人間として宿られた。なぜ救い主は成人した形でこの世に現われなかったのかと言うと、私たちは母の胎内に宿るところから罪人として存在するので、救い主はそこから罪のないお方としてこの世に存在される必要があったのである。
「神は、罪を知らないお方キリストを、私たちの罪の身代りに十字架上で罰せられた。それは、私たちがキリストを信じることによって救われるためである。」(2コリント5:21)

2008年6月17日火曜日

祈りについて4

祈りが神との会話であるなら、神とお会いしないまま祈り始めても、それは本当の祈りとは言えないだろう。神の臨在を覚えるまで待つことだ。この体験をするところから、実は祈りが始まるわけで、これを体得しなければ、祈りを体得することはできない。

神の臨在を覚えるために、私は賛美することを奨める。この賛美は、信仰の体験を歌った賛美よりも、神を直接あがめる賛美(プレイズとかワーシップと呼ばれるもの)がよい。それを心から賛美することだ。一回だけでなく、その賛美の歌詞が自分のものとなるまで何回でも繰り返し歌うことだ。

心から賛美していると、雑念は去り、悪魔もそこにいたたまれなくなり、賛美のうちに住まわれる主がご自身を現してくださるのだ。その時、その主に話し掛けるのである。
「私の魂は、ただ神を待ち望む。」(詩編62:1)

神を待ち望むところから祈りは始まる。

祈りの勇者は、祈り始めると、すぐ神との交わりの中に入ることができる。しかし、信仰生活の初歩にある人は、なかなか神との交わりの中に入ることができない。時間がかかる。そういう人は、少し時間を取って、徹夜するくらいの意気込みで始めることが必要だ。祈りは口先だけで何かを言うことではない。神との交わりである。だから、神の臨在を覚えるまで待ち望むことが必要だ。そして訓練していくことによって、短時間で主との交わりに入ることができるようになる。そうなるまでに多くの時間を使わなければならないことになる。しかし、たとい祈りに入るまでに多くの時間を使ったとしても、本当の祈りが持てれば、それは本当にすばらしいことである。

「静けき祈りの時はいと楽し」という賛美歌があるが、これは元々"Sweet hour of prayer..."という歌で、直訳すれば、「祈りのすばらしい時よ」ということになる。この賛美歌の作者は、祈りのすばらしい時、それは神との本当の交わりの時だと歌っているのである。これを一度でも経験したら、そのとりこになってしまい、これから離れることができなくなってしまう。残念ながら、多くのクリスチャンはこれを知らない。だから、信仰生活が無力なのだ。喜びがなく、力がない。信仰生活の力と喜びの源泉は神にあるからだ。簡単に信仰をやめたり、教会から離れたりするのは、このすばらしい祈りの時を味わったことがないからだ。このすばらしい味を一度でも味わったら、信仰がバックスライドしたり、冷たい愛のない態度を取るはずがない。さらに詳しく知りたい方は、拙著「新版・ほんとうの祈り」(羊群社)を参照されたい。

2008年6月14日土曜日

罪の現実10 - キリストの救い主性

私たちは、皆生れながらにして罪人である。このことは、近代における文学が追求している人間の破局性や、その破局性は教育などによっては決して改善されうるものではないということを見てきた。私たち人類は一人残らず罪人なのである。だから、毎日のように人殺しが行われているし、社会のどこにおいても問題だらけなのである。

前回述べた通り、私たちの罪を身代りに償ってくれる人がいるとしたら、その人自身罪を持っていない人でなければならない。そうでなければ、自分の罪の償いとして死ななければならないからである。自分の罪のために死んでしまうのであれば、ほかの人の罪の償いなどできないではないか。

すべての人類はアダムの子孫として罪人なのだから、アダムの子孫として生れてきた人は、だれ一人として罪を持っていない人などいないのである。それでは、一体だれが私たちの罪を身代りに背負って、その罪の償いをすることができるだろうか。

火星人か。そんな人なら、アダムの子孫として一体である人類とは何の関係もないから、何の役にも立たないことは明らかだ。それならば、最初に人間が造られたた時、罪のない人間として造られたのと同じように、罪のない人間を土からもう一度造ればよいのであろうか。それも、アダムにあって一体の人類とは何の関係もない。

そこで、神は御子イエス・キリストを人間の姿を取って、この世に誕生させられたのである。御子イエス・キリストがなぜ処女降誕されたのかという理由がそこにある。処女だから罪がないというのではない。人間マリヤの胎内に、神が特別に働かれて、罪のない神の御子を宿らせられたのである(ルカ1:35)。

多くの人は、処女降誕を信じがたいと言うが、処女降誕でない救い主こそ信じることができないと言いたい。アダムの子孫として生れながら、罪のないお方であるには、この処女降誕以外のいかなる方法があったろうか。だから、イエス・キリストこそ、私たちの罪を償う唯一の有資格者であるということができよう。

イエス・キリストの十字架上の死こそは、私たちが払わなければならなかった罪の刑罰を身代りに支払ってくださったものなのである(2コリント5:21)。だから、ここにこそ本当の救いがある。人間が罪人であるなら、ここにしか救いはない。

2008年6月10日火曜日

祈りについて3

祈りにおいて大切なことは、本当に神との会話になっているのかということではないかと思う。神との会話になっていない祈りであれば、それは独り言にすぎないことになってしまう。つまり、から回りの祈りなのである。それでは、いくら祈っても何の手応えもなく、自分自身何も変ることはない。それは、むなしい祈りであって、時間の浪費でもある。信仰生活において力をまだ一度も体験していないとしたら、おそらく祈りが問題なのだろうと思う。

そういう人の祈りは、いつしか形式的なものになり、信仰生活も形骸化していって、何かあった時、何の力もない無力な生活であるだろう。それは、本当の信仰生活ではない。何か大変なことが起っても、信仰によってそれを乗り越えることができず、形の上だけの信仰生活を送っているにすぎない。そういう人は、神が生きて私たちの生活に働いてくださるのだということを知らないから、何かがあっても、神によって解決していただこうという心が起きないだろう。

たとえば、自分の子供が交通事故に遭った時、まず祈って神の助けを頂こうとするのではなく、すぐ119番に電話をして救急車を求めたり、人の助けを得ようと奔走するかもしれない。もちろん、一刻一秒を争う時、119番にすぐ電話を掛けるのがいけないわけではない。しかしその時でも、神の助けを求めて祈りつつ電話をするのと、神のことよりも救急車の助けを第一に考えてしまう、日ごろの信仰生活がそこで問われるのである。

祈りを分類すると、次のようになる。賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くこと。ところで、これらの祈りが、それぞれ本当の賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くことになっているためには、大事な一つの前提条件がなければならない。それは、神の御前に出て、神とお会いしているということだ。そこで、私は祈りにおいて最も大切なものは、神とお会いするために、神を待ち望むことだと申し上げたい。

神とお会いしないうちに祈り始める人は、独り言の祈りだが、独り言の賛美や、独り言の感謝や、独り言の告白がいかに多いことか。神がそこにおられないのに、神への賛美をささげている。多くの人が礼拝でささげる賛美もこれではないだろうか。曲だけを気持よさそうに歌っている人、賛美の歌詞の字づらをただ追っている人などは、まさしくこれに属するのではないだろうか。

2008年6月7日土曜日

罪の現実9 - 罪の性格

近代における文学が追求している人間性というものはなぜ破局性を持っているのかと言うと、それはエゴイズムの問題なのだと言った(文学が示している人間の破局性(3))。またその人間の破局性は、決して教育などによって変えられるものではないとも言った(教育によって改善できるか)。人間は生れながらにして、この破局性を身に帯びている。これを、聖書では罪と言い、人間が罪人であるとは、そのことを言うのである。

しかし、罪人と言うと、多くの人はこれに抵抗を感じる。とういうのは、罪人という言い方は、犯罪人を連想するからだと思う。しかしながら、罪人と犯罪人とは全然違う。犯罪人というのは、法律を犯す人だから、法律によって罰せられ、時と場合によっては刑務所に行き、前科者と呼ばれなければならない。それに反し、罪人はごく普通の人である。けれども、よく考えてみれば分るように、私たちの心の中には、善からぬ考えがある。主イエスは、憎しみが人殺しの罪を起し、貪りが盗みや姦淫の罪を起すと教えておられるように、私たちの心の中には、人殺し、盗み、姦淫の予備罪とでも言うべきものがある。そういう事態に陥らなかったがために、犯罪人にならなかったにすぎないのではないか。

だから、罪人と犯罪人とは決して同じではないけれども、全然別だとも言いきれない。法律では、こう言う考え方をするものである。罪というものは、罪を犯した人がその償いを完了するまでは、その人に対して力を持って迫ってくる。そういうわけで、だれかに対してひどいことを言ったり、してしまったような場合、どうしてもそれが心に刺さっていて眠れないことがあるだろう。その相手の赦しを得るまで、心に平安はないのである。

ところで、聖書が教えているところでは、罪が支払わなければならない値は死であるというのだから(ローマ6:23)、これでは、私たちの助かる見込みはない。だから、本人ではなくだれか第三者の人が私の身代りに死という償いの値を支払ってくれなければ、私たちの助かる見込みはゼロということになってしまう。

そんな人がいるだろうか。しかしいたのである。それこそイエス・キリストにほかならない。「しかし、私たちは正しい人間でも、だれかに恩顧を与えているような人間でもなく、罪人にすぎないのに、この罪人のために、キリストは死んでくださった。このことによって、神は私たちに対する愛をいかんなく現されたである。」(ローマ5:8 現代訳)。

2008年6月4日水曜日

祈りについて2

祈りというものは、私たちの霊の深いところからの自然の発言なのだが、本当の祈りというものは、だれにでも自然に出来るものなのか、それとも、ある特別にすぐれた人とか、ある特別な賜物を与えられている人でなければ出来ないものなのだろうか。聖書はこう教えている。
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ話している時に、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)

祈りは霊の呼吸であると言われる。これは私たちが普段している呼吸から祈りを考えるように促している。私たちに必要な空気は私たちの周りにあって、大気の圧力として私たちの肺の中に入ろうとしている。だから、私たちは呼吸器を開きさえすればよいのだ。むしろ、呼吸を止める時には努力を必要とする。そして、空気が肺の中へ入って来れば、私たちの体は新しい命に溢れるようになる。

ちょうどそれと同じように、私たちの霊に必要な神は、私たちの問題をご存じであり、私たちを助けようとして、すぐそばにおられるのだ。だから、私たちが心を開きさえすればよいわけである。神は私たちを助けることを願っておられ、拒まなければ、どこにでも入って来られ、渇ききった心に潤いを与え、疲れた心に休みを与え、どんな必要も満たしてくださる。

このように、祈りにおいては、私たちの熱心が神を動かすのでもなければ、私たちの力が神を通してほかの人を動かすのでもない。祈りにおいて大切なことは、私たち自身の無力さの自覚である。自分の問題に対して、自分ではどうすることもできないのだという自覚、つまり自分の弱さの自覚が必要なのである。強い者が祈りの力を行使できるのではない。自分の力のなさ、弱さを自覚している者でなければ、どうして神の助けを必要とするだろうか。そして、それがまた信仰者の根本的な姿勢でもあると言うことができる。
「健康な人には医者はいらないが、病人には医者がいります。・・・わたしは自分で正しいと考えている人を招こうと思って来たのではなく、罪人であることを自覚している人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)

助けを必要とする病人だけが医者の所に来るのと同様に、霊の助けを必要としている罪人だけが、霊の医者であられる神のみもとへ行くのである。そして神のもとへ行くこと、これが信仰にほかならない。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著「ほんとうの祈り」(いのちのことば社)を参照されたい。

2008年5月31日土曜日

罪の現実8 - 教育によって改善できるか

人間をどう見るかということは、文学の分野だけでなく、法律の分野でも同じことが言える。法律において、人間をどう見るかということは、法哲学における人間観でも明らかである。

法律は皆同じような見方をしていると思っている人がいたら、それは大間違いである。人間をどう見るかによって、刑法は全く変ってしまう。たとえば、今の日本の法哲学は、大体においてヒューマニズムの人間観をもって見ている。その証拠に、教育刑という考え方を持ち込んできている。つまり、刑務所において善いことを教えておけば、釈放された後、皆善人になれるという考え方である。

しかし、はたして現実はどうであろうか。初犯刑はその大半が累犯刑に進んでいっている。これは、教育によっては、人間を改善することはできないということをあかししてはいないだろうか。

もちろん、教育が有害無益であるなどと言っているのではない。教育の重要性については十分知らなければならないことである。しかし、教育には限界があることも知る必要がある。

教育によって、人間の性格を変えることはできない。犯罪を犯した人の性格を変えて、犯罪を犯さないようにすることはできないのである。

教育というものは、文化的遺産の継承を通し、人格と人格の触れ合いを通して、人格形成を行うことであって、それ以上の何ものでもなく、それ以下の何ものでもないわけであるから、人間の性格を変えるということは、教育の本来の目的ではない。ところが、今日の刑法における考え方としては、教育刑と称して、人間の性格は変えられると誤信して、多大な税金をこのことのために投入している。これは、税金の無駄遣いにほかならないのである。

だから、教育によって人間を変えることができると考えるのは誤解である。人間の持っている問題は、教育などによって変えられるものではない。これは、教育などによって変えられるものではなく、心理学者のウイリアム・ジェームスが「回心の種々相」の中で述べているように、回心、つまり生れ変わるということ以外のいかなる方法によっても変えることはありえないのである。それが、聖書で言う「罪」の本質なのである。

2008年5月28日水曜日

祈りについて1

クリスチャンにとって、祈りは特権であり、また神から力を頂く場でもある。

私たち人間は、自分の思いをじっと胸の中に秘めておくことができない者だ。これを何らかの形でだれかに言わないではいられない。子供が母親に何でも話すのは、その良い例であると言うことができよう。だんだん大きくなると、恥ずかしいという気持や、親は本当に自分のことを理解してはくれないという思いが起って、親に話すよりも友達に話したり、日記に記したり、インターネットのブログで発表したりするようになるだろう。それでも不満足な場合には、一人で物思いにふけるようになり、それを一人言のようにして言うこともあるだろう。人が自分の思いを言い表さずにいられないのは、人格的存在として造られているからである。人格的存在は、いつもほかの人格的存在を必要とし、それと交わらないではいられないのだ。ところが、一人の人には一つの人格しかないから、人はだれでもほかの人を必要とするのだ。

私たちの霊は、すべての思いを言い表すためには、どうしても完全な人格を求める。自分の悩み、悲しみ、苦しみ、また喜び、楽しみなど、すべてをありのままに注ぎ出して語るためには、その相手が偉大な存在でなければならないのである。このような存在に対する私たちの霊の思いの吐露、人格的交わりが祈りなのである。私たちは元々弱い者だから、偉大なお方である神に依存して生きる存在として造られている。

だから、祈りは人間の最も深く、聖い心からの声であると言うことができる。どんな宗教でも、その最終的に行きつくところは祈りであると言われるが、それは、このような意味から理解することができるわけである。

ところで、キリスト教の祈りというものも、そうした人間の側からの要求の表われ、また思いの行きついたところ、つまり極致にすぎないものなのだろうかと言うと、必ずしもそうではないのである。聖書の教える祈りというものは、私たちの霊が神の霊と交わることにほかならない。そうしないでは生きていくことができないように造られている私たちの霊が、造り主であり、天の父であるお方と交わる交わりなのである。だから、祈りとは、しなければならないものではなく、しないではいられないものにほかならない。そういうわけで、クリスチャンが祈らないと、霊的呼吸困難に陥ってしまうのである。

2008年5月24日土曜日

罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)

芥川龍之介が掘り下げて行ったエゴイズムの問題と取り組んでいった人として、私は太宰治を挙げることができるように思う。芥川がエゴイズムの問題と対決したのに対し、太宰はそれを「人間失格」という問題意識にまで深めたと言うことができるだろう。

この作品の中で、主人公の大庭葉蔵はこう言う。「人間失格、もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。」人間が人間でなくなること、それほど恐ろしいことはない。それは人間性の完全な喪失ということになる。

「僕には人生の目的が何であるかわからない。友達とも、人生の目的は何かということで議論したが、皆の出し合った意見の中で、心から納得できるものは一つもなかった。自分は現在何のために勉強しているのかさっぱり分らない。」

「人生て何だろう。人生には果して目的があるのだろうか。人生には目的なんてあるのではなく、ただ生れてきたから、生きているだけのことではないのか。死ぬまで生きている、ただそれだけのことではないのか。もしもそうだったら、何もこんなに苦しみながら死を待つ必要はない。さっそく三原山かクリスマス島へでも行った方がよい。」

この作品の中で、罪のアトニム(反対語)ごっこという遊びをするのだが、その会話の中で、罪の反対語がついに見付からなかったことだ。罪の反対語として法律を持ち出したり、善を持ち出したり、神を持ち出したり、救いを持ち出したり、愛を持ち出したり、光を持ち出して来て、結局分らないのだ。罪の実体が分らなかったというのが、太宰治の本当のところだったように思われる。

太宰治や坂口安吾や織田作之助という一連の作家の文学のことを、可能性の文学と呼ぶ。それは、彼らの作風が、一様に落ちる所まで落ちて、そこからどこまで上がって来ることができるかに、人間の実力の可能性があるということを問題にしているため、このような呼び方がされる。

ところが、この可能性の文学と称せられる一連の文学者は、どういう足どりをたどったろうか。太宰治はついに心中をしてしまうし、坂口安吾は、催眠薬中毒のため東大の神経科に入院してしまうという具合で、最後は皆破滅で終っている。このことは、人間のうち側にあるものの破局性を示しているとは言えないだろうか。

2008年5月20日火曜日

聖書について4

私は、翻訳原則を変えて、もう一度翻訳を始めた。いくつかの書は、すでに古い翻訳原則によるものではあったが、翻訳を終っていた。だから、比較的容易に新しい原則に変えて、手直しすれば、それで済んだ。

私は元来、短距離型の人間で、長距離はにが手であった。しかし、新約聖書の場合、使徒の働きまで訳し終った時、分量から言うと、全新約聖書の半分以上は訳したことになるのである。思わずこれはいけると思った。というのは、ローマ人への手紙、コリント人への手紙1、2、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロ二ケ人への手紙、テモテへの手紙1、2、テトスへの手紙は、古い翻訳原則によってではあったが、翻訳が出来ていたからである。こうして、1978年に、新約聖書の翻訳は終った。

これを出すと、大きな反響が起った。ある人は、こんなことを言ってきた。「私はもう年寄です。私の目の黒いうちに、ぜひとも旧約聖書を出していただきたいと思います。」旧約聖書は、分量からすれば、新約聖書の三倍もある。その人の要望にはぜひとも応えてあげたいが、とても出来るものではないと思った。創世記、出エジプト記、ヨシュア記などは、すでに古い翻訳原則で訳してあったので、遅々としてではあったが、まあまあの速さで進められていった。毎日出来るだけ時間を取るようにして、翻訳を進めていった。

1983年の1月に、それまで日本プロテスタント聖書信仰同盟の実行委員長をしていたのを辞めることになった時、急に時間が取れるようになり、急ピッチで翻訳を進めることができ、その年の3月に翻訳は全部完成してしまった。そうなると、どうしてもその年のうちに出したいと思うようになった。しかし、こんなに分厚いものを突然印刷屋に持って行っても、引き受けてくれる所はなかなか見つからなかった。けれども、引き受けてくれる所が現われ、その年の秋に旧新約聖書を一巻本として出すことができた喜びは何にも代えがたいものであった。

私が翻訳に手を付けてから三十年余り経つ。私は改訂したい箇所があると、すぐ赤で訂正し、付箋を付けておく。こうして、改訂すること九回、今日第十版を出している。かなりの箇所が改訂されているので、十版を見ると、以前の版よりはるかに分りやすくなっていると思う。この「現代訳聖書」は、日本人のための私のライフワークでもある。

2008年5月18日日曜日

罪の現実6 - 文学が示している人間の破局性(2)

夏目漱石の「こころ」という作品が、画期的な意味を持つものであるとするならば、その後、そうした人間、あるいは自我というものをそのまま延ばしていった時、どういうふうになるかということを追求していった作家として、私は芥川龍之介を挙げることできると思う。

芥川の最後の作品であり、文字通り遺稿となった「西方の人」「続西方の人」は、言うまでもなく彼のキリスト論であると言うことができる。彼の生涯を見てみると、ある時期にはキリスト教に傾き、ある時期には仏教に傾き、大きく揺れ動いている。彼にとっては、キリスト教が関心の対象になっていたのではなく、聖書を通して伝達されるキリストが問題であったのである。彼はこう記している。「わたしはやっとこの頃になって四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云う人を愛した。クリストは今日の私には行路のやうに見ることは出来ない」(「西方の人」)という芥川のキリストに対する愛がどのようなものであったかは、もちろん、単純に受け取ることはできないとしても、彼の意識が、キリスト教という宗教に向けられていたのではなく、イエス・キリストに向けられていたことだけは疑うことができないだろう。

「西方の人」のキリスト論は、正統的な信仰告白の立場から見ると、それは言語道断というほかないかもしれないが、しかし、芥川が近代日本文学の運動を、ほとんどその絶望にまで突き詰めたところで、主イエス・キリストというお方の前に出たということは極めて重要なことである。しかし、芥川の「西方の人」には、キリストとお会いするという信仰的モチーフが欠如している。

芥川が書いた「西方の人」「続西方の人」というのはイエスのことである。しかし、彼は1927年7月24日の朝、薬を飲んで自殺してしまった。夏目漱石の場合、作中の人物の死を持って終らせることができたものの、芥川の場合、自ら死んでいる。しかも、その枕もとにはたった一冊の聖書が置かれてあった。

芥川は、「わたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じている」とはっきり書いている。それなのに芥川の場合の問題は、彼が書いた「西方の人」の中のイエスに対する見方にひそんでいる。芥川にとって、イエスは宗教的天才、天才的ジャーナリストでしかないのである。

2008年5月14日水曜日

聖書について3

私が奇しくも聖書翻訳に携わるようになった経緯はこうである。第二次世界大戦直後の日本では、自力で聖書を印刷し、製本することはできなかった。いきおいアメリカ聖書協会が作って、送ってきてくれたのである。その聖書は、もちろん戦前に作られた文語訳聖書の写真版なのだが、残念なことに、戦後の教育を受けた者には読むことが難しかった。というのは、戦後の教育では、文章を書く場合、助詞を除き、表記法は発音通りにすることになった。つまり、「幸い」は、「さいわい」である。ところが、戦前の日本語表記法はこれとは異なり、この文語訳聖書では「さいはひ」と書いてある。「憐み」も「あはれみ」であり、「あわれみ」ではない。「効力」も「かうりょく」であって、「こうりょく」ではない。

これではだめだと思ったので、早速、私訳をし始めた。もちろん、口語訳である。そうしているうちに、日本聖書協会より「口語訳」が出された(1956年)。これは、かなりひどい訳ではあったが、当時使える聖書としてはこれしかなかったので、使わざるをえなかった。これがひどい訳であるということは、聖書の原文を勝手に変えて訳したり、キリストの権威をあえて認めようとしなかったりしていた。そこで、日本プロテスタント聖書信仰同盟では、日本聖書協会に質問状を提出したにもかかわらず、一向に返答はなかった。

そうこうしているうちに、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々の中から新しい聖書翻訳の気運が高まり、アメリカのロックマン・ファウンデーションの協力を得て、「新改訳聖書」を出すことができた(1970年)。私もその時、翻訳者の一人として加わった。

その後、日本聖書協会では、カトリックと「共同訳聖書」を作るということに先立ち、アメリカ聖書協会翻訳主任のユージン・ナイダ博士を招いて、「ダイナミック・エクイバレンス」なる翻訳理論の説明会を開き、私もそれを聞いたのだが、従来の翻訳原則が頭にこびりついているため、全く受け入れられなかった。

その後、リビング・バイブルの序文にケネス・テイラー博士が、このような意味のことを書いておられた。「新約聖書で旧約聖書から引用する時、原文とはかなり違った引用の仕方をしている。このようなことが許されるなら、このリビング・バイブルもありうるはずだ。」この時、私は「ダイナミック・エクイバレンス」の翻訳理論が分ったのである。しかし、リビング・バイブルは厳密には翻訳ではないが、私は新しい翻訳原則で原文から翻訳しようと思った。

2008年5月11日日曜日

罪の現実5 - 文学が示している人間の破局性(1)

中世に文学は、神の御前に人間を設定して、その人間がどういう動きをするのかを描いている。しかし近代の文学になると、神を信じる人は必ずしも多くはないので、神との関係において人間を考えるのではなく、人間のうちにあるものをそのまま延ばしていくとどういうことになるのかということをテーマにしている。

ことに日本の近代文学で、その意味から特異な存在として、画期的な位置を占めるのは夏目漱石であると思う。彼の「こころ」という作品があるが、その主人公である「先生」が「私」に語りかける印象深いところがある。
「あなたは未だ覚えているでしょう。私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にいるものではないと云ったことを。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。あの時貴方は私に昂奮していると注意して呉れました。そうして何んな場合に、善人が悪人に変化するのか尋ねました。私がただ一言金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔を記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時伯父の事を考えてゐたのです。」

これは、先生という主人公が伯父さん一家にうまくだまされて、伯父さんがその娘と自分を結婚させることにより、自分が父親から受け継ぐはずの財産を取ろうとしていることを知るのである。「アカの他人は信用できない。しかし伯父さんだけは信用できると思っていた」その気持ちが、伯父さんにそむかれて、彼はショックを受けるのだ。

彼は東京の下宿の隣部屋に親友Kを住まわせるのだが、そのKと下宿の娘さんが親しくするのに、心の中で何か穏やかならぬものを感じ始めるようになる。それからしばらくすると、Kからその娘さんに対する愛の告白を聞かされる。彼の心はますます平穏さを失っていく。そして下宿の小母さんに「お嬢さんを下さい」と言うのだが、小母さんからは、「あなたのお友だちにはあなたの方からよく話して下さいよ」と言われるのだが、到底話せない。ある日、お茶飲み話の時か何かに小母さんが、Kにその話をしてしまう。そしてKは思い詰めて、自分の部屋で自殺をしてしまうのだ。

アカの他人も、伯父さんも信用できないところから、今度は自分さえも信頼することができなくなっていくのである。

2008年5月7日水曜日

聖書について2

聖書は良い本だけれども分りにくいと言われる。毎年わが国では数百万冊の聖書(分冊をも含めて)が人々の手に渡っているというのに、その約九割は読まれていないというのだ。どこにその原因があるのだろうか。それは、読んでも分らないのだと言われているのである。

それでは、どうして読んでも分らないのかと言うと、どうやら翻訳に問題があるらしい。もちろん聖書が本当に分るためには、信仰を持って読まなければならないわけだが、実はそこまで行かないところで、さっぱり分らないのだ。それは、聖書が書かれた時代の風俗や習慣が、今日私たちが生きているわが国のものと全く違っているのに、そのような歴史的、社会的、文化的な違いをほとんど考慮に入れずに訳しているところにあるのだ。

従来使われていた聖書翻訳の原則は、「原語に忠実」、一点張りだった。「原語に忠実」で何が悪いのかと思う。しかし、原語に忠実だけではだめなのである。むしろ、歴史、社会、文化の違いを考慮に入れた、「原文の意味に忠実」ということが重要なのだ。これは、アメリカ聖書協会の翻訳主任であった言語学者ユージン・ナイダ博士によって提唱された「ダイナミック・エクイバレンス」という翻訳理論である。そしてこれは、キリスト教界においてだけでなく、一般に使われている翻訳理論でもある。キリスト教界では、現にウイックリフ聖書翻訳協会の宣教師がこの翻訳理論を使って、世界各地で聖書を翻訳している。

聖書というものは、元来、それを読むだけで分るものであったはずだ。読むだけでは分らず、その説明文が必要であったとしたら、それをも加えたものを、神は私たちにお与えになったはずである。しかし、神が私たちの救いについての御心を示してくださったのは、あの六十六巻の聖書だけなのだ。だから、当然のこと、聖書はそれ自体、神の御心を明瞭に示していたと言うことができる。

それなのに、今日私たちが聖書を読んでも、読むだけではよく分らないのは、翻訳に問題があることに気付いたのである。「原語に忠実」という翻訳原則を変え、「原文の意味に忠実」という翻訳原則に変えて訳した。とにかく読むだけで分る聖書として、三十年余りの歳月を費やして訳した。それが「聖書」(現代訳、現代訳聖書刊行会)である。この翻訳原則に従って訳された聖書に、欧米ではもう何種類も出ていると言うのに、わが国では、この通称「現代訳聖書」一種類のみであることは寂しい限りである。

2008年5月3日土曜日

罪の現実4 - 欲望に彩られている人生

ほとんどの人は何らかの欲望を持って生きている。人間が持っている欲望は、食欲、睡眠欲、性欲といった、いわば動物的な欲望と、ただ一つ人間にだけある、認められたいといった重要感の満足につながる欲望がある。

しかし、こうしたものだけで、はたして人間が生きる喜びを味わうことができるだろうか。今日、あたかもほとんどの人がそこにしか関心がなくなってしまったかのように、どの小説も性風俗の克明な描写にうつつを抜かしているが、そのようなことで、はたして私たちは本当に満足できるのだろうか。確かに、私たちの欲望はそれによって満たされるが、その時、私たちは嫌というほど魂の飢え渇きを覚えないではいられない。

人間として生きることに喜びを見出すためには、自分が今生きていることに満足できなければならない。「生きがいの欲求」について、最も深く追究したアメリカの心理学者キャントリルは次のように言っている。
「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに『成功』であるように見えても、もしあなた自身が経験の『高揚』を感じなければ、それはあなたにとって成功ではない。それゆえ、時折われわれから見ると成功したように見える人が自殺をし、世間が『偉大』であると考えている芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしいと言ってわれわれを驚かせるのである。」

それでは、自分が今ここにこうして生きているということに、私たちはどうしたら満足できるだろうか。普通私たちは、いつも何かによって、満足がおびやかされている。不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみといったものがそれだ。だから、それらを取り除いておく必要がある。しかしその原因は一様ではないので、いくら原因になりそうなことが起こっても、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の持ち方の方が大切であると言うことができよう。

また、生きていることに満足を与えるということは、生命の流れをスムースにすることなのだから、それを助けるものとしては喜びを挙げることができるだろう。つまり、いつも心に喜びを抱き、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の態度が一番基本的なことである。この欲求不満の処理がうまくいかなかったがために、ノイローゼになる人は決して少なくないのである。

2008年4月30日水曜日

聖書について1

クリスチャンと称する人々の中にも、聖書についての考え方は必ずしも一様ではない。聖書を誤りのない神の言葉と信じる人もいれば、聖書は約40人の人によって書かれたもので、書いた人のそれぞれの信仰がそこに表わされているから、相互に矛盾があってもやむをえないと考えている人もいる。後者の人々にとって、聖書は参考意見以上の何ものでもないから、信仰生活において何を基準にしていったらよいのかということになると、回答はまちまちである。それぞれの神学者の言うことを拠り所とするほかないだろう。

それに反し、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、聖書に信仰と生活の基準を見出し、それに従って生きていくことになる。私はこの立場に立つ。この二つの立場のうち、なぜ私がこの立場に立つのかと言うと、それが主イエス・キリストの立場であり、主イエスの聖書観だからである。主イエス・キリストはこのように言っておられる。
「わたしは、律法や預言者と呼ばれる旧約聖書の教えを不要なものとするために来たのだとは思わないでください。むしろ、わたしは旧約聖書を行うために来たのです。確かに、旧約聖書のすべては、たとい天地が滅んだとしても、必ず実現されます。それほど確かなものです。」(マタイ5:17-18)

それだけではなく、新約聖書の記者たちは旧約聖書を引用している時、「神がこう言っておられる」という意味で使っている。必ずしも神が語っているところでない箇所を引用している場合も、「神は・・・仰せられた」(ヘブル1:5-13)と述べている。つまり、主イエス・キリストと共に、聖書記者たちは皆、聖書を神の言葉と信じていたと言うことができるわけである。

聖書が誤りのない神の言葉と信じた人々がキリスト教会の歴史の中核を形成してきた。古代の多くの教父たち(キリスト教会の指導者たち)を初め、宗教改革者たち、近代における多くの外国宣教師たちは皆そうであった。

聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、何か問題が起ると、神の言葉である聖書に解答を求めて、解決することができ、勝利者として歩むことができる。これほどすばらしいことはない。死の恐れの問題も、人として生きる喜びについても、聖書から解答が与えられる。聖書が神の言葉であるということを信じる根拠について、さらに深く知りたい方は、拙著「聖書の権威」(羊群社)を参照されたい。

2008年4月26日土曜日

罪の現実3 - 悔いのない人生

私たちの人生はたった一度しかないもの、やり直しのきかないものだ。このたった一度しかない人生を、私たちはどのように送るべきだろうか。

多くの若い人たちの願いは、きよく、正しく、美しく生きたいということだろう。若い人たちは正義にあこがれ、純粋を求め、真実でありたいと望んでいる。これがまだ世間に出て汚れていない人たちの姿である。しかし、この人たちが世の中に出て、何年、何十年とたっていくと、ほとんど一人の例外もなしに不純になり、醜くなり、うそと偽りで固めた人生へと陥ってしまう。それはなぜなのだろうか。一生涯、きよく、正しく、美しくありたいという願いを貫いていくことはできないものなのだろうか。

わが国では、きよさ、正しさ、美しさというものは無力なもの、それに反して力のあるものは、多少、不純でも醜くても、汚れていても仕方がないものという考え方が一般的だ。

きよく、正しく、美しくありたいという願いを生涯貫き通す道は決してないわけではない。一時、「三十以上の人は信用するな」という言葉がはやったことがあったが、三十歳以上、つまり中年以後の大人だけが不純なのだというのだろうか。そのように言う青年たちの心の中に、すでに不純の種は蒔かれているのである。若い人たちは、まだ発芽していないのを見て、自分たちのうちに正義や真実や純粋だけしかないと思い込んでいるけれども、やがてその不純の種が発芽し、花が咲き、実を結ぶのである。このように、若い時には、きよく、正しく、美しくありたいとあれほど熱望していた思いが、いつしか消えて、現実派となり、醜くなり果てていくのではないだろうか。

そういうことが分ると、決して自分の力で、きよく、正しく、美しくありたいという願いを一生涯貫き通し、実行できるなどとは言えないことが分る。私たちを不純にし、醜くし、堕落させてしまうものを取り除くことは、自分の力ではできない。というのは、それが罪だから。罪は、それを犯した人が自分でそれを取り除くには、その罪の償いがなされなければならない。罪はいつでもそれを犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。その償いが終るまで、その力は決して失われることはないからである。

2008年4月23日水曜日

健康について 8/8

ある胃潰瘍の患者と会った時、彼がその雇主をものすごく憎んでいることが分った。彼が働いている店の主人は、ひどい男で、労働法に引っかからないようにして彼を苦しめるというのだ。そのため、彼は主人を憎むようになり、その憎しみが心の中に積り積って、彼の体を悪くしたことが分った。医者も彼の胃潰瘍の原因が精神的な抑圧によるものだと言ったそうだ。激しい憎悪がついにこの人の胃に潰瘍を作ってしまったわけである。

彼に会った時、私はこう言った。「あなたの立場に立って考えてみると、本当にお気の毒です。しかし、あなたの解決はただ一つしかありません。それは、仕返しをしようと思わないことです。聖書にはこう教えられています。『主は仰せられる、「仕返しはわたしのもの。わたしが報いをする。」』(ローマ12:19)。あなたの憎しみを神にお任せし、あなたの精神的な負担を軽くされることです。あなたの胃潰瘍の本当の原因は憎しみなんですから、胃潰瘍になった個所を、手術して取り去っても、心因を取り除かなければ、決して根治はできませんよ。あなたの憎しみ、仕返しを神様に任せてしまうことです。」

その人はこう言うのだ。「どうしてそんなことができるんですか。」そこでわたしはその人にこう言った。「その相手の人を憎む代りに、その人のために祈り、その人が祝福されるように神様に願うことです。」彼はそれを聞くと、驚いた様子で私の方を見た。「そんなことができるもんですか。あんな奴のために祝福を祈れって言うんですか。そんなことができるくらいなら、こんなに苦しむもんですか。」彼は吐き出すように、こう私に言った。

私はさらに言った。「それ以外の方法では、決して治りませんよ。この愛の力によって相手を打ち負かすというこの方法こそ、最も正しい医学的な方法なのです。精神医学においては、実はこの方法しかないんですよ。「善によって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)という聖書の御言葉をご存じですか。敵に対して、あなたが善意を持ち始めると、あなたの心から恨みや憎しみが消えて、心には平安が与えられるのです。あなたの心から緊張がなくなると、もう二度と胃潰瘍によって苦しめられることはないでしょう。」

この人は、自分でいろいろ考えたすえ、もう一度私の所へ来て、「どうしても治りたいので、聖書が教えている『自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい』(マタイ5:44)を実行したい」と言って来られた。そして、ついに胃潰瘍の苦しみから解放されることができた。

2008年4月20日日曜日

罪の現実2 - 生きる喜びを見失った人生

今日どれほど多くの人が生きる喜びにあふれて生きているだろうか。この生きる喜びというのは、生きていること自体についての喜びだから、いわゆる官能的な喜びとか快楽などとは性質の違うものである。今日多くの人々が、人生にも仕事にも家庭にも喜びを見いだすことができず、快楽にそれを見いだそうとしていることは悲しむべきことである。確かに、快楽もまた生命力の発現であり、賛歌であるわけだが、人間が人格的な存在である以上、その人格から切り離された満足は、いわば線香花火のようにはかないもので、束の間の華々しさでしかない。人格の大切な部分が満たされないままの満足というものは、必ず後に苦いものが残る。「快楽尽きて哀愁を知る」のである。快楽の後の言いようのない倦怠感と空虚感を一度でも味わったことがあるのであれば、そのことは実感として分ることだろう。

生きる喜びというものは、いつでも未来に向かって明るい光であって、そこに希望と信頼の心があるものだ。そのような意味で、あなたは生きているということに喜びを持っておられるだろうか。

また、本当の喜びというものは、利他的な要素を持っている。だから、生きる喜びを持っている人は、ほかの人に対して恨みやねたみを感じにくく、むしろ寛大であることができる。たとい自分よりも幸福な人がいるのを知っても、その人に対して憎しみを抱くようなことがない。というのは、生命が充実しているからである。むしろ、自分がこのように生きる喜びにあふれていることを、当然のこととして受け取ってもよいものかどうかとまどうことさえあるくらいである。

生きる喜びというものは、人生の困難に耐えることができ、困難があっても、それでへこたれてなどしまわず、かえって生きがいを覚えるものである。どんな人でも、自分が何かに向かって前進していると感じるなら、その努力や苦しみも、やりがいのあるものとして受け止めることができ、むしろ生命の充実感を味わうことができる。

このような充実感をあなたは持っておられるだろうか。人間として生きるというこの重要な問題は、必ず一度は考えてみなければならない問題である。これを避けて通ることは、人間として生きることを避けていることにほかならない。

2008年4月16日水曜日

健康について 7/8

フランスのハンス・レリー教授が、1954年に、フランスの生物学会に、今日レリー現象と呼ばれるものを発表したことがあった。これは、チフス菌を使って実験したのであるが、彼は細菌の感染や発病は、自律神経の刺激によってはじめて起るもので、もしも自律神経が不動の状態であれば、細菌感染による発病はないはずだというものであった。

それまでは、腸チフスにせよ、結核にせよ、ヂフテリーにせよ、百日咳にせよ、こういう伝染性の病気は、それぞれにチフス菌、結核菌、ヂフテリー菌、百日咳菌によって起るものだと考えていたのだが、レリー学派の研究によると、このような病気は、特別に異なった病原菌によらなくても、自律神経の刺激によって起される病理現象だと言うのである。

彼らの実験によると、チフス菌によらなくても、チフス菌が刺激する自律神経の個所をピンセットでつまんだだけで腸チフスと同じような症状が起ったと報告している。だから、レリー学派の研究によると、細菌そのものの作用は、自律神経を刺激するだけの役割しか果していないということである。

レリー学派の研究によると、人体にはクロールプロマジンという自律神経遮断剤があって、病原菌が体内に進入してくると、すぐにこのクロールプロマジンが自律神経を守るというのだ。たといあの猛毒な黄燐(それを主成分としたものが、「ねこいらず」である)さえも無害にしてしまうと報告している。黄燐というのは、肝臓を黄色にして脂肪肝にしてしまう猛毒を持っているのだが、クロールプロマジンで自律神経を遮断しておくと、全然影響がないというのである。

新約聖書の中の「使徒の働き」において、パウロがローマに捕えられて護送されて行った時のことが記されている。その中にこういう個所がある。パウロがマルタ島でたき火に当っていた時、くべた柴の中から出て来た毒蛇にかまれた時のこと、その土地の人々はパウロがその毒のために倒れてしまうに相違ないと思って見ているのだが、パウロは毒蛇にかまれながらも、倒れることも死ぬこともなかった。それは、彼がローマを見るまでは決して死ぬことはないと確信していたからである。しかも、その彼の確信は、単なる彼の思い込みによるものではなく、聖霊の神によるものであったのである(使徒28:1-6、19:21、27:24)。

2008年4月12日土曜日

罪の現実1 - 失われてゆく純粋さ

私たちは一人前の大人になっていくにつれ、大切なものを失っていっていることにどれだけ気付いているだろうか。

有名な女流文学者パール・バックが彼女の経験を述べている本がある。彼女の少女時代の夢は、自分の家が子供たちで一杯になることだったそうだ。ところが、後になって結婚すると、彼女には後にも先にもたった一人の娘しか生れず、こともあろうに精神障害児だったのだ。そのことを知った時の心境を彼女はこう記している(「母よ嘆くなかれ」)。
「避けることのできない悲しみ、どんなにしてこの悲しみに耐えることができるかを学ぶのは、やさしいことではありませんでした。今日になってこそ、それをよく振り返ってみることができますが、それまでにいたるのは、きびしい越えがたい道でした。両親よりも長生きするかもしれない子供の生命を、どうしたら守れるかという問題にくわえて、私たち自身のみじめな生活を一体どうしたらよいだろうかという問題まで、のしかかってくるからです。人生のすべての明るさも、親としての誇りもなくなってしまうのです。・・・しかし多くのことを私は娘から学びました。とくに、娘は私に忍耐することを教えてくれました。・・・私が歩まなくてはならなかったこの最も悲しみに満ちた道を歩む間に、私は人の精神はすべて尊敬に値するということを知ったのでした。すべての人間は平等であり、そしてまた人間として同じ権利を持っているということをはっきり教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でした。・・・私はどんな人でも、人間であるかぎり、他の人々より劣等であると考えてはいけないと、そしてすべての人はそのいるべきところと安全を守られなくてはならないと思うようになりました。・・・娘はまた知能が人間のすべてではないことも教えてくれたのです。娘の性質の中には、何か不思議な真実なものがあって、あらゆるうそがはっきり分るようでした。そして、どんなうそも彼女は決して許しませんでした。何かすぐれた純粋さを、娘は持っておりました。」

今日、私たちの間には、真実とか純粋というものが失われ、損をするか得をするかという損得勘定しか優先しない恐るべき功利主義を見るのは何とも悲しいことではないだろうか。

2008年4月8日火曜日

健康について 6/8

前回、看護師に腹を立て、彼女を憎んでいた一人の病人の話をした。その病人が、聖書の教えである「あなたの敵を愛しなさい」という教えに従い、その看護師を憎むことをやめたとたん、病気は治ってしまったと言った。

ところが、ある人はこんなことを言ってきた。「憎しみを自分で取り去るなんてことはそんなに簡単に出来ることではないでしょう。そんなことをするよりも、コーチゾンというような薬を注射するなり、内服するなりした方が、よっぽど手っ取り早いのではありませんか。」確かに効き目は早いかもしれない。しかしながら、これは一時的なことであって、それをやめると、俄然病気は悪化してくるのだ。そのため、このごろでは良心的な医師は、なるべくそのようなものは使わないようにしている。これは、医療的にコーチゾンをやっても、嫌な看護師の顔を見れば、それはストレスになり、結局ストレスそのものは依然として加わり続けるわけだから、コーチゾンをやめた時には、目も当てられない病状になってしまうのだ。

だから、セリエ学説が正しいものであるとすると、ほとんどすべての病気は、心に本当の平安が与えられれば治ってしまうものであるということになる。そして、感情の刺激になり、ストレスを起す原因となるような外的事情や環境をすべて取り除いてしまえば、どんな病気でも治るはずだ。けれども、そんなことは全く不可能なことで、結局こうした問題の解決は、外的事情や環境がどうであろうと、そういう嫌な情況に打ち勝つ信仰による以外にはないということになるだろうと思う。

人間はだれでも弱い。だから、周囲の外的事情や環境に左右されがちである。私も全く同じで、私が病弱であったのは、そうした理由からであったと思う。しかし、クリスチャンになり、信仰を持つようになると、元気になっていった。周囲の外的事情がどうであろうと、信仰によって健康になっていった。健康を保持するための四つの原則がよく分り、これを励行してから変った。

私は今でも玄米菜食をし、よく寝、週に二回ぐらい水泳をしている。体は疲れたら寝れば回復するが、精神的な問題に当面した時は、神のみもとに行って、重荷を下すことにしている。こうして、いつも心に平安と喜びを持って生きているので、八十歳の今も元気で現役として働いている。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著「心の健康・体の健康」(恩寵社)を参照されたい。

2008年4月6日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか9 - 罪意識を持っているから(2)

私たちは自分に対する深刻な嫌悪の泥沼からどうやって這い上がってくることができるだろうか。自分に対する嫌悪の念から自分を憎む余り、自殺するかもしれない。またある人は、酒やタバコや薬物の中に身を置いて、それをごまかそうとするかもしれない。またある人は、人間なんてどうせこんなものなのさと考えて、すべてを浅くごまかしながら生きて行くかもしれない。またある人は、自分で発見した自分の姿をそっと隠し、再び仮面を付けて生きていくかもしれない。

けれども、自分の厳しい現実の醜い姿を、そのままありのままに受け入れざるをえない。そういう生き方をする人もいると思う。しかしいずれにしても、そういう時に取る態度が私たちの人生を決定的なものとしてしまうことを覚える必要がある。

ある人は、自分が過去においてしたある事のために、罪意識を覚えるかもしれない。ある一人の人のことだが、この人は第二次大戦の時、中国へ行って、そこでただ一度だけ人殺しをした。 彼は斥候に遣わされて行き、ふっと姿を現わしたら、向こうにも斥候らしい兵隊が姿を見せた。殺すか殺されるという土壇場で、その人は銃で敵方の斥候を撃ったのだ。自分の見ている前で相手は倒れた。

彼は戦争が終り、復員して帰って来た。しかし帰っては来ても、人を殺したという思い、心の中の罪意識を、どうすることもできなかった。ほかの人は彼にこんなことを言ってくれた。「あなたが悪いのではない、戦争が悪いのだ。」また別の人は彼にこんなことも言ってくれた。「あなたよりももっと多くの人を殺している人がいくらもいるんじゃないか。あなただけではないんですよ。」いくらほかの人からそのようなことを言われても、心に平安は来なかった。

その人は、普通の仕事に就くことができず、奉仕的な仕事に就いた。けれども、そんなことによって、自分の過去を償うことはできなかったのである。主イエス・キリストによる罪の赦しの宣言を得るまで、彼は本当の人生を回復することはできなかった。

私たちは罪意識を持ったままであれば、幸福になることはできない。多くの女性が堕胎をし、それが殺人行為だということが分っているだけに、水子供養をしたりするが、そんなことによって良心の呵責が取り除かれることはありえないのである。