2007年11月28日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 2/5

以前、毎日新聞社が調査した時、「もしも宗教を持つとしたら、どういう宗教に入りたいと思いますか。」という質問に対して、若者の60パーセントが「キリスト教」と答えたと聞いている。そしておそらく今日では、その数字はもっと大きくなっていると思われる。海外に留学して、クリスチャンになって帰って来る人もかなり増えている。それにもかかわらず、わが国ではクリスチャンになる人がどうして増えないのか。前回、日本人がほかの人と違った考え方を持ちたがらないことについて触れた。それは、島国に生きているからである。

ほかの人と違っていることに違和感を抱くのは、日本という国が島国であって、一度も外国からの侵略を受けたことがなかった。その小さな島国で、みんなと一緒にやっていくことが必要であり、それが良いことなのだという考えが生れていった。つまり、「和をもって尊しとする」気風がいつしか生れていったのである。だから、日本における制裁は、いつも「村八分」という形を取った。共同体から放り出されたら生きていけないことを身に滲みて感じている人々は、いきおいその共同体の中で、みんなと同じように暮していくようにならざるをえなかったのである。

それだけではない。キリスト教が善いということは分っているのに、どうして人々はクリスチャンになろうとはしないのだろうか。それは、科学的真理と宗教的真理の違いがそこにはあるからだ。科学の問題である場合には、それに偏見を交えさえしなければ、正しい解答をだれもが出すことができる。だから、時や場所が異なっていても、皆同じ結論に到達することができる。しかし、信仰のことになると、そうはいかないのである。

科学者の場合、どんなにいかがわしい生活をしていようとも、その研究していることに関する限り、誤りが入って来なければ、その研究は一応成果を挙げることはできる。しかし、信仰を求める場合はそうはいかない。人間は罪人であるということが本当に分るということは、倫理学者のように頭で理解すればそれで済むということではなく、その罪から離れなければ、最後は裁かれ、破滅してしまうのである。科学の場合、それは頭脳の問題であり、理解力の問題なのだが、信仰の場合、それは心の問題であり、態度の問題なのである。つまり、認めなければならないのに、認めたくないという思いが出て来るのである。

2007年11月25日日曜日

キリスト教を信じることの利点 5/6

5. 心配事が少なくなる

この世の中には心配事が沢山ある。私たちが生身の体を持っている以上、いつ病気にかからないとは限らないし、交通事故や死の危険にもさらされているわけである。入学試験や、子供の事、仕事の事、人間関係の事、将来の事、老後の事など、考えれば考えるほど心配でたまらないというのが本当のところではないだろうか。ほかの人にとってみれば何でもないことであっても、当人にとっては心配事の種になる場合もあることだろう。

私もキリスト教信仰を持つまでは、長い間母親譲りの取り越し苦労性であった。取り越し苦労をしたからどういうということはないのに、そうせざるをえなかった。取り越し苦労をする人は、思い煩う原因となるべきものがまだないうちから悩み始めるのだ。時として、雷をひどくこわがる人がいて、雷がまだ鳴らないうちから、雷の鳴る日にはお腹が痛くなったりするあの敏感性とよく似ている。しかし、取り越し苦労というのは、実に愚かで、ほかの人よりも一回ずつ多く、いつも悩まなければならないのである。実際に苦しいことが起る前に一度悩んでおき、実際に起ってからもう一度悩む。そして時と場合によっては、自分ではそれがやって来ると思い込んでいるにすぎないこともあって、ほかの人は悩まないでいるのに、自分だけ一人で悩んでいるということもある。

ところで、私たちはどうして心配するのかというと、自分の力不足と知識の不足によるのである。何か困難なことにぶつかった時、それを乗り越える知恵や力が十分に備わっているのであれば、だれも心配をしないのだが、それがないために心配をするわけである。

ところが、キリスト教を信じると、神にすべてをゆだねることができるようになる。私たちの心配事をすべてゆだねることのできるお方を知るわけで、そのお方に私たちの心配事をゆだねる時、心に平安が与えられるのである。神が私たちに代って心配してくださるからである。

もちろん、クリスチャンにも次から次へと心配すべき事柄が起ってくるけれども、神にそれをゆだねてしまうことによって、思い煩わないですむわけである。これは、キリスト教を信じる者たちにとって、大きな利点と言うことができよう。

2007年11月21日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 1/5

人間は生れながらにして偏見を持っている。偏見を持っていない人はまずいないと言ってよいだろう。それほど偏った考え方を持っているのだ。しかも驚くべきことに、ほとんどの人が自分は偏見など持ったことはないし、今も持ってはいないと思っていることである。異文化圏の人と交わる時、初めて自分の考えは、世界中の人の中の一つの考えにすぎないことを知るだろう。

日本で自動車を運転している人ならご存じだろうが、交差点などで反対車線の車がライトでピカピカサインを送って来れば、「お先にどうぞ」という意味になる。ところで、韓国で運転する場合にはそうではない。ピカピカサインを見て、先に曲ったら事故を起してしまう。韓国では「お先にどうぞ」ではないのだ。「曲らないでくれ。私の方が急いでいるから、先に曲るよ」という意味なのである。

事々左様に考え方は違う。日本人同士ならまだかなり共通の考え方があるけれども、それでも「あの人は非常識な人だ」とは言わないだろうか。相手の人は別に非常識な行動をしているわけではなく、その人にとって極めて常識的な行動をしているのだが、こちらの常識の枠の中に納まらなかったにすぎない。だから、いろいろな考え方の人がいるのは、むしろ当り前のことだと考えなければならないだろう。ところが、日本という小さな島国の中に生きていると、みんな同じであることがよいことであり、それが当り前のことだと考えやすい。そして、違っている人を排除してしまおうという考えすら起ってくる。

ところで、問題を筋道に持ってくると、クリスリャンになる人は、必ずしも少なくはない。60億余りの世界総人口のうち、約33パーセントに当る20億以上のクリスチャンがいるという統計が出ている。次に多いのは、イスラーム教徒で、20パーセントで10億余り、仏教に至っては3億しかいないのである。しかし、日本だけに目をやると、確かにクリスチャンの数は少ない。同じ人種、同じような文化を持ちながらお隣りの韓国では、全人口の25パーセントから30パーセントがクリスチャンになっている。なぜこのような差がついてしまったのかということについては、ここでは取り上げない。しかしどうしてもお知りになりたい方は、拙著「日本人とキリスト教の受容」(羊群社)をご覧いただきたい。ここでは、一般的にキリスト教が受容されにくい点について見ていこうと思う。

2007年11月17日土曜日

キリスト教を信じることの利点 4/6

4. 人を恐れなくなる

キリスト教を信じるまでは、私たちは人の言うことが気になって仕方がなかった。人の口や人の目を恐れた生活は、無力な生活である。とくに日本人は、ほかの人がどう思うかということを気にする国民である。ほかの人のうわさやほかの人の評価が気になるのである。だから、多くの人はこのような考え方をする。「キリスト教が良いことは良く分かっています。しかし、ほかの人が教会へ行かないのに、自分だけが行くのであれば、ほかの人からどう思われるかが心配で行けません。」ほかの人がどう考えようと、そんなことは全く問題ではないと考える日本人には、ほとんどお目に掛らないというのが偽りのない事実である。ことほどさように、日本人にとっては、ほかの人がどう考えるのかということが重要なことなのである。

どうして日本人はほかの人が自分をどう思うかということが気に掛るのかというと、島国であるということと、一度も敵の侵入によって征服されたことがないため、和を持って尊しとする考え方が生まれ、ほかの人に合わせてものを考えるということが起ってきた。だから、日本における制裁は、いつも村八分という形を取る。共同体からはみ出されたら生きていけないという考え方が形成されていったわけである。だから、ほかの人のことがいつも気に掛かって仕方がないという考え方が生まれていったわけである。

しかし、神からしっかりとした確信が与えられると、人を恐れなくなるから、ほかの人の言うことなど少しも気にならなくなる。

ほかの人の言うことが気にならなくなるというのは、傲岸不遜になることとは違う。自分の確信というものが与えられるために、人がどのように思おうと、人がどのように言おうと、人の思惑や、人の反対や、人の評価などが全く問題でなくなるのである。ただ神からの評価によって生きることができるようになるのである。

人のうわさや人の目を気にしている生活は、いつも人を見ておびえていなければならないが、神だけを見上げている生活においては、比較の世界から脱して、絶対者である神の見地からすべてを見ていこうとするわけだから、いつも心に余裕があって、平安と確信に満ちていることができる。

2007年11月14日水曜日

アジアの人々への謝罪運動 2/2

日本の近代化百数十年の歴史は、アジアの人々との共生を模索したのではなく、アジアの人々を踏み付けにしてきたものであった。この事実を、私たちは決して忘れてはならない。加害者という者は自分のやってきた悪事を簡単に忘れてしまうものだが、被害者はいつまでもその痛みを覚えているものである。現に私たち日本人は、いまだに原爆被害を叫び続けているではないか。それは、今もその痛みがあるからである。日本人は、被害者であったと同時に、加害者でもあったのだということを知らなければならない。そうでないと、アジアの人々の心の痛みを見過ごしにしてしまわないとも限らない。私たちがアジアの人々との共生を願うなら、そのことをいいかげんにすることはできないのである。

1956年の初夏のこと、ある朝、私はディヴォーションを持っていて、マタイによる福音書5章を読んでいた。その時、私は次の御言葉に捕えられてしまった。
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみを抱いていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」(マタイ5:23-24 口語訳)

「祭壇に供え物をささげ」ることは、礼拝のことである。神の民にとって、礼拝は何ものにも勝って優先しなければならないことなのに、それよりも優先しなければならないことがあるというのである。それは和解である。なぜ和解がそんなに重要なのかと言うと、この御言葉の文脈から見ていくと分るのだが、だれかからうらみを買っているというのは、殺人だからなのだと教えられている。

私はこの御言葉を読みながら、私たち日本人は確かにアジアの人々から恨みを買っているということを思い出していた。なかでも、とくに韓国、中国の人々に対してわが国が行なってきたことを知っていたからである。この御言葉を見る限り、私たちがいくら熱心に礼拝をささげても、主から祝福を受けることはないだろうと思った。それは、アジアの人々に対して謝罪が行われていないからである。それをしなければならないことを、私はその日神から強く示された。こうして私が始めたアジアの人々への謝罪運動について、くわしくは、月刊雑誌「羊群」(羊群社)の2007年1月号からに連載されている。

2007年11月11日日曜日

キリスト教を信じることの利点 3/6

3. 人間関係が良くなる

私たちが社会生活を送っていこうとする時、人間関係は極めて重要なものになってくる。人間は一人で生きていくことができないからである。私たち人間が一人で生きていくことができないのは、私たちが人格を持った存在だからである。ここで人格を持った存在というのは、「あの人は人格者だ」というような言い方の時とは全然別の使い方である。人格を持った存在というのは、もう一つの別の人格を必要とする。それなしには生きていくことのできない存在ということである。

具体的に言えば、人間は人格の持ち主である神やほかの人間なしでは生きられない存在なのである。そういう者として、神は人間をお造りになられた。人間が神のかたちを持った者として造られたということは、そのことである。

人格を持った人間は、ほかの人格を持った人間を必要とする存在である。そういう人がいないと耐えられぬ孤独にあえぐようになる。現代人が孤独なのは、本当に交わりうる相手を持っていないところにある。愛と信頼によって成り立っている友や配偶者をあなたは持っているだろうか。

それでは、どのようにすれば、人間関係を良くすることができるのだろうか。それは決して小手先でできるテクニックのようなものではない。私たちが取る姿勢そのものに関係している。私たちの方が変ることが何よりもまず必要である。私たちが自分の言いたいことを言い、やりたいことをしていたのでは、決して人間関係はうまくいくものではない。

それでは、どうしたら私たちが変ることができるのだろうか。ある人は、自分の力でそれをしようとする。けれども、それは全く無理なことである。自分で自分を変えることなどできるものではない。もしもそれができるものであるとしたら、人間はとうの昔にあらゆる問題を解決し、そういうところから卒業していたはずである。だから、自分で自分を変えることなどできないのである。

相手が変ることを期待することは無理なことである。むしろ私たちが変ることを期待するべきである。神が私たちの生き方を根底から変えてくださる。キリスト教を信じる時、神がそうしてくださる。これが、キリスト教を信じる大きな利点であると言うことができる。

2007年11月7日水曜日

アジアの人々への謝罪運動 1/2

日本の近代化の歴史、百数十年は、アジアの人々を踏み付けにしてきた歴史だった。こういうことについては、案外知らない人が多い。それもそのはず、私たちが学校で教えられてきた日本の歴史は、五大強国にのし上がってきたものであった。つまり、それは栄光の歴史にほかならなかった。学校で使う教科書には、これしか書かれていない。ところで、この栄光の歴史のかげに、恥辱の歴史があることを知らなければならないのである。

当時の世界情勢はどうであったかと言うと、ヨーロッパの列強が、アジア、アフリカの国々を植民地化していた。アジアだけに焦点を合わせると、インドはすでに十八世紀のころからイギリスによる侵略を受けており、十九世紀の半ばまでに、イギリスは現在のインド、パキスタン、ミャンマー、セイロン(現スリランカ)、ネパール、マレーシアなど、南アジア全域を支配下に置いていた。

インドシナ半島東部地域は、フランスが侵略していた。今のヴェトナム、カンボジアそれにラオスも十九世紀末までにはフランスの支配下に入っていた。

また現在のインドネシアはオランダが支配していた。フィリピンは、すでに十六世紀からスペインが領有していた。

アジアで植民地化を免れていたのは、タイと日本だけであった。このように、アジアの各地は、ヨーロッパの列強によって侵略されていた。中国はアヘン戦争でも、またアロー戦争でも敗北したが、このどちらの戦争もイギリスが起こした戦争で、目的は中国をイギリス工業の市場とすることであった。

こうした情勢下にあって、日本が欧米の侵略に備えて生きる道としては、統一国家を樹立する以外にはなく、1853年のペリー来航をきっかけとして、幕藩体制から近代国家としてスタートするために、明治維新による新政府が1868年に出来ることになる。

そして新政府が取った道は、アジアの諸国と手を組んで、共闘するということよりも、欧米の仲間入りをすることによって、植民地化を免れようとしたのである。もちろん、アジアの国々と手を組んで共闘して勝利を収める可能性がどれほどあったかは疑問だが、しかし、わが国は海外侵略を開始し、アジア、アフリカを通じて、唯一の植民地保有国となり、そのことのために、アジアの国々から恨みを買うようになってしまったのである。

2007年11月4日日曜日

キリスト教を信じることの利点 2/6

2. 反省心を持つようになり、人生の生き方の方向転換をすることができる

私たちは、キリスト教信仰を持つまでは、悪いのはいつでもほかの人であって、自分は決して悪くはないのだと思い、ほかの人を責めていた。けれども、キリスト教信仰を持つようになると、自分の本当の姿が分り、自分の非を認めることができるようになるのである。

精神的に健全な人なら、だれでも反省心を持つ。だから、精神科の医師に言わせると、まともな人間であるかどうかを判断する一つの方法として反省心があるかどうかを見るのだと言う。だから、まともな人なら、だれでも皆反省心を持っている。しかし、キリスト教信仰を持つと、ただ単に反省心を持つようになるだけでなく、悔い改めることができるようになるのである。

悔い改めと後悔は全く違う。後悔というのは、それがどんなに深い悔恨の念から出ていたとしても、悪かったという思いで留まってしまっているため、決して前進することがない。ところが、悔い改めというのは、それとは違い、今までやっていたことをやめ、方向転換するわけだから、実質的な前進がそこにはある。だから、後悔であるのなら、同じ失敗を何度でも繰り返してしまうのに反して、悔い改めは決定的な方向転換であるため、同じ失敗を何度も繰り返してしまうということはない。

なぜ悔い改めにはそのような効果があるのかと言うと、悔い改めと信仰とは表裏一体の関係にあるからである。今までイエス・キリストに背を向けて歩んでいた人が悔い改めると、その人は生き方の方向転換をするわけだから、今度はイエス・キリストを信じ仰いで生きるようになるわけである。後悔になぜ前進がないかというと、それは背後に信仰という裏付けがないからである。そこに、この両者の間の決定的相違点があるということが言える。

どんなに反省心があっても、悔い改めることができなければ、同じところに留まり続けていて、前進がない。

たとえば、誰かの心を傷付けてしまったような場合、ただ単に自分の心の中で後悔の念を繰り返していたのではだめで、傷付けた人の所に行ってわび、償いをすることが必要である。これが悔い改めの実であり、新しい生き方の結果である。