2009年4月21日火曜日

もの書きになって

昔、私は書くことがにが手だった。それは私のにが手な科目の一つが作文であったことにも表れている。なぜ作文がにが手であったのかと言うと、本を読むのが余り好きでなかったことによる。本を読むよりも、ものを考えたり、作ったりすることが好きだった。そんな私が、今では百五十冊もの本を書くようになったのは、不思議と言えば不思議と言うほかはない。

もう一つのにが手のものがあって、それは、皆の前で話をすることであった。こちらの方は、キリスト教信仰を持つと、すぐ直った。皆の前で入信の話をするようにと言われ、三百人ぐらいいる人々の前で話をした時、それまでは多くの人々の前に立つと、頭の中が真白になってしまったのに、その日から私は落ち着いて、皆の前で話をすることができるようになった。

しかし、ものを書く方は一向に変りばえがしない。ものを書くという場合、二つのことがどうしても必要になってくる。何を人に伝えたいのかというものを持っているということがどうしても必要になってくる。そして、もう一つは、それをどのように伝えるかという問題である。こちらの方は、どちらかと言うと、日本語の技術の問題である。技術とは言っても、もっと具体的に言うと、伝えたいメッセージを、いかに相手に正しく伝えるかということで、つまりは、正しくて美しい日本語で表現するということに尽きる。私もそうであったが、文章の下手な人は、用語が貧弱なのである。物事を強調する場合、「非常に」以外にもいろいろな表現があるのに、そういう用語を使う努力をしようとしない。「今日は非常に暑く、スケジュールが非常にこんでいたので、非常に疲れた」という表現の「非常に」という部分をほかの言葉に変る工夫をしてみる。「今日はとても暑く、スケジュールはかなりこんでいたので、えらく疲れた」と言えば、同じことを相手に伝えることができる。

よい文章を見て、まねをすることだ。お習字を見れば分る。上手なお手本を見て、まねをする。それと同じように、良い文章をよく読み、その中のいい部分を自分の文章に取り入れてみることだ。

主が私に与えてくださった良いものを、何とかしてほかの人にも伝え、ほかの人に仕えていきたい。私がものを書いているのは、それが目的のほとんどである。

2009年4月13日月曜日

大きな試練に遭ったら感謝

人生にはいろいろなことが起って来る。患難、試練もしばしばある。そういうことが起って来た時、昔の私だったら、「何で自分だけがこんな大きな試練を受けなければならないのか」と言って呟いたものだ。クリスチャンになっても、しばらくの間は、そんな考え方をしていた。

ところが、ある時、次の御言葉と出会い、私の考え方は根底からくつがえされてしまった。
「あなたがたが今までに遭った試練は、だれにも襲って来るもので、特別なものではない。神は約束されたことを必ず果たしてくださる真実な方である。だから、約束通り、あなたがたが耐えられないような、厳しい試練に遭わせないばかりか、かえって耐えられるように逃れの道も備えてくださるのである。」(1コリント10:13)

私が耐えられないような、厳しい試練には、神が遭わせられないのだということを知ったからである。

母親が赤ん坊をお湯に入れる時、母親は赤ん坊にとって熱すぎもせず、冷たすぎもしない、ちょうどいい湯かげんを見極めてからでないと、赤ん坊をお湯に入れることはしない。

それと同じように、いや、それ以上に、神は私たちの霊的状態をご覧になっていて、これくらいなら大丈夫という試練の度合いを見極めてからでないと、私たちを試練の中に投じることをなさらないのである。

そのことが分った時、大きな試練に当面しても、神が私をそれだけ大きく評価していてくださるのだということが分り、感謝するようになった。だから、そういうことが起ってきた時、不平、不満を言うのは、全くお門違いなのである。ただこの際、覚えておかなければならないことは、神が大きな試練をお与えになった時、自分がこれほど大きな器に評価されているのだと思って、慢心してはならないことである。そんなことをしたら、たちまちにして足をすくわれて、倒れてしまうことだろう。

御言葉によって、私の人生は変ってきた。御言葉が私の人生の人格形成をしてくださったということがよく分る。私は弱虫であり、肉体ばかりでなく意志も弱い人間だった。どんな時でも不平、不満ではなく、感謝できるようなものに変えてくださったのは、神の言葉である聖書である。

2009年4月1日水曜日

自分に対してひどいことをした人を赦すことができるようになった

クリスチャンになる前の私は、自分に対してひどいことをした場合、決して赦すことなどできず、いつまでもその人に対して恨みを抱き続けていた。嫌な奴は、徹底的に嫌であった。そんな奴とは金輪際付き合うもんかと思ったものだ。

しかし、キリストと出会い、キリストを信じるようになると、キリストの御言葉を実行することに喜びを感じるようになった。初めのうちは、キリストが「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:37)と教えておられる御言葉に出会っても、「それが出来たらいいだろうなあ」とか、それを目標として信仰生活を送って行けばそれでよいのだなどと考えてて、その御言葉をそれほど重く感じてはいなかった。

しかし、よく見てみると、この御言葉はキリストの命令であって、決して願望などではない。これは実行しなければならないのである。そうは言っても、そう簡単に実行できることではない。そこで、私はそれが実行できるように祈った。それを実行することは、そう簡単なことではないので、私は必死になって主の御前に出て、主の力を祈り求めた。

ある時、こんなことがあった。冬の寒い晩のことなのだが、私が床の中に入っていると、電話が掛ってきた。それは、もう十二時を大分過ぎていた。床から出て、電話器を取り上げると、何の応答もない。しばらく耳に当てていると、向うで電話を切る音がした。間違い電話ではなく、明らかに迷惑電話である。そこで、また床の中に入ると、数分してまた電話が鳴った。もしかして、教会員からの緊急電話かもしれないと思って、起き、電話口に出ると、さっきと同じ迷惑電話である。こんなことが二、三回繰り返されると、もう足が冷えて、眠れない。同時に怒りがこみ上げてきた。

次の瞬間、主が私に示してくださったことがあった。この人は、このようなことをして自己満足している気の毒な人だ。主の祝福によって心が満たされれば、もうこのような迷惑電話を掛けてくることもなくなるだろう。そうだと私は思った。そして、次の御言葉を思い出した。「あなたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)

私がその人の祝福を祈った時、電話は掛ってこなくなった。