2013年9月21日土曜日

天地を造られた主

私は山に向って目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩編121:1-2)

私たちの毎日の生活は、余りにせせこましく、わずらわしいものである。確かに、文化的になりはした。何でも人間がする代りに機械がやってくれる。そして人間は、そのこみ入った機械の操作を覚えて、それを間違えずにやれば、機械がすべてをやってくれるのである。毎日使う電気器具の操作やパソコンの操作から、テレビ、新聞、娯楽に至るまでの細かい事柄まで、私たちの頭には一杯詰まっている。新聞、雑誌の細かな活字に取り巻かれ、日増しに騒音化していく私たちの周囲、毎日のように交通事故で死傷者を出していく事実に目や耳を奪われていく中で、私たちはあたかも機械の奴隷となっていきつつあるようだ。

私たちの生活にゆとりを与えるために発明された数々の機械は、時間的にはゆとりを与えてくれたかもしれないが、その反面、騒音や人間関係の複雑さのために、私たちはだんだんストレスを感じるようになってきた。私たちの問題を解決してくれるというほのかな期待を持って作られたものによって、私たちの期待は無惨にも壊されてしまったのである。私たちの安眠は奪われ、忙しければ忙しいほど、私たちの心には今まで予期もしていなかった別の問題が大きくのしかかってきて、私たちはそれに圧倒されそうになってしまっている。

人間は、結局、自分を幸福にしてくれるもの、自分たちの問題を本当に解決してくれるものを発明することはできなかった。人間が自然を破壊し、それによって自分たちが自然から仕返しを受けている。地球温暖化現象などは、まさしくそれであると言ってよいだろう。

それでは、解決はどこにあるかと言うと、人間の手によらないところにある。この大自然を造られた天地万物の主が解決を持っておられるのだ。だから、私たちにとって、本当に助けが必要なら、目を高く上げて、あの壮大な山を見上げることである。それは、山に助けがあるからではない。あの壮大な山をもお造りになった天地の主であるお方にこそ、私たちの一切の問題の解決があるからである。




厚木聖書キリスト教会


2013年9月14日土曜日

敵への歓待

もしあなたの敵が飢えているなら、彼に食べさせてあげなさい。渇いているなら、飲ませてあげなさい。(ローマ12:20)

私たちは一度その人を嫌いと思い込んだら、なかなか好きにはなれないものである。それでは、なぜ好きにはなれないのだろうか。それは、こちらが相手に対して好意を持っていないばかりではなく、向うもこちらに好意を持っていないからである。私たちは、よくこんな弁明をしないだろうか。「いくら、こちらが悪意を持たなくても、向うはやっぱり悪意を持っているんだから」と。このようにして、私たちは相手側のせいにしようとする。しかし、本当に向うだけが悪いと言えるのだろうか。よく考えてみると、こちらにも相手を受け入れるだけの度量がないからということもあるのではないだろうか。いくら向うが悪意を抱いていたとしても、こちらがそれに対して少しも悪意の反応を示さなくなれば、向うでもいつまでも悪意をもっているものではないはずである。

けんかの場合もそうではないだろうか。一方に対して他方が反応を示すから、けんかはますます激しくなってしまうわけである。もしも一方の悪意あるやり方に対して、それを相手にしなければ、けんかは起ることはないはずだ。

しかしながら、それだけにとどまらないで、もう一歩進んで、好意を持っていない相手に対して、こちらが好意を示したらどういうことになるだろうか。けれども、それをするには確かに勇気がいる。しかしながら、これこそ本当の勇気である。相手が好意を持って来た時に、こちらが好意を示すことは、実際はやさしいことだ。何の努力も必要としないからである。ところが、相手が好意を持っていないのに、こちらが好意を示すということには、大きな勇気が必要だ。それは、生れながらの人間には、とても出来ることではない。神によってしか出来ることではない。

しかしながら、こうして積極的に和解していくことこそ、ほかの何ものによっても味わうことの出来ない大きな喜びを味わうことができる。神が力を与えて、それをさせてくださることを期待して、大きく一歩を踏み出そうではないか。

2013年9月4日水曜日

ねたみの火


ねたみと党派心のあるところには、騒動とあらゆる悪がはびこっている。(ヤコブ3:16)


ねたみというのは、理由というほどのないところから起ってくるものである。学校で、ほかの人が自分より成績が良くなったとか、一緒に入社した人が自分よりも先に出世したとかというほんの些細なことが原因であることがほとんどである。それでは、ねたまれた相手は、何か悪いことをしたのだろうか。ほとんどの場合、その人に別段これと言った責任のないことが普通なのである。ところが、私たちは徹底的に利己主義者だから、そのような場合、ねたみ心が湧いてくるのである。

党派心というのもまた、利己主義的なところから起ってくる。このように、ねたみや党派心が起ってくると、それはあたかも燎原の火のように、どんどんと燃え広がって、尽きるところを知らない。ねたみや党派心のあるところ、どこにでも混乱が起きてくるし、嫌なことが次々に起ってくる。そこには、もはや秩序とか平和というようなものの片鱗さえも伺うことができない。

考えてみると、実に恐ろしいことである。最初は誰もこんな恐ろしい結果を招くとは決して考えてもいなかったことだろう。しかし、自分でも気が付かないところにおいて、こんな恐ろしい結果を招くものがねたみであり、党派心であるとすると、私たちはよくよく考えてみなければならないと思う。しかも、このねたみや党派心というものは、ごく自然に起ってくるものであるとすれば、その元とも言うべき利己的な自我の問題の解決こそ、最も急を要することではないだろうか。この問題が解決して初めて混乱や嫌なことが起ってくることを防ぐことができるわけである。

利己的な自我の問題は、実は最もしぶとい問題でもある。聖書が真正面から取り組んでいるのは、実はこの問題である。その問題とは、一口で言うと、罪であり、これがあらゆる問題の核心である。これが解決されないかぎり、人生の幸福も真の喜びもない。自分さえよければ、それでよいという罪の実体を解決するのは、神の御子イエス・キリストの十字架上の贖いの死以外にはない。それこそ神による解決である。

集会案内 2013年9月,10月


厚木聖書キリスト教会の9月, 10月の集会日程をご案内いたします。どなたでもお気軽にご参加ください。


  時間: 10:30 a.m. - 12:00 a.m.
  場所: 厚木YMCA 別館7F ※10月27日を除く


9月1日(日) 主日礼拝
  "キリスト教は驚くべき変革の力", マルコによる福音書1:32-34

9月8日(日) 主日礼拝
  "神の御心を求めよう", マルコによる福音書1:35-39

9月15日(日) 主日礼拝
  "タイトル未定" (DVD礼拝)

9月22日(日) 主日礼拝
  "主の御心を確信した歩み", マルコによる福音書1:40-45

9月29日(日) 主日礼拝
  "タイトル未定" (DVD礼拝)

10月6日(日) 主日礼拝
  "究極的なものと究極以前のもの", マルコによる福音書2:1-12

10月13日(日) 主日礼拝
  "新しい人生への転換", マルコによる福音書2:13-17

10月20日(日) 主日礼拝
  "タイトル未定" (DVD礼拝)

10月27日(日) 主日礼拝  ※この日のみ場所が異なります。
  "全く新しい喜びの生活", マルコによる福音書2:18-22
   場所:プロミティ厚木 大ホール(厚木YMCAとなり)