2007年10月31日水曜日

実存的問題-死 5/5

私が陸軍経理学校の士官候補生として、ハード・トレーニングを受けていたときにも、米軍の空襲は激しく続けられ、五百キロ爆弾が数発落とされたり、速射砲の射撃を受けたりして、文字通り死線を越えるようなこともあった。しかし、終戦になり、こうした緊張から解かれると、またもや死に対する恐怖は心の中に湧き起って来た。四つの島(北海道、本州、四国、九州)に全日本人が住まなければならなくなり、外地からの引揚者が帰ってくると、何万人かの人々は食料不足から餓死しなければならなくなるかもしれないということが言われた。すると、私はその餓死するかもしれない何万人かの人の中に入るのかどうかということが、いつも頭にこびりついて、その恐怖から離れることはできなかった。

しかし、この私にも、とうとう長い間抱いていた、死に対する恐怖から解放される時がやって来た。それは、主イエス・キリストを信じた時である。不思議と、その日以来、私の心からは死に対する恐怖はなくなっていた。そして、少なくとも死に対する恐怖が取り越し苦労という形で私に襲ってくることはなくなった。そして、人はなぜ死ぬのかという疑問についても、死の恐れからなぜ解放されたのかということについても、私ははっきりと分った。それは、私たち人間の死をも生をも支配しておられる生けるまことの神の啓示である聖書によってである。

聖書によれば、人間が死ななければならないのは、人間が罪を持っているからであり、人間は罪を犯したがために、その刑罰として死ななければならなくなったのだと教えている。最初の人アダムが罪を犯した時、生命の自然的終結に、神の刑罰という意味が加わるようになったのである。だから、単に肉体の死滅だけでなく、あらゆる形での災いが下されるようになったわけである。地獄における永遠の悲惨もそうだし、現にこの世にいても多くの災悪を受けるようになった。

その罪を持った人間が受けなければならない神の刑罰を、天から人の姿を取ってこの世に来られる神の御子イエス・キリストが、十字架上で身代わりに受けてくださった。そのことを信じた時、私の心の下にのしかかっていた神の呪いは取り除けられたのである。
「このように神の子供たちは皆人間として肉体を持っているので、イエスもまた同じように肉体を取られた。それは、人間として死ぬことにより、死の力を持っている悪魔の力を滅ぼし、一生涯、死の恐怖に取り付かれている人々を解放するためである」(ヘブル2:14-15)。

2007年10月27日土曜日

キリスト教を信じることの利点 1/6

キリスト教はご利益宗教ではない。それなら、キリスト教を信じても何も良いことはないのか。そんなことはない。この世においても良いことはあるし、来世においても良いことは沢山ある。この世においては、どんな良いことがあるのかについて考えてみよう。

1. 自分自身が良く分かる

私たちは、自分自身のことを分っているつもりでも、案外よく知らない。自分を買いかぶっていることが多い。自分はそれほど悪くないと思っていたり、自信が強かったりする人が多いのだが、ちょっと大きな失敗をしたりすると、今度はすぐに自信を喪失してしまったり、生きていけないほどの失意のうちに陥ってしまうものだ。それは、自分の姿を本当によく知らないからである。

人間が自分自身の姿を本当によく知らないのは、罪のために心の目が盲目にされてしまっているからだ。それでは、どうしたら自分の本当の姿を知ることができるのだろうか。自分の本当の姿を知っているのは自分自身だと思っている人が多いのだが、実はそうではない。私たちの本当の姿を知っているのは、私たち自身なのではなく、神なのである。すべてを見通しておられる神だけが、私たちの本当の姿をご存知なのである。

だから、神を知り、神から教えていただかなければ、自分の本当の姿を知ることはできない。それでは、神はどのようにして私たちにその本当の姿を教えてくださるのだろうか。それは、神の言葉である聖書を通してである。私たちが聖書を読む時、そこには私たちの姿が映し出されている。聖書は私たちの心を映し出す鏡のようなものである。

それでは、聖書は私たちの姿をどのように映し出しているのだろうか。聖書は私たちが罪人であると教えている。私たちは、いつでもほかの人の欠点だけが見えて、自分の欠点が見えない者だ。ほかの人を責めてばかりいる者だ。何よりもこれが罪人の特徴である。自分が罪人であるということは、聖書によって初めて分ることである。

罪人とは、そのままの状態では滅んでしまう存在のことだ。そのような危険な状態にいることを教えてくれる。病人は、まず最初に、自分が癒されなければならない病人であることを知る必要がある。同様に、私たちは救われなければならない罪人であることを、まず最初に知ることが必要なのである。

2007年10月23日火曜日

実存的問題-死 4/5

もの心がついてから、私にとって死はまことに恐怖の対象であり続けた。もちろん、今、思い出しても、格別これと言った出来事にぶつかったわけではなかった。確かに、私が三、四歳の頃、祖父が死んだ。しかし、今思い返してみても、それが私にとって死に対する恐怖を呼び起こす契機となったとは言えない。けれども、いつのころからか、私は、人はなぜ死ぬのだろうかといった疑問を抱くようになっていた。なぜ人は死ななければならないのかという疑問は、私の場合、死に対する恐怖にまっすぐにつながっていっていた。死さえなければ、この世の中はどんなに楽しいものか分らないのにと思った。こうした死に対する恐怖は、おそらく私が生まれながらに体が弱かったということとも関係するのではないかと思う。すぐに風邪を引いたり、おなかをこわしたりして、寝込んでもしまったし、よく色々な病気にもかかった。そしていつしか、私はそう長くはこの世に生きることはできないにちがいないと一人で思い込むようになっていった。

死、この不気味なものに対する恐怖は、成長していくにつれて薄れていくどころか、いつも私の心の片隅を占領していた。何をやっても、いつもその最後が見えてしまうつまらなさを、よく味わったものである。たとえば、お正月などにトランプや何かをして、みんなで遊ぼうということになっても、その終わった後のむなしいばかりの倦怠感を思うと、やる気が起らないのだ。そして、そうしたすべてのものの上に、私は目ざとく死のかげを見て取っていた。死が長くそのかげを投げ掛けているのに、どうして楽しんだりすることができようか。人生におけるこの不気味なものを解決しない限り、人生そのものを楽しむことはできなかった。死をもってすべてが終わってしまうと考えただけでも、すべてはむなしいもののように思われた。そして、私の小さな頭で到達できるところと言えば、たかだかそのあたりまでにしかすぎなかった。

このように死を恐れた私でも、あの第二次世界大戦が激しさを増し、みんなが戦争に加わらなければならなくなると、自分だけが安全地帯に立っていることは許されないという気持になった。そして旧制中学を出ると、陸軍経理学校へ行った。そこは現役の将校を養成する学校なので、士官候補生として、日夜激しい訓練を受けた。

2007年10月20日土曜日

本当のキリスト教 3/3

キリストを信じる時、私たちは生れ変る。神が私たちを新しい人生に入れてくださる。この生れ変るということは、聖人君子になるということではない。また、罪が全然ない完璧な人間になるということでもない。神の子として生れ変ったばかりの人、まだ生れたばかりの赤ちゃんなのである。これから成長していかなければならないのである。それは、私たちの心の中に新しい命の種が植え付けられたものなのである。だから、とにかく新しい人生のスタートをしたわけである。

この生れ変りを経験した人が、洗礼を受け、教会の一員となるのである。本来、教会とは、この世から救い出された信者によって構成されるものだからである。この教会には二つの面があって、一つは目に見えない霊的普遍的な面で、もう一つは、目に見える制度的な面である。ちょうど人間にも、目に見える肉体と目に見えない霊とがあるのと同じである。

教会にも、目に見えない面と目に見える面がある。目に見えない霊的普遍的性格の教会に加わるためには、キリストと結び付けられ、生れ変るという経験が必要だが、これをキリストと合うバプテスマという(ローマ6:3-5)。これは、聖霊によってなされるので、聖霊によるバプテスマとも呼ばれる(1コリント12:13)。これが教会に加えられるための重要条件である。

この実質条件は目に見えない霊的普遍的教会に加えられる時のことで、目に見えない霊的普遍的教会と目に見える制度的教会とは一つなのだから、この実質条件にかなった人、つまり聖霊によるバプテスマによってキリストと結び合わされ、生れ変った人が、水によるバプテスマによって、目に見える制度的教会に加えられるということになる。

本当のキリスト教というのは、教会のこの二つの面の位置付けを正しくし、このどちらもいいかげんにはしない。聖霊によるバプテスマである生れ変りを経験していない人に水のバプテスマ(洗礼)を授けたり、また、目に見える制度的教会を否定したりすることは、本当のキリスト教ではない。

キリストはもう一度この世に来られる。このキリストの再臨がいつであるかは分らないが、必ず来られる。その時、この世界は終りになり、イエス・キリストを信じている人は皆天国に入れられるために復活し、霊的体が与えられ、永遠に神と共にいることになる。

2007年10月17日水曜日

実存的問題-死 3/5

なぜ私たちは死をそんなに恐れるのだろうか。死の肉体的苦痛を恐れるのだろうか。そうではない。今日私たちは、いわゆる安楽死と呼ばれる方法を知っている。しかしそれでも、死ぬことができない。それは、死そのものに対する恐れというよりは、死の後に何かがあるということを知っていて、それに対する恐れであるとは言えないだろうか。確かに、この世は不公平だ。悪いことを散々やり、かなりあくどいことをやりながらも、結構うまくやっている人がいて、往生を遂げている。そして、もう一方では、正直にことをやり、人々にあわれみの心を持っていながら、生涯、正当な報い受けないでこの世の生を終えていく人もいる。そのような姿を見る時、だれでもこの世だけがすべてなのではなく、この世の生が終わった後に、必ずこの世の総精算とも言うべき公平な裁きがあるはずだと思わざるをえない。もしもそうしたことがないのなら、自分のためにやりたいことの限りを尽くし、自分のために楽しい人生を送った方がはるかに利口だ。しかし、私たちにそれが出来ないのは、この世の人生の後に、私たちの人生は必ず公平な総精算がなされるのだという思いがあるからだ。それは、だれでも生れながらに持っている生得観念ではないだろうか。人が死を恐れるのは、それを予測しているからである。

確かにそれは不気味である。単に未知の世界であるというだけでなく、身に覚えのあるすべての人は、裁きの待っている死後の世界について、不気味でないわけがない。神は、聖書の中で、はっきりとこう告げておられる。「人間は、だれでも一度は死に、死後裁きを受けなければならないことが決まっている」(ヘブル9:27)。

確かに、死や死後の世界のことについては、神よりの啓示によらなければ、だれにも分らないことである。死人に口なしだからである。死んだ人に聞くわけにはいかない。臨死体験をした人がいて、ある程度は分っていても、死後の世界のほんの入り口のことしか分らない。私たちの知識のほとんどは、自分たちの経験に頼っているが、死と死後の世界のことだけは、人間の経験に頼るわけにはいかないのである。いきおいほかの道を求めなければならない。そこで最も確実な道としては、私たちの生も死も支配しておられる神からの啓示によるのだ。だから、死と死後の世界のことについては、この神からの啓示である聖書から学ぶ以外にはない。

2007年10月13日土曜日

本当のキリスト教 2/3

それでは、本当のキリスト教とは、どういうものなのだろうか。まず何と言っても聖書観が重要である。聖書はキリスト教の原点であり、聖書をどう見るかは、本当のキリスト教とそうでないものとの分かれ目になる。正統的なキリスト教は、何と言っても聖書を最終権威とする以上、聖書を誤りのない神の言葉と信じる。これこそ主イエスの聖書観である。

ところが、今日キリスト教と称しながらも、聖書を誤りのない神の言葉と信じないものが少なからずあるもので、注意しなければならない。聖書を人間の書いた書物と同一視したり、誤りがあると教えるものがある。参照「聖書の権威」

次に、神をどう見るかだ。父と子と聖霊の三人格を持った唯一のお方、つまり三位一体の神を信じるのがキリスト教である。それに、神が全世界の造り主であることを信じる。その神がイエス・キリストによってご自分を現してくださったのだ。だから、イエス・キリストは人の姿を取られた真の神であって、それが具体的にキリストの処女降誕という事実によって行われた。

次に、人間をどう見るかと言うと、人間は神によって造られた者であり、しかも自分の意志で罪を犯した罪人にすぎない。神の恵みによる救い以外の方法では、決して救われることのありえない存在である。

このような人間を救ってくださるために、神はキリストをこの世に遣わされ、キリストは私たちの罪を背負って十字架上で私たちの身代わりとして罪を償うために死んでくださった。キリストの十字架上の死は、実に私たちの罪を贖ってくださるものであり、キリストは私たちの罪を贖うために死なれた後、三日目に死人の中から復活し、私たち信じる者たちに対して、最後の日に、復活する希望を与えてくださった。

このようにキリストが十字架上で成し遂げてくださった贖いが私のためであることを信じるとき、その人は罪から救われる。罪から救われるだけでなく、最後の日になされる裁きからも救われる。この救いを自分のものとするためには、信仰と悔い改めが必要である。

最近、イエス・キリストが十字架上で死なれたとき、全人類は救われたと教える異端が現れた。これは信仰も悔い改めも必要としない教えだ。これは、聖書の教えるキリスト教ではない。

2007年10月10日水曜日

実存的問題-死 2/5

私は牧師となって54年。多くの人の臨終に立ち会い、死に居合わせるようになって感じるのだが、人間は、結局は一人であるということだ。その人がどんな思想を持っていようと、国際人であろうと、有名人であろうと、金持であろうと、貧乏人であろうと、死においては、全く一人の人間にすぎない。だから、人間は自分自身で、自分の真実な人生を追求しなければならないことを感ぜざるをえない。そして人間はだれでも、借りものの思想でこの世を送ることのいかに愚かであるかということを、この死に立ち会わされて、感ぜざるをえない。借りものの思想では、この死という厳しい現実を絶対に乗り越えることはできない。学者や知識人は、古今東西の多くの人々の知識や知恵を、自分の脳裡に蓄えている。そして時として、それがあたかも自分のものででもあるかのような錯覚に陥る。しかし、それが借りものにしかすぎなくて、本当に自分のものでない場合には、死に際して、ばけの皮がはがれてしまう。厳しい死の現実の前に立たされて、ごまかしは決して言うことをきかないのだ。だから、真実を求める人生が必要なのだ。そうでなければ、最も孤独な死の瞬間に、どうして耐えられようか。

人間は、健康な時ほど死を恐れない。自分など死なないとか、自分などは死から最も遠くにいると思っているからだ。そして、あたかも死など全く意に介しないかのように、勇ましくしている。けれども、死の足音がひそかに迫ってくる時、人間はその勇ましかった向こう見ずの言葉を恥じるようになるものだ。

死に臨む時こそ、人生における最後の孤独の瞬間である。ただ一人なのだということを、しみじみと経験させられること、死に臨むがごとき時は、ほかにないだろう。日ごろ父と呼び、母と呼び、あるいは夫、あるいは妻と呼んだ人たちが、一様に少しも頼りにならない冷たい他者として、また訴えても求めても力にも慰めにもならない者として、ただむなしく枕辺にそのその面をさらす他人と化してしまう時こそは、その死の床においてなのだ。ただ一人、死の前に打ち捨てられた人は、はたしてだれに頼り、だれに訴え、だれにすがったらよいのだろうか。頼るべきものは、ついにこの世にない。神を否定し、信仰なくして生きてきた人も、ついに信仰なしには死ねないのだということを、死に臨んで、初めて体験せざるをえなくなるのである。

2007年10月6日土曜日

本当のキリスト教 1/3

今日、キリスト教という看板を掲げながら、その実キリスト教でないものが沢山ある。だから、本当のキリスト教とは何かを知ることは重要なことだと思う。

キリスト教とキリスト教でないものを区別するものは何なのか。私はこれを二つの点で説明しようと思う。その一つは、形式原理という点からである。

形式原理という点から見ていくと、聖書を最終権威とするのがキリスト教であって、そうでないのはキリスト教ではない。今日、異端がかなりはびこっているが、それらがいかにキリスト教のような名称を付け、まぎらわしい偽装を凝らしても、最終権威を聖書としない以上、それはキリスト教の一派と言うことはできない。

たとえば、モルモン教というのは、正式名称を「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言っている。いかにもキリスト教の一派のような名称だ。そして彼らは聖書を使う。しかし、彼らが最終権威とするのは聖書ではなく、「モルモン経」、「教義と聖約」、「高価な真珠」という3冊の書物だ。これによって聖書を解釈し、これを最終基準とする。だから、キリスト教ではない。

エホバの証人も正式名称を「ものみの塔聖書冊子教会」と言っている。いかにも日本聖書教会や日本聖書刊行会と言った団体と同じようなキリスト教団体のように見える。そして、もちろん聖書を使う。しかし、彼らが最終権威とするのは、聖書ではなく、「神が偽ることのできない事柄」という書物である。これによって聖書を解釈するわけだから、キリスト教ではない。

統一教会も正式名称を「世界基督教統一神霊協会」と言っている。いかにもキリスト教の一派のような名称だ。そして、彼らも聖書を使う。しかし、彼らが最終権威とするのは聖書ではなく、「原理講論」という書物だ。これに、あの独特な聖書解釈が載っていて、それによって聖書を解釈する。だから、これもまたキリスト教ではない。

それでは、次に実質原理はどうか。これらのどれも、まずイエス・キリストの神性と救い主性を否定し、またイエス・キリストの身代りの贖いを否定する。こういうことになれば、もう明らかにキリスト教と言うことはできない。キリスト教の装いをした異端ということになってしまうのである。

2007年10月3日水曜日

実存的問題-死 1/5

生きとし生ける者は皆死ぬ。これほど確実なことはない。しかも、この確実な死について、一体どれだけの人がその準備をしているだろうか。考えてみると、まことに不思議だ。人はだれでも確かに起ることについては、必ず準備をするものなのに、この死についてだけは、大半の人が何の準備もしていない。そして、いよいよ死が近づいていて、初めて何の準備もなしにこの死に立ち向おうとしていることの恐ろしさに、ただ後悔するのではないか。

死はあまりにも厳しい現実だ。そのため、だれもこれを正視することができない。死に対する準備をしておかなければならないということは分っていても、これを見つめることが恐ろしくて出来ないのだ。確かに死は、だれにとっても不気味だ。生きている者で、これを一度でも経験した者はいない。経験したら、もう生きてはいない。経験していないからこそ、こうして生きていられるわけである。死んだらどうなるかということは、生きている人間が、だれ一人知らないのだから不気味なのである。しかし、この不気味な死を避けて通ることは出来ない。遅かれ早かれ、私たちの身の上にそれは現実のこととして臨む。しかも、それは一人一人に臨むのだ。愛する者と分かち合うことのできぬもの、ただ一人で味わわなければならぬものとして臨むのだ。

たといだれかと一緒に死ぬようなことがあっても、死を経験するのは、一人一人であって、二人ではない。そのような問題こそ実存的な問題なのである。この実存的な問題こそ人生における最大の問題なのである。

死については、いろいろな教えや考え方があるが、その中から自分の好きなものを選べばよいというような種類のものではない。どうしてもそれに安住できる確かな教えを知らなければならないはずである。

死後の問題について書かれた本としては、クセジュ文庫の中にグレゴワール著「死後の世界」や岩波新書の中に渡辺照宏著「死後の世界」がある。これらも良い本として推薦したいと思うが、私はこれらの本にあきたらず、「死への備え」(いのちのことば社)という本を書いた。人間をお造りになり、人間の生死をつかさどっておられる本当の神が持っておられる解答である。人間が死後の世界を想像している人間の考えではなく、神が持っておられるお考えである。それは、聖書に啓示されているもので、人間の確かな死生観である。