2009年2月22日日曜日

命あるものは必ず成長する

私が信仰を持つようになったのは、アメリカの駐留軍の兵士たちが開いていた伝道集会においてであった。それは、GIゴースペル・アワーと称する集会だった。この人々の信仰は生き生きとしており、聖書信仰に裏付けられていた。私がその集会を紹介されたのは、私が行っていた教会の英語のバイブル・クラスだったので、私がGIゴースペル・アワーで救われると、自然とバイブル・クラスを開いていた教会の礼拝に出席するようになった。初めのうちは余りよく分らなかったが、次第に分ってきたことは、その教会が聖書信仰ではなく、バルト神学の立場を取っているということであった。

私は自分の信仰の霊的生命が窒息しそうになるのを感じて、聖書信仰の立場の先生が開拓伝道をするのを助け、その教会に転会してしまった。その先生の下で、私は福音主義信仰を徹底的にたたき込まれた。こうして、私は聖書信仰以外の立場は、あたかも異端であるかのように考えるに至った。

そして、福音主義の立場に立つ神学校で学び、その後、1960年にスタートした日本プロテスタント聖書信仰同盟の結成にも参加した。

ところが、福音主義の立場に立つ人々と付き合っているうちに、彼らの考えが、どうも主イエスの立場よりもパリサイ派の人たちの立場に近いのではないかという疑問が湧いてきた。やたらに人を批判し、自分たちの立場を絶対視し、聖霊派と称される人々を異端視する人が多いのである。

ここで私は、福音派というのが、キリスト教の唯一の立場なのかという疑問を持つようになった。聖霊派と称する人々と付き合ってみても、別に異端とは思えないし、福音派の人よりも温かい人がいるのである。

そうしている間、主イエスの最後の祈りを読んでいたとき(ヨハネ17章)、そこで主イエスが二回も弟子たちの一致について言及しておられることを知った。そして、ヨハネが主イエスに、「主のお名前によって悪霊を追い出している人を見ましたが、私たちの仲間ではないのでやめさせました」と言った時、主イエスは「やめさせることはありません。わたしの名前を使っている者は皆わたしの味方です」と仰せられたことを知り、私は聖書信仰でない人も、ローマ・カトリック教会もギリシャ正教会も皆同じクリスチャンであり、敵ではなく仲間なのだということが分り、「クリスチャンの和解と一致」 (地引網出版)という本を書いたのである。

2009年2月16日月曜日

弱かった私が今では強くなった

私は体が弱く、二十歳まで生きられるかどうか危ぶんだと前に言ったが、このごろではほとんど病気らしい病気をしない。五十代半ばの頃、超多忙で、私は心筋梗塞の一歩手前まで行ったことがあった。いくら病院で出してくれる薬を飲んでも、心電図が改善されないのである。その時、一人の教会員が来て、食事療法をすることをすすめてくれた。それは、玄米雑穀飯に菜食である。肉などの動物性蛋白質や砂糖、化学調味料をやめるというものであった。一か月ほどして、体重は九キロやせた。すると医者からすすめられていた水泳の調子がよくなった。それまでは、二、三百メートル泳ぐと一休みし、それから千メートル泳ぐのである。ところが、今度は休みなしに千メートル泳ぐことができるようになった。家内も一緒に始めたところ、尿素窒素の数値が正常値になった。

こうして、私たち夫婦は八十を超えたが、至って健康体である。耳は遠くなり、記憶力も衰えたりしてきてはいるが、多くの人がインフルエンザにかかっても、私たちはかかったことがない。

人間の体に与える影響としてストレスが大きいことはよく知られているところだが、私たちクリスチャンは、ストレスになるようなことが起って来ても、それをまともに受けない方法を知っている。それは、主イエスが次のように仰せられていることを実行するからである。
「疲れている人や、重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

これを実行していれば、倒れてしまうことはない。ストレスは、暑さ、寒さばかりではなく、痛いこともストレスになる。しかし、人間特有のストレスとしては、感情的なものがある。だれかに対して怒ったり、恨んだり、憎んだりすることがストレスとなって、肉体をむしばんでいく。自分に対してひどいことをした人を赦すこと。自分の意思や力でやろうとしても、それはできる相談ではない。そこには、どうしてもキリストの力が必要である。キリストによって赦されたという経験のある人なら、だれにでもできることである。だから、私はクリスチャンになって、よかったと思っている。弱虫だった私がこんなに強くなっているのは、キリストのおかげだからである。

2009年2月9日月曜日

紆余曲折の人生

私は元々理科系の人間で、科目の中で一番好きなものは数学だった。その上、設計が好きだったので、将来は建築家になりたいと思っていた。ところが、戦争が激しくなり、男という男は皆戦争に駆り出されるという情況になってくると、やはり、一兵卒としてよりも将校の方がいいと考えるようになっていった。私が陸軍士官学校の方を選ばずに陸軍経理学校を選んだのは、経理部の将校は比較的後方勤務が多く、比較的死ぬ確率が低いというただそれだけの理由であった。

入ってみると、なんと理科系よりも文科系の科目の方が多かった。当時、一般の大学では、学生たちは皆勤労動員と称して、軍需工場で働かされていたため、授業はなく、優秀な教授たちは、皆陸海軍の学校で教えていた。そんなこともあって、文科系とは言え、その道の第一人者とも言うべき教授が陸軍経理学校にも来て、教えていた。だから、私は憲法を東大の宮沢俊義教授から習ったし、民法は戒野道孝教授から習い、また経済学原論は一橋大(当時は東京商大と言っていた)の山田雄三教授から習った。一流の教授に就くということは、その科目に興味を持つようにしてくれ、ことに私は法律にかなりの興味を持つようになった。

もちろん、理科系の科目もないわけではなく、ことに栄養学には殊の外興味を持つようになった。それは、川島四郎主計少将の弟子の興味深い栄養学の講議によるものであった。

しかし、敗戦になり、私が選んだ道は建築であり、私は大学の理工学部の建築科に入った。大学一年の時、私はクリスチャンになり、やがて牧師への道へ進むことになると、理工学部の建築科をそのまま進むよりも牧師としての基礎的な学問を身に着ける必要から、転部試験を受けて、文学部の史学科で西洋史を専攻するようになる。

この紆余曲説した人生が、牧師となる私にとって、何一つ無駄にはなっていないことを知った。陸軍経理学校でたたき込まれたリーダーとしての姿勢は、今でも役に立っている。そこで学んだ法律知識も役に立っている。理工学部時代に身に着けた論理的思考法も大いに役立っている。私が一番にが手とした文科系の学びは、強制的にそれを学ばせられることによって、牧師としての基礎的知識として役に立っている。にが手の語学も、どうやら今では何とかこなしていかれる。神のなさることは何一つ無駄になることはない。

2009年2月2日月曜日

ごく普通の家庭

私が生れ育った家庭は、ごく普通のものだった。両親と兄と妹の五人で、父親は三越百貨店に勤めていた関係で、日曜日は休みではなく、休日は八の字の付く八日と十八日と二十八日だけ。その日は大抵ゴルフに行っていた。結構上手だったらしく、家には、優勝カップがいくつもあった。そのほとんどは、戦闘中、貴金属供出で、戦後一つだけ残っていたカップは、私が開拓伝道をした初期のころ、洗礼式に水を入れるのに使わせてもらった。

私は自分の家庭がそれほど金持でもなく、そうかと言って、食べていけないほど貧乏でもなく、ごく普通の家庭だったので、ほかの人々も皆同じなのだろうと単純に考えていたが、牧師になり、多くの人と接するようになると、こうした普通の家庭の方がむしろ少ないことを知って、驚いた。片親しかいない人、親が再婚して、腹違いの兄弟姉妹がいる人、さらには親のいない人もいる。親はいても、どこのだれなのか分らない人もいて、私が特別に恵まれた環境の中に育ったのは、そうでない人のために何か役に立つことをしなければならないのだということが分った。

母は、どちらかと言うと、教育熱心な方で、勉強をするように私を仕向けた。担任の先生との合い性が良かったということもあって、学校の成績は良い方であった。そして、そういう環境の中にいると、とかく人間を学校の成績によって決めてしまうという考え方に染っていかざるをえなかった。後になって、そういうものの見方がいかに偏ったものであるかということを痛感しないわけにいかなくなるのである。

戦争が激しくなり、そのままでは二等兵として召集されることになり、それを避けるには、陸海軍の将校になるための学校に入るのが一番近道であるということが分った。そうなると、猛勉強して、旧制の中学を終えるとすぐ、陸軍経理学校へ入ることができた。この学校へ入ったのは、まだ十七歳であったが、二等兵、一等兵、上等兵を飛び越して、いきなり兵長の下の位をもらい、士官候補生となったのである。ここから、いよいよキャリヤー組に向う生活が始まることになる。しかし、敗戦によって、私の人生は挫折してしまった。それはよかったのだと思う。もしもあのまま行っていたら、おそらく鼻持ちならぬ人間になっていたことだろう。ピンチはチャンスなのである。