2008年7月27日日曜日

結婚について 1/2

神が人間を男か女かにしてお送りになったのは、神が人間を結婚するものとしてお造りになったということである。結婚というものは、人間が作り出した制度ではない。人間が罪に陥ってからは、結婚しないで独身で生涯を過す人も出て来た。とは言っても、独身が罪だと言うのではない。しかし、元々は結婚するものとして造られたのだ。だから、結婚をいいかげんに考えることはできないのである。

この世において結婚をいいかげんに考えるというのは、好きなもの同士が同棲したり、結婚の前であろうが後であろうが、そんなことはお構いなしに性生活を始めることを指している。婚前性交や婚外性交、夫婦交換など、きりがないほどだ。しかし、私たちクリスチャンは、そうしたルーズな結婚観を持っていない。もっときちっとした考え方を持っている。

多くの人は、いまだに結婚を家と家との結び付きだと思っているようだ。新憲法がはっきり規定しているように、結婚とは、本来結婚する当人同士のものであって、家同士が結婚するのではないことは言うまでもない。もちろん、結婚すれば相手の親兄弟とは義理の親兄弟となるわけだが、結婚は決して家同士の結び付きではない。旧憲法がいまだに生きているような有様を見る時、私たちははたして新憲法下に生きているのかどうかさえ、疑わざるをえないような気がしてならない。

結婚は、人生における三大行事の一つである。誕生と死という二つの人生行事は、だれ一人として経験しない人はいないが、結婚はしないで一生独身という人もいるので、すべての人がこの三大行事を経験するわけではない。しかし、大抵の人はこれを経験する。誕生も死も、いずれも人生の厳粛な出来事であるとすれば、その中間に位置する結婚も、同様に厳粛な出来事であるに相違ない。だから、結婚をいいかげんに扱うことは間違いだと思う。

ところで、誕生と死は自分の意思の届かないところで起るものだが、結婚だけは自分の意思によって自由にできると思うところから、余り真面目に考えない人が起ってくるのかもしれない。実はそこに間違いがあるように思えてならない。

結婚するということは、自分たちが勝手に決められることと考えてはならないのだ。相手はすでに神によって定められているのであり、自由に選べるのではない。自由に相手は選べると考えるところから、いろいろな問題が起ってくるように思われる。確かに、ある意味では、自分の責任において配偶者の選択をするのだが、自由に、また自分勝手にできると考えるなら、あまりにもおごり高ぶった考え方である。私たちにそのような完全な自由がはたしてあるのかどうか反省してみる必要がある。

そして不思議でならないことは、そのようにして自分で選択したと考える人ほど、あとでうまくいかなくなった時、自分で責任を取ろうとはせず相手の責任にしてしまう。本来なら、自分が選んだのであれば、うまくいかなかった時、「自分はなんと見る目がなかったのだろう」と言って、反省するのが筋だと思うのだが、悪いのは相手の方であって、自分は被害者だぐらいに考えてしまう。ここに初めからうまくいかない原因があるのだと思う。

だから、結婚してしばらくたってから相手の欠点が見えてきた時、ただ相手を責めるべきではなく、相手に欠点があるように、自分にも必ず欠点があるのだということを知るべきだろう。そして、欠けているところをお互いに補い合って生きていくようにと、神が定めておられた相手なのだということを知り、ますます励んでいくべきではないだろうか。神によって二人が結び合わされたという事実があって初めて考えられることだと思う。

ところで、聖書は結婚についてどう教えているかと言うと、次のように教えている。
「そういうわけで、人はその父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となるのである。」(創世記2:24)

この箇所が結婚の憲法のような意味を持っていることは、聖書の中に出て来るある出来事によって知ることができる。ある時、主イエスのところへ離婚の問題について質問に来た人がいた。主イエスは、離婚の問題を、結婚の本来の姿から説き明かしておられる。その時、主イエスはこの天地創造における人間の創造から説き起こして、この聖句を引用しておられる。そういうことからも、この御言葉は、聖書が教える結婚の憲法と言えるだろうと思う。

この御言葉によると、三つのことが明らかにされている。一つは、結婚するのは、神によって定められている一組の男女であるということ、次に、両親を離れるということ、三つ目に、二人は一体になるということである。

私たちは時間の中に生きていて、いつも現在にいる。過去のことは記憶に頼るしかなく、未来のことについては皆目分らない。しかし、永遠に生きておられる神は、未来のことをご存じであるだけでなく、私たちの結婚の相手もすでに定めておられるはずである。

2008年7月20日日曜日

男と女

人間はだれでも男か女かとして生まれてくる。男でも女でもない人間などどこにもいない。しかも、だれ一人としてこれを自分の意志で選び取ったわけではない。皆、この世に生まれてきた時、男か女かであるのだ。こういうことを考えてみると、この世の中には、自分の意志だけで決めることができないものがあるのだということに気付かざるをえない。何でも主体性を持って生きていこうとすることは、決して間違ったことではなく、依頼心を持って生きていくよりははるかにましな生き方だと思うけれども、何から何まで自分の意志で決められるものではないことの証拠が、出生において出て来ることを知らなければならないだろう。

それなら、私たちが男として、あるいは女として生まれてくるということは、だれが決めたのだろうか。親であるとも言えない。親はもしかしたら、次に生まれてくる子供を、その前の子とは反対の性を考えていたかもしれない。私の知っている人で、六人姉妹の人がいる。親は、今度こそ男であるようにと願ったのに、生まれてきた子供は六人とも女の子だったのである。だから、親の意思によって性別が決まるわけではないことは明らかである。

私たちが男か女かとしてこの世に生まれてくるのを決定したのは、人間ではなく、私たちに命を与えてくださる神なのである。性ということだけに限って考えても、そのことはよく分る。毎年生まれてくる赤ん坊は、男女共ほぼ同数であるということは、人間のだれがそんなことをすることができるだろう。丙午(ひのえうま)の年に生まれる女の子は結婚してくれる人がいないといった迷信は、今でもかなりの人が信じているらしく、その年の子供の出生数は極めて少ない。今年四十二歳になる人がそうなのだが、その年は他の年と比べると、極端に少ないのだ。しかし、少ないけれども、それは女性だけではなく、男性の方も少なく、男女の比率はほぼ同数なのである。人間がいくら小細工をしても、神のなさることは依然変ることがないということを、この事実ははっきり示しているのではないだろうか。

だから、私たちは、この事を厳粛に受けとめる必要があると思う。つまり、私たちは神によって男か女かに召されたのである。このことが分ると、男として召された人はそのことを、女として召された人もそのことを自覚し、神が召してくださった以上、そこには与えられた使命があるのだということを自覚することができ、そこに男の生きがい、女の生きがいを見出すことができると思う。

今日なお男女間に差別があることは事実である。それゆえ、女と生まれてきて、損をしたとか、貧乏くじを引いたと感じている女性がいることも事実である。男女間の差別撤廃のために私たち男性が力を尽すことは当然のことだが、それと同時に、女性自身が生きがいを見出す努力をすることも必要だと思う。

女性の生きがいは、女性としての誇りから生まれてくるのではないかと思う。女性でなければできないものがあることの自覚から始まるだろうと思う。その重要なものの一つは、女性が子供を産むということである。どんなに時代が変り、あらゆるものが進歩していったとしても、男性が子供を産む時代は来ない。もちろん、女性だけに子育てを任せてしまうことがよくないことは十分分っているつもりだが、授乳、子育ての中心は母親である女性なのである。だから、女性は幼い頃から母性本能を持っている。ままごと遊びをしている時、女の子はいつも人形を赤ん坊にしつらえ、母親として面倒を見ようとしている。この女性にしかできない仕事の中で最も重要な子育てこそ、次代を背負う子供を育てることになるのである。次の時代などどうなっても構わないと考える無責任人間ならいざ知らず、次の世代の責任を感じる人なら、この世のいかなる仕事よりも重要な子育てに誇りを持たなければならないだろうと思う。

こうした女性の生きがいは、どこから生まれて来るのかといえば、自分が女性として召されているということの自覚からだと思う。神がこの尊い働きへと自分を召してくださったのだという自覚からである。

子育てをだれにでもできる簡単な働きだと考え、それよりも社会に出て、社会に貢献する働きをしたいと考える人が案外多いようだが、私は人間を育成する働き以上に大切な働きはないのだと言いたい。社会で働く働きは、同じ能力を持っている人ならだれでもよいのだが、子育てはそうはいかない。その子供にとって世界広しと言えども母親はただ一人しかいない。その人の愛情がなければ、健全な人格を持った人には育っていかないのである。

神が私たちを男か女に召しておられるということが本当に分ってくると、私たちにはそこから自ずと男の生きがい、女の生きがいが生まれてくる。そして男だけ、女だけの働きと同時に、男と女の協力なしでは出来ない働きがあるのだということも分ってくるはずだ。

2008年7月13日日曜日

キリスト教の葬式

クリスチャンの葬式は、そこにクリスチャンの死についての考え方がはっきり表れている。私たちは、死を暗いじめじめしたものとは考えない。むしろ天国を思わせるような美しい花で飾り、神を賛美し、神の言葉である聖書から、遺族や参列者に対する慰めや勧めの言葉が語られる。死んだ人はもうそこにはいない。そこにあるものは、死んだ人の遺体で、死んだ人の霊はもうそこにはいない。だから、死んだ人の霊を慰めるとか、その人を祀るのではない。その人の霊は、もうパラダイスにあって、神とのすばらしい時を持っている。

クリスチャンでない人は、死んだ人の冥福を祈ったり、成仏するようにと祈ったりする。けれども、クリスチャンは、人が死んだとき、その人の生前の生き方によって、パラダイスかハデス(よみ)かにはっきり分かれてしまい、私たちが何かをすること、その人をパラダイスへ行くようにすることはできないことを知っている。だから、人の死後、冥福を祈ったりしない。葬式は、死んだ人の運命を左右するためのものではなく、むしろ遺族、知人、友人のため、つまり生き残っている人々のためなのだ。その人々がやがて自分の身の上にも起こって来る死に対して、心の備えができるようにという目的がある。

死んだ人の運命を左右するのは、今生きている人なのではない。死んだその人自身なのだ。その人が生きていた時、神のご好意として用意されていた救いを受け入れたか、それとも拒絶したかに掛っている。だから、葬式もおのずとそのことを表すことになる。

クリスチャンにとって、葬式は、最後の証の場でもある。自分がクリスチャンであったということを、他の人に知っていただく良い機会である。だから、そのような準備をあらかじめしておくことが必要だ。葬式に限らず、人が死んだ後は、とかくごたごたが起りがちだ。それは、生前、自分の身辺のことについて、きちっとした整理ができていなかったがためだ。遺産の問題を始め、いろいろな問題が起りがちだ。そういうわけで、問題が起きないように、よく処理しておくことが大切だと思う。それだけではなく、葬式のことについても、はっきり指示しておく必要がある。

キリスト教の葬式は、普通、葬式とその前夜行われる前夜式がある。前夜式というのは、仏教式で行われるお通夜とは違い、夜通し眠らずに行うのではない。一定の時間を限って行う。賛美、祈り、聖書朗読、説教が行われる。その後、故人の思い出話をしながら、個人をこの世に送り、天に取り上げられた神に感謝する時を持つのもよいことだと思う。最近では、翌日の葬式に来られない人が前夜式に来るため、葬式よりも多くの参列者があることが多くなっている。

葬式は、死んだ人をこの世に送り、天に取り去られた神を礼拝する礼拝である。死んだ人を拝んだり、その人が天国へ行けるように祈る行事ではない。その人が生前イエス・キリストの救いにあずかっていたのであれば、当然パラダイスに行ったのであり、今さらそうなることを祈る必要など毛頭ない。むしろ、後に残された遺族を慰め、励まし、またそこに列席する故人の知人、友人などに、やがて迎えなければならない自分の死に対する心の備えをするように勧める時でもある。

したがって、葬式は棺に納めた遺体を正面には置くけれども、その周りを生花で飾る。キリスト教の葬式では、造花は使わない。そして、花につける名札も取ってしまう。人間が前面に出て来るのではなく、神が前面に出てくるべきだからなのである。周りの壁は、天国を思わせるように白布で覆い、余計なものはなるべく置かない。後で献花をする場合には、献花台を用意しておく必要がある。

葬式の日取りだが、死んでから二十四時間経たないと火葬することはできないので、そのことはあらかじめ承知しておかなければならない。火葬場は普通、友引の日が休日だから、その日に火葬場へ遺体を持って行くことはできない。だから、葬式の直後、火葬場へ遺体を持って行く場合には、友引かどうか調べておかなければならない。葬儀屋に聞けば分ることだ。クリスチャンは、もちろん友引など問題にすることはないのだが、火葬場が休みではどうにもならない。

ところで、葬式の式次第は全部、司式牧師にお任せしなければならないのだが、その中で弔辞を述べる箇所がある。その時、世間一般では、そこにある遺体に呼びかけるような言い方をするが、クリスチャンの場合、「あなたは・・・」などと言うべきではなく、「○○さんは・・・でした」というように話すべきである。故人はもうそこにはいないのだから。献花をするのは、故人に対する愛惜のしるしであって、それをすることによって、故人の霊を慰めたり、故人に拝礼をすることではない。この件に関してさらに詳しく知りたい方は、拙著「死への備え」(いのちのことば社)を参照されたい。

2008年7月6日日曜日

人は死んだらどうなるか

人間が生きているということは、霊と肉体が不可分離的に結合している状態であり、死ぬということは、この霊と肉体との結合が解かれることである。考えてみれば、本当に不思議なことだと思う。霊と肉体という全く次元の違った二つのものが結合しているのだから、これほど不思議なことはない。この不思議な結合が、ある日突然崩れ、霊はそのまま生き続けるが、肉体は土に帰っていく。これを死と呼ぶのだ。

霊は、肉体と結合している間は、肉体によって制約され、時間と空間の法則の下にある肉体とともに生きなければならないが、死ぬと肉体から解放され、自由になる。しかし、自由になったからといって、自分のしたいことができるわけではない。地上においてどういう生き方をしたかによって、主イエス・キリストと共にパラダイスに行くか、それとも暗黒と苦しみしかないハデス(よみ)に行くかのどちらかだ。そして、やがてキリストが再び来られて、この世が終りになる時、体が復活して霊的体となり、それが再び霊と結合して、パラダイスにいた人は天国へ、ハデス(よみ)にいた人は永遠に地獄へと入れられてしまう。

この世にいた時、どのような生き方をしたかが、人間の永遠の運命をこのように二分してしまうとすれば、この世にいる時の生き方は、極めて重大であると言わなければならない。それではどのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行ってしまうのだろうか。人間は、生まれながらエゴイストであり、自分さえよければよいのだという考え方を持っている。聖書では、それを罪人(つみびと)と呼び、罪人のままでは滅び(破滅)に至る運命にある。

しかし、神は憐み深いお方で、私たち滅び行く運命にある罪人を救うために、救いの道を用意してくださった。だから、この神のご好意を感謝して受けるなら、私たちはだれでも天国へ行くことができるのであり、それを拒むなら、私たちは地獄へ行かなければならない。神のご好意を素直に受け入れる生き方をするか、それともそれを拒む生き方をするかが、人生の分れ道になってしまうわけである。神のご好意を受け入れるなら、神は恵みによって私たちの罪を赦し、私たちを罪から救ってくださる。だから、このような救いを受け入れる生き方こそ重要なのであって、そのような生き方をするようにと聖書は繰り返し私たちに勧めている。

人が死を恐れるのは、死の後に裁きがあるからだ。人類が罪に陥って以来、自然死のほかに、罪の裁きという意味が加わった。そのため、死を恐れるようになった。死は確かに不気味だ。しかし、罪が入って来なかったら、不気味というだけで、死に対する恐れはなかっただろう。けれども、今はだれでも死に対する恐怖に恐れおののいている。

だから、この罪の問題が解決しなければ、私たちは死を恐れ続けなければならないのだ。クリスチャンというのは、この罪の問題を解決した人々、つまりキリストによって罪を赦していただいた人々だ。だから、死に対して恐れを抱かなくなった。しかし、クリスチャンにもなお自然死はあるわけで、それは、天国への入り口という意味に変った。朽ちゆく肉体を持ったまま、天国へ入ることはできない。だから、肉体を脱ぎ捨て、やがてキリストが再臨されるこの世の終りの時に、復活して、霊的体が与えられ、天国に入ることができる。

クリスチャンが死を恐れない理由、および死に際してノンクリスチャンのように悲しまない理由がここにある。もう一度、天国でもっと確実な方法で愛する人と会うことができるからだ。この世の生は短く、一時的だが、天国での生は永遠に続く。クリスチャンは、この永遠の生への備えをしている者たちなのである。

だからと言って、クリスチャンは死を喜んで迎えるというのも、必ずしも当を得ているとは言えない。この地上におけるしばしの別れでさえも、寂しく悲しいものなのだから、ましてこの世ではもう再び会えない死出の別れを、寂しくまた悲しく思わないわけがない。しかし、クリスチャンの死別は、それが永遠の別れではなく、再会の希望のある別れだから、そこには平安があり、また期待がある。そういう意味で、喜びもまたあると言うことができる。ただ死ぬのが嬉しいというのとは違う。

だから、クリスチャンは、死に際して決してあわてることがない。日ごろ親しく交わっている神のみもとに行くのだから、そういう意味では、あわてるどころか喜びで一杯だ。私たち人間は、遅かれ早かれ、この世界の創造主である神の御前に立たなければならない。だから、だれも皆、神に会う備えをしていなければならない。それができているのがクリスチャンである。

そういうわけで、クリスチャンの葬式は、死んだ人をあがめたり死んだ人の霊を慰めるのではなく、その人をこの世に送り、また取られた神をあがめる礼拝なのである。