2008年9月28日日曜日

病気と医療について

病気や医療についてどう考えたらよいのだろうか。多くの宗教は、病気の癒しを看板にし、どこの医者に行っても治してもらえなかった人が、その宗教によって治ったと言っている。つまり、医者に見離された人を、信仰一つで治してあげるという宣伝をしている宗教がかなり目につくのである。

それでは、私たちキリスト教の立場から見る時、病気や医療をどう考えたらよいのだろうか。私たちの健康をつかさどっておられるのは神であって、神は最初、人間を健康人としてお造りになったのである。その健康な人間がどうして病気になってしまったのかと言うと、それは人間が罪に陥ったからである。もちろん、これは具体的にこの罪を犯したからこの病気になったというのではなく、病気という異常現象が起ってくるのは、人類が罪に陥った結果だということである。

本人が不摂生をしたがために病気になるということもあるが、今日のように複合汚染の時代になると、食料品自体に、体を害する有害物質が付いていたり、入り込んだりしていて、それを食べているうちに、いつしか体を壊してしまったということもないわけではない。食品添加物や防腐剤や農薬など、体に悪い物が沢山あるし、食肉には抗生物質が含まれていることすらある。だから、規則正しい生活をし、別に暴飲暴食をしているわけではないのに、いつしか体を壊してしまうことがある。

だから、病気になるのは、一概に本人の不注意とばかりは言いきれないが、それだけに今日では病気の原因を簡単に突き止めかねることが多いのだと言える。だから、簡単に因果関係を持ち出してきて説明することは、しばしば偏見や独断であることがあって、かなり無理なことなのである。しかしながら、病気は決して健全な姿ではないから、決して喜ばしいことであるとは言えない。それは、罪の結果、人類の世界に入ってきたことからも分ると思う。

病気になった場合、ともすると「バチが当った」と考える人々がいるけれども、それは決して正しい考え方であるとは言えない。罪を犯したがために病気になることもあるが、すべての病気が何かある特定の罪の直接の結果であると言うことはできない。

聖書では、個々の具体的な病気の直接の原因については何も教えていない。そのようなことは、私たちに必要がないことだからである。たとえば、もしもその人が生れてすぐ大病にかかり、高熱のために体の一部に故障が起ったとしよう。そしてその大病が、もしも親の不手際から起ったとして、そのことを知ったからといって、そこに解決があるだろうか。おそらく、その子供は親を恨むだけではないだろうか。だから、生れながらの盲人がいた時、主イエスの弟子たちが主イエスにその原因について質問した時、主イエスはその原因については答えることを避け、むしろ主イエスは過去ではなく将来に目を向けるようにされ、それが神の恵みの御業の現れる契機となることを教えておられる。それについて、聖書は次のように記している。
「イエスが道を歩いておられると、生まれつきの盲人がいた。弟子たちは、この盲人を見て、イエスに尋ねて言った。『先生。この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためでしょうか。本人でしょうか。それとも、両親でしょうか。』イエスは答えられた。『本人でも両親でもありません。だれが罪を犯したのかなどと聞いて、そこに解決があるでしょうか。この盲人が生れつき盲目であったことも神様の御心に無かったことではありません。神様はこの盲人の身の上に御業をなさろうとしておられるのです。』」(ヨハネ9:1-3)

私たちの体は、神のご支配のもとにあるから、病気もまたそこに神の深い御心があることを知らなければならないと思う。それを、ただ単に呪いとか宿命とか考えるのは、異教的な考え方である。もしも神からの警告であるとすれば、素直にそのことを認め、不摂生や、その原因を取り除けることが必要だろう。

病気をする時、私たちはそれまでの生活にストップがかけられることになる。今までと同じ生活をしていくことはできない。
「順境の時には、それを楽しみ、逆境の時には、よく考えてみよ。」(伝道者7:14)

神は私たちに内省の時を与えられる。忙しかった時には考えようともしなかった人生の目的とか意義について考える機会ともなることだろう。「一体、自分は何のために生きているのか」ということについては、健康な時、仕事や勉学に励んでいる時には、考える余裕すらないだろうと思う。しかし、病気になり、仕事や勉学から離れると、考えざるをえなくなるはずだ。人生においては、仕事や勉学以上に、人生そのものの方がはるかに大切であるということが、分ってくる。病気とは、実にそのようなことを考える時なのである。

2008年9月21日日曜日

教育は自分が変ることから

親が子供を育てる時、数多くの失敗をしてしまう。親となった人でなくとも、一人前の人なら分ると思うが、ずいぶん多くの傷を親から受けてきているということである。心の中に、いまだに癒えぬ傷を持っている人が、どれだけ多くいることか。私は牧師として多くの人に接してきて、そのことをつくづく感じる。必ずしも崩壊した家庭でなくとも、親から受けた心の傷に悩んでいる人が数多くいる。それは、よく考えてみると、親にも同情すべき点がないわけではないのに、子供はそこまで考えが及ばないのである。

ある青年は、父親を激しく憎んでいた。彼によると、父親からはぶんなぐられた記憶しか残っていないそうだ。父親のことを思うと、恐ろしさと憎しみで、体がブルブルふるえると言うのである。

そこで、私はその人に聞いてみた。「君のお父さんの生い立ちについて、知っていることがあったら話してください。」すると、その人の父親は、幼くして両親と死に別れ、叔父さん一家の手で育てられたというのである。その叔父さん一家にひどくいじめられ、いつかこの仕返しをしてやろうという思いで生きてきたと言うのである。彼が兵隊として戦地に行っている間に、叔父さん一家は、空襲で死んでしまい、彼が復員して帰って来た時には、叔父さん一家は一人もおらず、彼もそんなことは忘れて、仕事をし、結婚したそうである。しかし、酒を飲むと、叔父さん一家のことを口ぎたなくののしり、「今生きていたら、ぶっ殺してやる」と言うのだ。そして少しでもそれに逆らったりすると暴力を振う。こうして私の所に来た青年は父親を激しく憎んでいると言っていた。

彼から父親の話を聞いた時、私は彼にこう言ってやった。「君のお父さんも被害者だったんですね。そのことを理解してあげることが大切ですよ。」彼は、「えっ、おやじが被害者なんて信じられないですよ。被害者は僕なんですから」と言うのだ。「君が被害者だっていうことはよく分る。しかし、君のお父さんがなんで君に暴力を振ったのかと言うと、被害者だったからなんで、そのことをよく理解してあげる必要がある。被害者は被害者を生むんだっていうことをもね。」私がそう言うと、彼はしばし無言のまま、「分りました」と小声で言った。

どんな人にも、それをする理由があるのだ。だから、ひねくれた子供を作りたくなければ、小さな子供も一個の人格を持った存在なのだということを知る必要がある。

よくこういう図を見かけることがある。母親が夕食の仕度をしている時、小さな女の子が母親のところに来て、「お母ちゃん、来て、見て」と言って、母親を呼ぶのである。その時、母親はどのようにその女の子に対するだろうか。「お母ちゃんが今何をしているか分ってるの。忙しいんだから、向うへ行っていなさい」と言う母親が多いのではないだろうか。その時、その子はどう考えるだろうか。「お母ちゃんはあたしのことなんかどうでもいいんだわ。」こうしてその女の子の心には深い傷が残っていくのである。

その時、賢い母親はどうするだろうか。「ちょっと待っててね。お母ちゃんは今、天ぷらをあげているから、それが終ったら行ってあげるからね」と言うにちがいない。子供はその一言で満足するのである。というのは、母親は自分のことを認めてくれていると分るからである。

ところで、前の母親のような行動を取る人の場合、どう考えているのかと言うと、子供のことなんか、自分が今やっていることと比べたら、比べものにならないほどの価値のないことだと考えている。しかし、子供にとっては、それは大切なことなのである。そのことを認めてやるかどうかは人格形成において重大なことなのである。

もしかしたら、早く夕食の仕度をしておかないと、いつもより早く夫が帰って来た時、夫に怒られたら大変だという思いがあって、子供の要求を拒んでも、自分のことをやり終えたいという極めて利己主義的な考え方があったのではないだろうか。だから、教育とは子供の生き方をあれこれ考えたり、提示したりすることなのではなく、自分がどういう生き方をしたら良いのかということに帰着すると言ってもよいのではないだろうか。つまり、人を教育しようと思えば、まず自分が変ることが先決で、今まで通りのエゴイズム丸出しの生き方から、ほかの人のことを心から考える愛の人に変ることから始めなければならないのではないかと思えてならない。

子供であろうとだれであろうと、その人を立派な人にしたいなら、まず自分が変ることである。自分がいいかげんな生き方をしていて、子供だけ立派な人になるわけがないだろう。親が率先し、自ら模範を示すこと、これが教育の第一歩ではないだろうか。親が変れば子供も変る。親が変らないで子供だけを変えようとしても、それはどだい無理な話なのである。

2008年9月14日日曜日

教育について思うこと

前回、思春期の子供の教育を考える場合、スポーツをさせることを薦めたが、ことに男の子の場合、これは必要なことだと思う。そのように言うと、そんなことをしていたら、入試戦線から落後してしまうのではないかと心配する人がいるかもしれない。そのように考える人は、教育について間違った考え方をしていることを暴露していることになる。教育とは、人格形成なのだということをしっかり覚えておいてほしい。人格形成は、普通、文化的遺産の継承を媒介として、人格と人格との触れ合いによってなされていくものなのである。文化的遺産と言うと、何か難しいことを想像するかもしれないが、私たちの先輩たちが私たちに残していってくれたものである。学校では、それを国語とか数学とか社会とか理科などといった科目として教え、学んでいく。しかし、このような科目を習得させることが教育の本質なのではなく、それを媒介とした、教師と生徒、生徒同士の人格の触れ合いによって人格形成を行うところに教育というものがあるのだということが大切なのである。

だから、教育というのは、何も倫理とか道徳といった科目を学ぶことによって出来るのではい。数学であろうと、英語であろうと、体育であろうと、それは問うところではない。それを教える教師の人格との触れ合いが大切なのである。

このことは、親子の場合でも同じである。しばしば教育について間違った考え方を持っている人がいる。それは、教育をする親は、自分が完成者であって、子供は未完成者であると思っていることである。教育において、これほど大きな間違いはなく、親も子も、どちらも未完成者なのである。どちらも人格形成への道を求めつつある途上の、いわば求道者同士なのである。そこには、共通の「弱さ」があるはずだ。しかしまた同時に、道を求める「厳しさ」があって、そこにおいては、親が一歩なり半歩なり「先んじていなければならない」。そのことがなければ、決して教育は成り立たないのである。

また、子供の教育について考えようとする時、ずいぶん間違った考え方を持っている親がいることを知って驚かされることがある。子供を自分の理想の鋳型に入れようと考えたり、自分の見はてなかった夢を子供に託して、強制したりするのだが、これは大抵教育ママと相場が決っている。また、世間体を第一にして、他の人にどう見られるかという人の目ばかりを気にしている人が、案外多いのである。

また、親の権威を笠に着たり、ごまかしたり、むら気であったり、えこひいきをしたりする親も少なくない。同じ自分の子供なのに、素直であったり、成績が良かったり、女の子の場合には、顔がかわいかったりする子供を特別にかわいがる親がいる。それがどういう結果をもたらすかは、火を見るよりも明らかである。

よく一家の物差しが父親である場合がある。父親の言うことは絶対であって、言う言葉はいつも一方通行である。父親は、母親に対しても子供に対しても「ごめんなさい」とも「ありがとう」とも言わず、言うのは、いつも子供の方から父親や母親へ、また母親から父親へ(妻から夫へ)という一方通行なのである。こういう家庭は、あとでバラバラになってしまう。しかし、クリスチャンの家庭は、そうではない。一家の本当の主人は、父親でも母親でもなく、主イエス・キリストなのだから、聖書の御言葉に照らして間違っていれば、それが父親であろうが、母親であろうが、ほかの人々に謝る。こういう家庭は、いつも円満で美しい家庭になることは間違いない。

一家においては、親の価値観が子供の価値観を決めるから、親が正しい価値観を持つことは極めて重要になってくる。能力や頭の良さや、社会的地位や、身分や、お金の有無ではなく、人間として最も重要な価値は「愛」ということでなければならない。

私たちが、このように子供の教育について深い関心を持つのは、どうしてなのだろうか。それは、子供が自分のものではなく、神から預かっているものであるというところにある。

わが国では親子心中ということが行われる。それは、幼い子供たちだけを後に残していくことへの心細さであることはよく分る。しかし、子供は自分のものという考え方がそこになければ、そんなことは起らなかったと思う。子供は親のものではない。神からの預かりものである。最後の日に、私たちは皆、自分の子供をどのように育てたかということについて、神に報告する責任がある。

子供にとって良い親というのは、子供が安心していられる親だ。どんなことも、その良い動機を理解し、受け止めてくれる親、たとい失敗しても、それを許してくれる親だ。そうなれるためには、自分で自分を制することの出来ない自分が、まず神によって変えられなければならないのだと思う。

2008年9月7日日曜日

教育とは何か

人間の中心は、何と言っても人格なのだから、教育とは人格形成ということにほかならないだろう。ところで、人間の人格は、知性と情操と意思という三つの面を持っているから、これらのものの健全な形成ということになる。つまり、知性だけに偏った教育は、実は教育とは言えないということになる。これら三つのバランスをもった教育が重要なのである。

それでは、一人の人が人格を形成していく場合、どういうものによってかということを考えてみると、私は三つのものを挙げることができるように思う。第一は遺伝である。だれでも生れながらにして持っている性格というものがある。生まれた子供は、顔形だけでなく、性格までも親に似ていることがよくあるが、それは遺伝なのである。

しかし、遺伝だけですべてが決ってしまうわけではない。第二の要素としては、その子が育っていく生活環境が影響を及ぼすのである。有名な「孟母三遷の教え」は、孟子のお母さんが、子供の孟子の教育のことを考え、三回引越しをしたという話なのだが、生活環境は人格形成に大きな影響を与えることは確かである。

この二つの要素以外に、本人の反応というものがある。これは、いろいろな事態に対して取る本人の態度と言ってもよい。乳幼児の場合には、はっきりとした反応を示すことはできないが、少年期に入っていくと、自覚的態度を取っていく。この反応を好ましいものにするのが、実は教育の働きであって、教育の課題と可能性の問題がここに残されていると言ってよいだろう。

たとえば、大酒飲みの父親と、その父親をいつもののしってばかりいる母親との間に育った子供が、いつも悪人になるとは限らないという例がいくらもある。そこには、その子供に良い影響を与えた親戚のおじさん、おばさん、あるいは近所のお兄さん、お姉さん、学校の先生などがいたのだ。そういう人の好ましい影響が、あまり好ましくない環境にもかかわらず、良い反応をもたらしたのだと言ってよいだろう。汚い泥沼の中にも、美しい蓮の花を、神は咲かせることがおできになるのである。

この人格形成を教育の中心と考えるとしたら、人格形成には、重要な時期があるということを知らなければならないと思う。まずそれは、生まれて最初の四年間である。その間には、離乳期とかエディプス期と呼ばれる時期がある。離乳期にきっぱり離乳させないと、決断力の弱い性格が出来上がってしまう。エディプス期というのは、父親と母親と赤ん坊の三角関係の時期のことである。赤ん坊は、生まれるとそのまま母親との固い絆で結ばれていて、そこには一体感がある。ところで、そこへもう一人の人物、つまり父親が現われてくると、母親は自分を愛してくれており、また父親のことも愛しているらしい。そして父親も、自分と同時に母親も愛しているらしいという感じを、赤ん坊ながら抱くのだ。この三角関係を乗り越えていくためには力が必要で、その力は母親との間に堅く結ばれた絆なのである。

だから、もしも母親との間がこの堅い絆で結ばれていない場合には、このエディプス期を乗り越えることができず、いつまで経っても不安定な性格、人を信頼することのできない性格になってしまうことが多いのだ。情緒不安定などもこの部類に入る。そのことを考えると、赤ん坊が生まれてからの四年間は、母親は人任せにせず、自分が自分の子供を育てることが、どんなに大きな良い影響を与えるかが分ると思う。

もう一つの重要な時期は、思春期である。これは、大体、中学生、高校生、大学生のころである。このころ一番重要視しなければならないことは、はちきれんばかりのエネルギーを建設的な方面に向けてやることである。その点、スポーツなどは良いと思う。陸上競技のように一人でするスポーツでも構わないが、何と言ってもチームでするスポーツの方が良いと思う。エネルギーを建設的な方面に向けることだけを考えれば、どんなスポーツでも同じだが、友情を養い、連帯責任を自覚させるためには、チームでプレイをするスポーツに勝るものはない。たとい自分がうまくやっても、ほかの人が失敗すれば、自分たちのチームは負けてしまうのだ。将来、社会人になってこの連帯責任の理屈が分らず、社会の落後者になっていく人が少なからずいることを知る時、このようなスポーツを通してそれを身につけていくことは賢いことだと思う。

水蒸気がものすごい力を持っていることはだれでもよく知っていると思うが、それを建設的な方面に向ければ、蒸気機関車となって十何両もの車両を動かすことができるが、そうでない時は、破壊的な力となることもある。ちょうどそれと同じで、思春期の子供たちは、エネルギーが余っている。これを勉強だけに向けようとしても、なかなかうまくいかない。うっかりすると、ノイローゼになったり、自殺したりすることもないとは言えない。そのエネルギーをスポーツに向ければ、最も健全に活用できるのである。