2008年12月28日日曜日

日本人は霊性が幼稚

日本人は、宗教に関しては極めて幼稚だ。宗教学的に言うと、最も原始的な宗教であるアニミズムを信じている。古い木などにしめ縄などを張っているのは、まさしくそれで、そこに何らかの霊が存在していることを信じているからではないか。それを肯定する人も、しない人も、少なくとも宗教に関しては、極めて幼稚である。

宗教を否定することが科学的であると考えるのも、これまた幼稚と言うほかはない。科学万能主義の考え方に至っては、もはや何をか言わんやというところである。

そうかと思うと、宗教にこる人もいないわけではない。年始などに神社やお寺に群がる人も、本当に信仰を持っているのかと言うと、ただ一年のご利益のために詣でるにすぎないのではないか。ご利益が宗教に結び付くところには、宗教についての本質が全く分っていない姿をそこに見るのである。

宗教とは、何であるよりも、人間の実存的な問題を扱うのであって、ほかの人によって代ってもらうことのできない問題、つまり、エゴイズムとか、苦しみとか、死という問題が、実は宗教の本質にかかわることである。

日本人が宗教を考える場合、それがご利益と結び付けてしか考えられないところに、日本人の霊性の貧困さを表わしているとは言えないだろうか。そこにあるものは、自分のとって得をするか、損をするかということでしかない。

人間は徹頭徹尾、自己中心的だから、そういう考え方をするのも仕方がないのかもしれないが、実はそういう考え方をしている限り、本当の解決には至らないということを知らない。そのことが霊性の貧困さと幼稚性を表わしているとは言えないだろうか。

いつでも、そこには自己保身の姿がある。宗教において、本当のものをつかむためには、自己中心の考え方をやめなければならない。自分が中心なのではなく、この世界は、この世界を造られた神がおられて、そのお方を中心とした考え方にコペルニクス的転換をする必要があるのだ。そうする時、今まで見えなかったものが見えてくると同時に、今まで見えていたわずらわしいものが見えなくなってくる。そこから道が開かれてくる。幼稚な霊性からの解放がなされていく。幼稚なアニミズムの神ではなく、造り主の神がいくらかでも分ってくるだろう。

2008年12月22日月曜日

憎しみは愛に

1919年に一人のアメリカ人宣教師が日本に来た。その名前はJ・H・コルベと言った。彼は平和主義者であったため、次第に軍国主義化していく日本では、いろいろな面で圧力が加えられ、ついに1939年に日本を追われ、フィリピンへ行かざるをえなかった。フィリピンではパナイ島で伝道活動をしていたが、やがて太平洋戦争が始まり、山中へ逃げていった。1943年に、彼は奥さんのシェルマやそのほか9人の宣教師たちと共に、日本軍に捕えられてしまった。日本軍の隊長は、今ごろアメリカ人がこのような所にいるのはスパイ活動をしているためだと決めつけ、処刑することにした。隊長はこう言った。
「お前たちはこれから処刑されるが、30分だけ時間を与えるから、最後に今生の別れを惜しむがよい。」

こういわれて、コルベ宣教師夫妻は、聖書を取り出し、新約聖書のマタイの福音書5-7章に記されている主イエス・キリストの山上の説教の箇所を一節ずつ交読した。約15分ぐらいかかって、交読した後、二人は祈った。
「もう時間だ。さあ、やめい。」

隊長の号令と共に祈りを中止させられた後、二人は日本刀で首を切られて殺された。

コルベ宣教師の二人の娘マーガレットとアリスは、勉学のためアメリカへ帰国していたため難を逃れた。この知らせがアメリカにいたマーガレットとアリスのもとに届けられると、彼女たちは悲しみに打ちひしがれた。やがて悲しみは憎しみに変り、両親を殺した日本人に対して、いつの日か仇を打ってやろうと思うようになった。しかし、戦時中のこととて、近くに日本人がいないので、すぐにどうのということができずにいた。

毎日、悲しみと憎しみの中で神に祈っていたところ、ある日、祈りながら、ふとこんなことを考えていた。
<両親は日本の軍人に殺される前に祈っていたと言うけれども、一体何について祈っていたのだろうか>

そのことを考え始めると、どうしても二つのことに思い至るのだ。働き半ばして殺されたあのフィリピン人の救いと、両親をその国から追放し、両親を殺した日本人の救いのためだ。そう考えてみると、自分たちの願いと思いが、両親の最後の祈りと全く反対のことであったことに気付かされた。そうは言うものの、そう簡単に憎しみが取り去られるものではない。悶々とした毎日を過ごしているうちに、聖書の御言葉によって、目の前が明るくなる経験をした。
「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちも他の人のために喜んで自分の命をささげるべきである」(1ヨハネ3:16)。

そして、マーガレットはこの御言葉通り、日本人に対して愛を示したいという思いが心に湧いてくるのをどうしようもなかった。しかし、近くに日本人がいるわけではなく、なかなかその機会はなかった。ところが、捕虜収容所に日本の軍人がいることを知り、彼女は早速ボランティアとして志願し、日本人捕虜たちの身の回りの世話をすることにした。

捕虜収容所にいる日本人捕虜たちは、マーガレットのことを話題にしていた。ある日、その日の働きを終えて帰ろうとするマーガレットを捕まえて聞いてみた。
「あなたはどうして私たちの身の回りのことをこんなに親切にしてくださるのですか。」

すると、マーガレットは、今述べたような話をして聞かせた。すると、それを聞いていた日本人の捕虜たちには、さっぱり理解できない。日本の軍人たちは、「親の仇は子が討て。子が討てなければ孫の代になっても」と教えられてきていたから、彼女の気持ちなど理解できる道理がなかった。

捕虜たちは理解できぬまま日を過し、いよいよ敗戦後、捕虜交換線で帰国した。この人々を出迎えた人々の中に、かつて太平洋戦争勃発の時、真珠湾の爆撃隊長だった淵田美津雄元海軍大佐がいた。彼はこの話を捕虜たちから聞いたが、さっぱり分らず、マーガレットの人生を変えた聖書を手にし始めた。そして、新約聖書のルカの福音書23章34節の所まで来た時、彼は電気に打たれたかのように感じ、キリストの御言葉に捕えられてしまった。それはご自分を殺そうとする人々のために、十字架上で彼らの赦しを祈られた御言葉である。
「お父様。どうかこの人々を赦してあげてください。この人々は自分たちが何をしているのか、何も分っていません。」

彼は、マーガレットの人生を変えた神の霊によって捕えられ、彼もまた憎しみが愛に変えられて、余生をクリスチャンとして通した。

コルベ宣教師のもう一人の娘アリスは、自分が働いて得た一年分の給料を日本伝道のためにささげたのである。

2008年12月14日日曜日

身代わりの愛

1954年9月26日のことであった。折しも日本列島を直撃した台風が、青函連絡船洞爺丸に襲い掛ってきた。函館を出た洞爺丸は、波が荒いため、港内に借泊した後、七重浜へ行き、そこで座礁することにし、乗客には全員救命具を着けるようにという館内放送があった。そうしているうちに、
「大丈夫です。大丈夫です」

と叫んでいた船員の言葉がうそのように、水は容赦なく船内に流れ込んできた。

一等船客は、救命ボートに乗り移っていた。その時、二人の日本人の若い女性が病人として連れて来られた。しかし、人々はそれに気がつかぬふりをして、どんどん救命ボートに乗り移っていた。しかし、そこに二人のキリスト教の宣教師がいた。一人はアルフレッド・ストーンと言い、もう一人はディーン・リーパーと言った。彼らは泣いているその女性たちを見ると、見て見ぬふりをすることができず、
「ドーシマシタ?」

と聞いた。救命具のひもが切れたと言って泣いていた。
「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマショウ。」

宣教師たちは自分たちの着けていた救命具を外しながら、こう言った。
「アナタガタハ、スクワレテイマスカ?」

彼女たちは、
「私は助かりたいの」

と叫んだ。宣教師たちはこう言った。
「ワタシタチハモウスクワレテイマス。ケレドモ、アナタガタハ、スクワレテイマセンネ。デスカラ、タスカッタラ、カナラズキョウカイヘイッテ、スクワレテクダサイ。」

そして、自分が乗るべき救命ボートにこの日本の若い女性たちを乗せてやり、自分たちは乗らぬことにした。しかも、自分の救命具までその女性たちにあげてしまった。

突然ガーンという音と共に、船は転覆し、水が船内に流れ込み、乗客の頭から水が覆ってきた。救命ボートに乗り移った人たちが全員助かったわけではなかったが、この二人の女性たちは助かった。その代わり、あの二人の宣教師たちは、千数百人の人々と共に海の藻屑と消えてしまった。この話は、助かった二人の女性が、宣教師たちの最後の言葉通り教会を探し、救いの体験をした後、そのあかしをしたことによって明るみに出た。

だれが、見ず知らずの人のために命を投げ出すことができるだろうか。聖書で、
「人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません」(ヨハネ15:13)

と教えているとおりである。しかし、主イエス・キリストの愛を知った人には、それが出来る。次のように教えられているからである。
「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちもほかの人のために喜んで自分の命をささげるべきである。」(ヨハネ13:16)

これには、後日物語がある。リーパー宣教師には四人の子供、三男一女がいた。その一人娘リンダは小さくて、父の顔を覚えていない。彼女は十四歳の時、恵泉女学園に半年留学していた。その時、洞爺丸記念の会が函館で開かれるということを知り、函館へ行った。会が開かれるまでにまだ時間があったので、ゆかりの地七重浜へ行ったところ、リンダは案内した人に対して、
「一人にしてほしい」

と言って、まだ冷たい海の中へどんどん入って行き、頭が隠れるくらいの所まで来ると、急に大声を出し、暴れ始めた。
「パパ、なぜ死んだの。パパ、なぜ日本人ために死んだの。パパ、ここに帰って来て。」

両手で水をたたきながら叫び狂ったリンダは、その後一言もしゃべらず、一種異様な様子であったというのである。

やがてアメリカへ帰り、カリフォルニアから次のような手紙が案内した人のところに送られてきた。
「まことに申しわけありませんでした。あの時は本当に失礼いたしました。しかし、ようやく分ったのです。子供のころから、母が父の写真と一緒に枕元に置いてくれていた聖書を、ようやく開くことができました。そこにはこう書かれていました。『人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません』(ヨハネ15:13)。私はこの御言葉によって、なぜパパが日本人のために死んだのかが分ったのです。そして、主イエスの愛がそうさせたのだということも。」

そして、リンダは宣教師夫人として、また日本に帰ってきたのである。

2008年12月7日日曜日

愛は人を動かす

1900年代に、山口県の秋吉台で大理石の発掘をしていた本間俊平という人がいた。初めのうちはキリスト教を妨害していたが、後にクリスチャンとなり、秋吉台で刑余者と生活を共にしながら、彼らを導いていた。彼のもとには沢山の前科者がおり、刑を終えると、人の紹介によって、ここへ集まって来ていた。

その中に、相川勝治という至って乱暴な男がいた。彼は元警察官で、警部補にまでなった人だが、酒のために退職し、その後十八か所で強盗を働き、あちこちで悪事を重ねた後、ついに捕えられ、十六年九か月の刑に処せられた。彼は元警察官だから、法律はよく知っているし、強情な上、短気で、入獄中もわがままで通し、乱暴を働き、そのため、看守長に始末書を書かせるほどひどいことをするものだから、刑務所でも持て余すほどだった。ところが、最後の三年余りは、聖書を読むようになり、出所後は教誨師の紹介で、妻子ともに秋吉台にやってくることになった。

本間俊平は、彼を七、八人の青年たちの小頭として、大理石の切り出しをさせた。ところが、相川は予想以上のわがまま者で、ほとほと困ってしまったほどだった。ある日のこと、本間は思い余ったあげく、意を決してこよ子夫人を呼んで、こう言った。
「お前は、今日まで私の妻としていろいろ尽してくれたが、先ごろ来たあの男は、お前も知っての通りの人間で、あの男のためにお前か俺のどちらかが、生首を飛ばされるようなことが起るかもしれない。今さら改まってお前の決心を聞くまでもないが、もしもそのようなことが起った時、音をあげるようだと困るが、どうかね。その時、お前の口からキリスト様に仕える者らしからぬ言葉が出たら、神様に仕える者として大きな恥だと思うが、どうかね。」

すると、夫人は、ご自分の堅い決意をこのように述べられた。
「私は、何一つの取り柄のない者でございますが、イエス様の十字架だけは心から信じております。もしもそのようなことを私の身に引き受けますことが神様の御心でございますなら、私は喜んでお引き受けいたします。」

ところで、相川の下で働いている一人の青年が、強情という点では彼よりも上手で、彼の言うことに従わないために、相川はこよ子夫人に、「あいつを追い出してください」と何度も訴えた。ところが、夫人はどうしても聞き入れないので、あるとき、また同じことを申し出て、夫人に迫った。しかし、夫人はどうしてもそれを聞き入れず、このように言うのである。
「ここに来てもらっている人たちは、自分で勝手に出て行くか、あるいはここにいる必要がなくなり、善くなって帰っていただくことはありますが、悪いからとか、強情だからという理由で、こちらから出て行ってもらうわけにはいきません。」

このように、キッパリ断られたので、相川は怒り出し、
「これだけ言っても聞いてくれないのなら、あなたを殺して、おれも死ぬ」

と怒鳴りながら、隠し持っていた石切りのみを取り出して、夫人の左腕に斬りつけた。その時、夫人は少しも騒がず、血潮のほとばしる左腕を右手で押さえながら、
「神様。どうか相川を赦してやってください」

と祈るばかりであった。相川はただブルブルと震えているところを、物音を聞きつけて来た人々に取り押さえられてしまった。

そうこうしているところに、こよ子の夫、本間俊平が帰って来、この有様を見ると、相川の前に手を付いて、こう言った。
「お前が殺したいほど憎かったのは、このおれだろう。相川、どうか赦してくれ。さあ、家内を早く医者の所へ連れて行ってくれ。」

この時以来、相川は心から悔い改め、真人間となり、後に本間俊平の下を去り、自分も同じように刑余者の面倒を見るようになった。本間俊平夫妻のいのちがけの愛が、この箸にも棒にもかからなかった男、相川勝治を変えたのである。

ちなみに、本間俊平は結婚をする時、四つの条件を出したと言われている。第一は、家柄などを問題にしないこと。第二は、学歴のない人であること。第三に、容貌などどうでもよいこと。しかし第四に、愛の人であること。そして、この四つ目の条件にかなった女性と、二十五歳の時に結婚した。それが、こよ子夫人だったのである。

だから、家柄や学歴などどうでもよい。愛さえあれば、驚くべきことをすることができる。神がその人を動かして、驚くべきことをさせてくださるのである。箸にも棒にもかからない人を変えてくださることは、今も同様である。