2007年9月29日土曜日

キリスト教は禁欲主義なのか

聖書の教えを禁欲主義だと勘違いしている人は案外多い。しかし、キリスト教は禁欲主義ではない。そう言うと、それでは快楽主義なのかと聞いて来る人がいるから驚く。キリスト教は禁欲主義でも快楽主義でもない。キリスト教が禁欲主義と似ているところがあるとすれば、クリスチャンが決して浪費をしたり華美に走ったりしないところにあるだろう。確かにクリスチャンの生活が質素であり、清楚であるとしても、決して戒律に従って生活しているのではない。その点自由である。自由であるという点からすれば、快楽主義と似ているかもしれない。ただ違うのは、快楽主義者が自分の欲望の赴くままに自由に行動するのに対して、クリスチャンは、神の御言葉の上に自由に行動する。神の御言葉というレールの上を自由に走る列車のようなものである。

禁欲主義とは、一種の禁止主義である。禁止主義に解決はない。解決はいつも禁止という消極的なものにあるのではなく、もっと積極的なものにあるはずだからである。キリスト教においては、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という禁止条項がクリスチャンの規範なのではなく、イエス・キリストご自身を規範として行動する。

イエス・キリストを信じることによる、積極的な解決である。ここに、禁欲主義とは根本的に違う点がある。禁欲主義の場合には、いつもしてはいけないことばかりを考えて、行動は消極的になってしまうが、クリスチャンの場合には、自由が与えられているから、積極的に行動することができる。

禁欲主義が本当の解決にならないことは、聖書自体が教えている。
「あなたがたは、キリストと共に死んで、この世の幼稚な教えから離れたのに、どうして、まだこの世の人々と同じように、『・・・してはいけない』というような禁欲主義に縛られるのか。そんなものは、やってみればそれでおしまいで、神の福音にあずかることのできない、人の作った戒めや教えに過ぎない。そういったものは、独り善がりの礼拝と、自己卑下と、肉体の苦行という点では、一見賢いもののように見えるが、生まれながらの肉欲に対しては、何の役にも立ちはしない。」(コロサイ2:20-23)

これほどはっきり禁欲主義を否定している箇所もないだろう。それは、人間の教えなのだ。だから、聖書の教えているキリスト教とは全く相いれないものである。禁欲主義では決して救われることはない。

2007年9月25日火曜日

実存的問題-エゴイズム 4/4

エゴイズムと聖書で言う「罪」とは、必ずしも同じではない。しかし、「罪」と言っても多くの人は分らないと思うので、エゴイズムと言っておいた。これならだれにでもよく分るだろうと思う。それほど聖書で言う「罪」は分りにくい。エゴイズムという言葉を使うと、だれでも自分がいかにエゴイストであるかということを知っているから、それを自分のこととして考えることができるだろう。

ところで、本質においては、この両者は同じなのである。だから、そういうことが分ると、自分が罪人なのだということも分るだろう。罪人は生れながらにして破滅性を持っている。文学は人間を帰納的に追求し、人間の破滅性を描いているが、聖書は演繹的に人間の破滅性を断言している。

罪は人間関係を破壊してしまう。それは自分さえよければそれでよいと思うエゴイズムがそこにあるからである。表面的なつき合い程度のものはそこにあっても、心と心の通い合う交わりを持つことができないのは、そのあたりに本当の事情が存在しているのである。

罪はただ単に人間関係を損なうだけではなく、本来私たち人間を造ってくださった神との関係も損なうことになるのは当然のことである。私たちが私たちの作り主である神から離れた生き方をしているのもそのことによる。

人間は特別に無神論の教育を受けなければ、だれでも生まれながらにして無神論者であるものはいない。ただ罪のために、造り主である本当の神から離れてしまっているので、本当の神が分らなくなっている。神から離れた人間は、神なしで生きていくことができないので、何かを神として拝む以外にはない。目に見える偶像を人の手で作って拝んだり、目に見えない思想を一種の偶像として、それ心を寄せている。しかし、本当の神ではないので、生きる力を与えてはくれないのである。

生みの親を無視する子供がいたら、その親はどんなに悲しむことだろうか。本当の造り主である神がおられるのに、そのお方を無視し、偶像崇拝をしていたら、生きておられる本当の神はどんなに悲しんでおられることだろうか。

偽札が出回っているということは、本当に価値あるお札がただ一つだけあるように、いろいろな宗教があるということは、本当の神がただ一人だけおられ、そのお方は比類を見ないほどすばらしい神であるはずだ。そのお方に背を向けているということこそ罪の本質なのである。

2007年9月22日土曜日

報いを求める心は卑しいか

私は若いころ、倉田百三の「愛と認識との出発」、「出家とその弟子」や阿部次郎の「三太郎の日記」をよく読んだものだ。こういう書物に共鳴するのは、若者の心が純粋さを求めているからだと思う。しかし、私は聖書を知り、信仰を持ち、聖書を熟読していくうちに、これらの非現実的な教えに満足できず、聖書の深い教えに捕えられ、誤った異教主義から目覚めさせられた。

若い人たちは、確かに純粋なものにあこがれる。それは良いことだが、理想と空想を混同していることがしばしばある。報いを求める心は卑しいのだという言葉にぶつかる度に、私はその純粋さにひかれていった。そして、最初のうちは、聖書の中にも、この報いを求める教えを見出して、失望したものだった。しかし、はたして報いを求める心は卑しいのだろうか。そして、報いを求めることなしに、人間は何かを行なうことができるほど高尚な者なのだろうか。この問題にぶつかった時、私ははたととまどったことを覚えている。

マタイによる福音書6章1節-18節は、報いという思想がその基調となっている。そこでは、人からの報いを期待する人は、神からの報いを受けることができないと教えられており、決して報い自体を否定してはいない。報いという思想は、聖書のこの箇所にだけ出て来るのではなく、聖書の至るところに、いや、聖書を一貫して出てくる思想なのである。報いという思想は、聖書において基調をなしている。聖書の中には、報いを求める心は卑しいとか、報いを求めず、犠牲と奉仕をするようにとは教えられていない。

報いを求める心は自然なのである。決して卑しい心ではない。それを卑しいと考えるのは、私たち日本人の精神的土壌がそうさせるのだと思う。私たちのものの考え方の中には、儒教的な禁欲主義が入ってきていて、いつしかこのような考え方を形成していた。

報いを求めずに何かをすることは、純粋であり、美しいように見える。しかし、それは不可能なことだ。報いを求めないとすれば、人間は一体どんな動機で行動できるだろうか。人間が罪に陥って以来、自己中心主義(エゴティズム)は、利己主義(エゴイズム)と密接に結びついてしまった。そのため、自己中心主義が罪だと思っている人が案外多い。自分のために報いを求める心が必ずしも卑しいわけではない。ほかの人などどうでもよいと考える利己主義が問題なのである。

2007年9月19日水曜日

実存的問題-エゴイズム 3/4

聖書では、「罪」のことを「的外れ」と呼んでいる。それは、神が私たち人間をお造りになった時、このような生き方をするようにとお決めになった道、つまりそのように生きれば本当の幸福が与えられ、命の充足を得ることができる道から外れてしまい、いくら努力しても、そのような目標に到達できないような生き方のことである。エゴイストのことを、そういう意味で、「的外れの人」つまり「罪人」と呼ぶのである。

有島武郎は、「惜しみなく愛は奪う」を書いた。その中で彼は次のように言っている。
「私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを付することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。而して交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから、更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己の中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明らかに己れの一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。而して己れをのみだ。」

これは、彼の43才の時に書かれたものである。彼のこれほどまでに徹底した自己本位の生き方は、彼の人生に真に充実した意味を与えてくれただろうか。いや、彼はついに虚無の世界に転落していかなければならなかった。

エゴイズムの罪は、神の定めておられる人間の人間としての道から外れているので、ついに目標に到達することはできない。破滅である。人間はそういう破滅性を持った罪人なのである。これは、自分の力ではどうしようもなく、自分の力でそれから抜け出すことはできない。それが破滅性ということなのである。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とは、そのことを言っている。

そういう罪人を救うために、神は御子イエス・キリストが天から降りて来られたのである(1テモテ1:15)

2007年9月15日土曜日

クリスチャンとは

クリスチャンと言うと、すぐ「酒を飲まない人」、「タバコを吸わない人」と考える人がいる。また「人格的に立派な人」、「右の頬を打たれたら、必ず左の頬を出す人」など、様々のイメージがクリスチャンについて描かれる。これらは、クリスチャンについての断片的な知識に基づいたイメージではあっても、本質的なことを言い当てているわけではない。

クリスチャンであることを決定する時、その人がどういうことをしているかということよりも、その人がどういう人であるかという事実の方が重要である。人格的に立派であると言っても、実は人格的に立派に見える行動をしているということであって、決して内面的な事実を指しているわけではない。

そこで、クリスチャンとは、どういう内面的な事実を持っている人であるかということについて考えてみよう。聖書では、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きた人であると教えている(コロサイ2:20)。それでは、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きるとはどういうことなのだろうか。クリスチャンというのは、信仰によってキリストに結び付けられた人のことである。キリストは私たちの罪を背負って十字架上で死なれた。私たちが信仰によってキリストに結び付けられると、私たちの古い人は、キリストと共に十字架上で死んでしまった。また、キリストは死人の中から復活されたから、私たちが信仰によってキリストに結び付けられると、キリストと共に新しい命が与えられる。

この「古い人」とか「新しい人」というのを少し説明しておこう。聖書が「古い人」と言っている場合、それは、生まれながらの古い人間性のことで、自己中心的なエゴイスムがその特徴である。すべての人は、生まれながらにしてこの「古い人」に生きている。これがすべての問題のもとになる。それに対して、キリストは死人の中から復活された。だから、キリストに結び付けられた私たちは、キリストと共に「新しい命」に生きることができる。だから、クリスチャンとは、皆この新しい人として生れ変った人のことである。

水のバプテスマを受けた人がクリスチャンなのではなく、新生した人がクリスチャンなのである。その人が水のバプテスマを受けることによって、個々の教会の一員になるのである。

2007年9月11日火曜日

実存的問題-エゴイズム 2/4

私たちは、自分がいかにエゴイストであるかということをよく知っている。エゴイストは、いつも「自分さえよければ」という考え方をその底に秘めている。

芥川龍之介は、学生時代に、彼の親友恒藤恭にあてて一通の手紙を書いている。彼はその手紙の中で、エゴイズムと言わず、イゴイズムという言い方をしている。
「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのままに生きる事を強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑う(僕自身にも)。僕は時々やりきれないと思う事がある。何故、こんなにしてまでも生存をつづける必要があるのだろうかと思う事がある。そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失う事だと思う事がある。僕はどうすればいいのだか分らない。君はおちついているかもしれない。そして僕の言う事を浅薄な誇張だと思うかもしれない。(そう思われても仕方がないが)。しかし僕にはこのまま回避せずにすすむべく強いるものがある。そのものは僕に周囲とのすべての醜さを見よと命ずる。僕は勿論滅びる事を恐れる。しかも僕は滅びるという予感をもちながらも此のものの声に耳をかたむけずにはいられない。」

私たちがこうした芥川の言葉に、恐れと共に共感を覚えるのは、彼が自分自身の偽らざる姿をここに語っているからではないだろうか。私たちにとって、この悩みは、自分の両親であろうと、友だちであろうと、ほかのだれかであろうと、そのひとがエゴイストであるということの悩みなのではなく、この自分が徹底的にエゴイストなのだというところにある。エゴイズムこそ、私たちの心の深みにおける悩みなのではないだろうか。

「自分さえよければ」というこのエゴイズムこそ、私たち人間のありのままの姿ではないだろうか。これを、聖書では罪と呼ぶのである。私たち人間が何故破局性を持っているのかと言うと、この罪を持っているからである。このことの解決がなければ、真に人間として生きていくことはできないのである。

2007年9月8日土曜日

救いとは何か 2/2

人間の良心は、罪を犯し続けることのよって鈍感になっていってしまう。だから、ある人が罪を感じることも、別の人は罪を感じないこともありうるわけで、良心は必ずしも絶対的な基準とはなりえない。それならば、どこかに絶対的な基準があるはずなのだが、神が持っておられる物差こそ、その基準となるべきものである。その物差とは聖書のことであり、聖書という基準に照らしてみる時、だれ一人として罪を犯していない人はいないのである(ローマ3:10, 12)。

私たちが持っている問題の根源を罪と言うのは、法律上の犯罪と一つの共通点があるからだ。罪というものは、それを犯した人に対して償いを要求する力を持っている。罪人はこの償いを果すまで、この力に支配されている。この力が効力を失うのは、償いが果された時か、罪人が死んでしまった時だけだ。私たちが法律上の犯罪を犯さなくとも良心的呵責を覚えることがあるのは、この力のためだ。

この罪が要求する償いを果さない限り、私たちは自由になれないはずだが、私たちにそれを果すことができるのだろうか。聖書によると、罪を犯した者は死をもって償わなければならないから(ローマ6:23)。自分で償いをしようとすれば、死をもってしなければならず、それでは解決にはならない。そこで、私たちの罪の解決のためには、だれか第三者が身代りに償いをしてくれる以外にはない。

しかし、その人はだれでもよいというわけにはいかない。その人自身罪を持っていない人でなければならない。そんな人がいるのだろうか。たといいたとしても、そのような人が私のような者のために身代りに償いとして自分の命を捨ててくれるということがありうるのだろうか。

けれども、そういうお方がいた。それは、神が人の姿を取ってこの世に来られたお方、イエス・キリストである。イエス・キリストは、この世の中で唯一人罪のないお方だった。そして、私たちのような者の罪を背負って、十字架上で償いの死を遂げてくださった。こうして、私たちの罪の償いが果されて、私たちは罪から自由になることができた(2コリント5:21)。

キリスト教の救いが、他のいかなる宗教の救いとも異なるのは、まさにこの点である。自分の力で善いことができなくなってしまった者を、キリストが救い出してくださるのである。

2007年9月5日水曜日

実存的問題-エゴイズム 1/4

エゴイズムとエゴティズムとは違う。この両者を同じものだと思っている人が案外多い。エゴイズムというのは利己主義で、エゴティズムというのは自己中心主義である。この両者がどのように違うのかということについて少しばかり説明する必要があろう。

たとえば、人間はだれでも自分というものを持っている。自分がなくなったら、もはや生きていくことはできない。これは、いわば自己中心ということである。私たちがそう簡単に死ねないのも、この自分というものがあるからだ。また主体性ということは、このことに関係のあることで、自分というものがしっかりと確立していることを指している。だから、自己中心そのものを悪であると考えるのは早計であって、悪いのは、自分さえよければそれでよいと考えるエゴイズムなのである。

人間はだれでも自分の幸福を求める。そのこと自体決して悪なのではなく、このような幸福追求は、自己中心ということから起って来る。ところが、自分さえ幸せであれば、たといほかの人が不幸であっても構わないと考えたり、ほかの人の不幸の上に自分の幸福を築き上げようとするに至っては、これは明らかに悪であって、それこそエゴイズムの正体であると言ってよいだろう。

近代における人間性の探求は、人間をほかの人から孤立した人間として探求してきたところにある。自分をほかの人から切り離して、自分を自分たらしめる「自我」という抽象的な原理をそこに見出し、その自我を無限に追求し、発展していくところに自分の幸福があるというふうに考えてきた。このような考え方は、結局のところ「自我」を絶対化してしまうことになり、ほかの人との間に心と心が通い合う交わりを生み出すことができず、孤独のどん底に自分を追いやる結果になってしまった。近代における自我の自覚から始まった自我追求が、今日一人一人に孤独を与える結果に終ったことは自然のことであると思う。 

自己中心がやがて破滅してしまうのはなぜかと言うと、自己中心は、いつもそれにエゴイズムが深くからまっているからなのである。もちろん、自我を絶対化することには決して問題なしとはしないが、それでも自己中心それ自体が全く否定される理由はない。しかし、エゴイズムというものとは別個に、自己中心が存在することができるのだろうか。ここに私たちの現実の問題があるわけである。

2007年9月1日土曜日

救いとは何か 1/2

キリスト教では、よく「救い」と言うが、これは何を意味しているのであろうか。一般的にこの言葉が使われる場合は、何か助けを必要としている人に助けの手を伸し、助けてあげることを意味する。溺れかかっている人を助け出したり、病気の人を治したり、落第しそうな人を進級させたりする時に使う。

「救い」という言葉の宗教的意味は、もう少し人間の内面的なことに関わるもので、キリスト教だけでなく、仏教やその他の宗教でも使っている。しかし、聖書が使っている使い方と、ほかの宗教の使い方とでは全然違う。たとえば、仏教などで、「悟りの境地に入る」とか、「安心立命の境地に入る」というものと、キリスト教の「救い」とは同じではない。

一般的に言って、ほかの宗教が「救い」と言う場合、現在、不幸とか悲惨と考えられているものからの救出を意味するのがほとんどだ。たとえば、病気にかかった人や、貧乏な人は、そういうものから救い出されたいという願いが極めて強く、そのため、そういう病気や貧乏から逃れることができれば、問題は解決すると思いやすいわけで、こういう現世的ご利益を「救い」と教えている宗教が沢山ある。もちろん、病気や貧乏の問題がどうでもよいと言っているのではない。こういう問題の解決も大切であり、必要だ。しかし、こうしたことさえ解決すれば、人間の問題は解決してしまうのでないこともまた事実である。

聖書が教えている「救い」というのは、それらの根源を問題にし、その解決をはかろうとするものである。病気や貧乏といった今の生活上の悩み、苦しみは、どこかに本当の原因があるわけで、それを問題にしないかぎり、本当の解決にはならない。その根源にある「罪」を問題にしなければならないのである。

病気や貧乏という問題は、人類に罪が入って来なければ決して起らなかったし、病気や貧乏が悩み、苦しみであるのも、人間の心に罪が入って来たからである。

「罪」とは、法律で言う犯罪のことではない。法律で言う犯罪を犯していない人は沢山いる。しかし、少しでも良心的に敏感な人であれば、たとい法律で言う犯罪を犯してはいなくても、良心の呵責を感じることによって、道徳的罪について知ることはできるだろうと思う。隠れた心の中で、罪を感じることはできるはずだ。これを無視しては、本当の救いはありえないのである。