2009年10月24日土曜日

野の花を見よ

野の花がどのようにして育つのか、考えてみなさい。働きもしないし、自分のために服を作りもしません。...今日は咲いていても、明日は炉に投げ込まれてしまう野の草でさえ、神様はこれほど美しい装いをお与えになっておられるのですから、まして、人間であるあなたがたに、それ以上のことをしてくださらないわけがあるでしょうか。ああ、なんと小さな信仰なのか。(マタイ6:28-30)


生活問題はなかなか厳しい問題である。生きていくことは、決して生やさしいことではない。この世の中に生きている人は、皆このことをよく知っている。それだけに、生活問題・経済問題には、誰でも頭を悩まさないわけにはいかない。どうしたら食べていくだけの収入を得ることができるだろうかと悩むわけである。

しかしながら、本当はそういうことは問題というほどのものではない。野に咲いている花を見たらよい。野に咲いている花は、立派に育ち、花を咲かせているではないか。野の草一本にしたところで、実に念の入った装いをしている。あの野に育つ草や花にさえ、あのような念の入った装いをさせておられる神が、私たち人間をお忘れになるはずがない。神のことを忘れて、自分の生活のことだけを眺め、くよくよしているからこそ、心はいつでも落着きがないのである。心配事や取り越し苦労は、何の益にもならない。益にならないどころか、こんなことで気をもんでいる人は、いつでも二重の苦しみを味わっていることを知らないのである。苦しみがくる前に一度苦しみ、本当に苦しみがやってくる時にもう一度苦しむわけだから、こういうことをやっている人は、結局のところ生活疲れをしてしまうのがオチである。

それでは、どうしたらよいかと言うと、一番よい方法は、この自然界をお造りになり、支配しておられる神がおられるのだということに気が付くことである。そうすると、私たちが平面的に考えて自分の生活苦に悩んでいたところから、一段と高いところに立って、すべてのことを考えることができるようになるのである。これが信仰なのである。だから、信仰に立つ時、私たちの生活問題は何なく解決するのである。

2009年8月23日日曜日

解放の福音

ああ、なんと幸いなことだろう、自分の罪を赦され、覆い消された人々。(詩篇32篇1節)

夜、夢の中で誰かに追いかけられて、早く走ることができず、足がすくんでしまったというような恐ろしい夢を見たことはないだろうか。夢の中だけでなく、誰かがこわくて仕方がないという経験をしたことはないだろうか。ところで、こうしたこととも関係があるのだが、心の中で何かに締めつけられて苦しんだというような経験をしたことはないだろうか。つまり、誰かに隠して持っていた罪のためとか、誰にも言うことのできない心の中の秘密のために、人知れず苦しむというようなことである。

おそらく、こうしたことは、誰にでもあることではないだろうかと思う。もしもそのことを正直にしゃべってしまうと、今までの信用が台なしになってしまうとか、自分の顔が丸潰れになってしまうと思って、なかなか人に話すことができない秘密を持っているわけである。ところが、誰にも話さずに自分の心の奥深くに仕舞っておくと、どういうことになるかと言うと、自分をじわじわと苦しめてくるのだ。それでは、このことの解決はどこにあるのだろうか。

結局は、自分を苦しめている秘密であるとか、罪などが解決されない限り、決して解決することはできない。心の中に秘密の部屋がある限り、私たちの心はこの秘密の暗闇の部屋のために苦しめられ続けることになる。

それでは、どうしたら解決になるのかと言うと、この秘密の真暗闇の部屋に中に光が入らなければならない。そのためには、その秘密の部屋の扉が開かれなければならない。今までほかの人に隠していたこと、それゆえに秘密の部屋を形造っていたもろもろの秘密を真の光である神の御前にさらけ出さなければならないのだ。人の前にさらけ出す時には、かえって困難な問題を引き起すことにもなりかねないが、神の御前にさらけ出すなら、私たちの心の重荷はすっかり取れて、心の束縛から解放されるようになる。神がそれをしてくださるのだ。それをする時にも、人の助けなど必要とはしない。人の助けを求めると、かえって共依存という問題を残しかねないからである。

2009年8月9日日曜日

神が味方なら

神が私たちの味方である以上、私たちに敵対できる者などあるはずがない。(ローマ8:31)

毎日の生活が余りにあわただしく、仕事や勉強のことで忙殺されている私たちにとって、いつも人生が戦場であることを知っている。私たちは、この人生の戦場において、身を処していかなければならないのである。その時、神が私たちの味方であるかどうかということは、最も根本的な、しかも大問題なのである。

敵の頭数や財源を問題にすることほど愚かで無益なことはない。というのは、神は人数の多さや権力の有無によって味方になるかどうかを決めるのではないからだ。確実なことは、正義の側に立っておられるということである。

そういうことになると、私たちが考えてみなければならないことは、私たちの仕事や勉強の目的・動機は一体どこにあるのかということである。神なのか、それとも自分自身なのかということである。私たちは、神が自分の側におられるのかどうかということが、いつも最も大きな関心事でなければならないはずである。神が自分の側にいてくださるということは、私たちがいつも神の側に立っているということであるはずだ。神はいつも神に従う人の側に立っておられるのである。

私たちはだれでも皆、実際は小心者なのである。自分の身分や資格や才能が気になったり、自分よりもほかの人の方が優れているように見えたりして、いつも不安で仕方がないのである。けれども、そのようにほかの人と比較したりしている世界など、本当の力や安心の土台などありはしないのだ。神が私たちの側にいらっしゃるかどうかということが一番重要な点なのである。神が私たちの味方であるなら、それこそ敵しうる者など何もないのである。

だから、私たちの関心事は、神にいつも従うにはどうしたらよいかということである。神に従うとは、神の御心に従うということで示されている。だから、聖書をよく読み、ただ読みっぱなしではなく、それを実行することが大切である。御言葉に従い、御言葉に生きる時、私たちは神が私たちの側におられることを体験することができる。

2009年7月26日日曜日

知恵を求める人

ああ、なんと幸いなことだろう、
知恵を見いだし、英知を得る人。
その道は楽しく、皆、平安である。(箴言3:13-17)

多くの人は快楽を求めている。快楽というような言い方をすると、自分はそんなものを求めてはいないと言う人もいるかもしれないが、結局自分が楽しいこと、面白いこと、嬉しいことを求めていることに相違はない。ことに日本人はよく働く代りによく遊ぶようでもある。温泉場などはいつも満員だし、夏は海水浴に、冬はスキーにと、沢山の人々が繰り出して行く、こんなにも多くの人がいるのかと思われるほどの盛況ぶりだ。しかし、夏や冬だけでなく、春や秋に出歩く人は、もっと沢山いる。たとい外へ行って遊ばなくても、楽しんだり、喜んだりする娯楽のたぐいは、いつでも多くの人々の興味の対象となっている。

また、ある人々は金儲けに血まなこになり、朝から晩までただ金を儲けるということのために、自分のエネルギーを使っている人さえいる。最近では金儲けを餌にして人をだます者たちがあとを断たず、その手に乗って、虎の子をなくしてしまった人も少なからずいる有様である。

しかし、本当に喜ぶべき道、楽しい道というのは、こういう欲望を満たさせる道とはまた別の道なのだ。もちろん、自分のやりたいことをすること、お金を沢山得ることは、面白いことであるには相違ないだろう。しかしながら、そういうものは、目的を達成したあかつきには、むなしさだけが残るのである。つまり、こういうものによっては、私たちの心まで満たすことはできないのである。私たちの心を本当に満たすものは、もっと別のものであり、それは知恵であり、英知である。これは知識とは違う。多くの知識を得ても、それで私たちの心は決して満足はしない。この知恵とか英知というものは、私たちの心が本当に満足することのできるものである。それは、具体的には何を指しているのだろうか。それは、何かの原理とか法則というようなものではない。私たちの心が本当に満足するのは、人格によってである。私たちの心を楽しませてくれる人格とは、それは神ご自身にほかならない。

2009年7月8日水曜日

見たこと聞いたこと

私たちは、自分が見たこと聞いたことを語らないわけにはいきません。(初代教会4:20)
この世の中では、その価値という点からすれば、大したことではないのに、宣伝文句につられて、あたかもその内容がすばらしいものであるかのように思われるものがいくらもある。つまり、見かけ倒しと言われるものがそれである。

また選挙運動の場合でも、必ずしも心からその人に傾倒しているわけでもないのに、アルバイトの謝礼を沢山もらっているために、あたかも自分が推薦できる人は、世界中にこの人しかいないとでも言うような宣伝をし、応援している人もいないわけではない。つまり、自分で自分を偽っているのである。

しかしながら、私たちは、自分の良心を偽り通すことはできない。どんなに沢山のお金をもらって、一時的には自分を偽ることができたとしても、それを通し続けることはできない。つまり、私たちの良心は、正しいことに対しては正しいという反応を示し、誤っていることに対しては誤っているという反応を示すからである。というのは、良心という英語conscienceは、conとscionというラテン語から来ており、それは「共に知る」という意味である。誰が共に知っているのかと言うと、神が共に知っておられるのである。ところで、私たちは自分の弱さから、正しいと思っていることを、あらゆる事情に抗しても主張することができないのだ。そういう時、私たちは誰でも多かれ少なかれ悩むものだ。

私たちは見もしないことを見たとか、聞きもしないことを聞いたというふうに、良心は決して思わないのだが、自分の弱さのために、良心の認めているままにこれを表すことができないことがある。しかし、もしも私たちが真に正しいことを正しいと主張し、真に誤っていることを誤っていると主張できたら、どんなにすばらしいことか。私たちがある一つの経験をすると、私たちは、このように主張できる勇気の人となることができる。それは、イエス・キリストとお会いすることだ。そうする時、私たちは、主イエス・キリストにお会いしたという事実を語れるだけでなく、正しいことを正しいと語り、誤っていることを誤っていると語ることのできる人になれる。

2009年6月28日日曜日

自分の知識

心から主に信頼しなさい。
自分の英知に頼ってはならない。
何をする時にも、主を認めなさい。
そうすれば、主はあなたの道を真直にされる。(箴言3章5-6節)


自分の知識がいかに頼りないものであるかということは、だれでもよく知っている。何か重大な決断をしなければならなくなった時、その決断にずいぶん時間がかかったことはないだろうか。ああでもない、こうでもないと、考えれば考えるほど多くの道が見えてきて、ついには決断が下せなかったという経験をしたことはなかったろうか。それは、自分の意思が弱かったということよりも、決断を下す材料に乏しかったからではないだろうか。つまり、自分の持っている知識というものが、いかに不十分極まりないものであるかということの証拠なのである。

私たちが持っている知識というものは、結構不十分なもので、それでも毎日の生活にはそれほど事欠くわけではない。しかし、いざ何か大切なことを決定するということになると、その不十分で不確かなことが暴露されてしまうことになるわけである。そんな不十分で不確かな知識しか持ち合わせていないのに、そんな自分に頼るなんてことは、実に愚かなことであると言わなければならないだろう。

そう言うと、自分以外の誰に頼ったらよいのかという質問が出されてくるだろう。自分の問題を解決するのに、自分以外の者で頼れる人など本当にいるのだろうかという疑問を抱いたとしても不思議ではないかもしれない。しかし、頼れるお方がいるのである。それは人ではなく、すべてのことを完全によく知っているお方、それは神である。私たちがなかなか決断を下せなかったのは、知識が不十分であっただけでなく、利己的な自分がその不十分な知識に基づいて、いかに自分に有利な決断を下せるかと考えるからである。しかし、もっとすばらしい方法は、利己的な自分ではなく、最も正しいお方である神によって決断を下すことなのである。そうすれば、なんのためらいもなく、道を選ぶことができるし、その道はいつでも正しい道であるから、安心して歩いていくことができるのである。

2009年5月20日水曜日

永遠の視点で物を見ると

クリスチャンになって六十三年、牧師になって五十六年。あっという間に過ぎてしまったような感じがする。私たちが信じているキリスト教信仰は、永遠の視点からものを見るようにするので、たとい五十年でも百年でも、そんなものは一瞬の出来事に過ぎないのである。永遠の視点からものを見るようになると、物事が一変した。価値観も変り、悩んでいたことも悩む必要がなくなった。

クリスチャンになる前は、他人のことが気になって仕方がなかったものだ。他人と自分とを比較して、一喜一憂した。ほかの人がうまくいっているのを見ると、心の中にねたみ心が湧き上がって来るのをどうしようもなかった。これは、クリスチャンになってしばらくの間はそれがなくなったが、しばらくすると、また同じような考えが湧いてきた。牧師になっても、一緒に神学校を卒業した友人と、やはり比較した。それが、いつのころからか、そういうことをしなくなった。後輩であった人が伝道、牧会で良い働きをしているのを知っても、それを心から喜ぶことができるようになった。なぜ私がそのように変っていったかと言うと、その人々も決して競争相手ではなく、同労者であるということが分ったからである。それぞれの人に神が与えていてくださる賜物があって、それぞれその賜物を用いて、神の働き場で活躍しているわけだから、喜ぶのが当然だと思うようになったのである。競争相手と考えていた時には、やはり視点は自分の所にあって、自分中心に物事を見ていたのだが、神からの視点でものを見るようになると、自ずと見方、考え方が変っていった。主がそうさせてくださるのである。

永遠の神の視点からものを見るようになると、本当に楽になった。力む必要など毛頭ないし、背伸びする必要もない。自分の力以上のことをしようとして、あくせくすることもない。そういうふうになると、ストレスも減ってきた。毎日が楽しくて仕方がない。

永遠の視点でものを見るようになると、対人関係もうまくいくようになり、どんなことがあっても、あわてないで済むようになる。御言葉に教えられていることが素直に自分のものとして実行でき、他の人を無闇やたらに批判することも少なくなった。いつも感謝と喜びに溢れ、賛美に日を過すようになっていった。すべてハレルヤである。