2009年7月8日

見たこと聞いたこと

私たちは、自分が見たこと聞いたことを語らないわけにはいきません。(初代教会4:20)
この世の中では、その価値という点からすれば、大したことではないのに、宣伝文句につられて、あたかもその内容がすばらしいものであるかのように思われるものがいくらもある。つまり、見かけ倒しと言われるものがそれである。

また選挙運動の場合でも、必ずしも心からその人に傾倒しているわけでもないのに、アルバイトの謝礼を沢山もらっているために、あたかも自分が推薦できる人は、世界中にこの人しかいないとでも言うような宣伝をし、応援している人もいないわけではない。つまり、自分で自分を偽っているのである。

しかしながら、私たちは、自分の良心を偽り通すことはできない。どんなに沢山のお金をもらって、一時的には自分を偽ることができたとしても、それを通し続けることはできない。つまり、私たちの良心は、正しいことに対しては正しいという反応を示し、誤っていることに対しては誤っているという反応を示すからである。というのは、良心という英語conscienceは、conとscionというラテン語から来ており、それは「共に知る」という意味である。誰が共に知っているのかと言うと、神が共に知っておられるのである。ところで、私たちは自分の弱さから、正しいと思っていることを、あらゆる事情に抗しても主張することができないのだ。そういう時、私たちは誰でも多かれ少なかれ悩むものだ。

私たちは見もしないことを見たとか、聞きもしないことを聞いたというふうに、良心は決して思わないのだが、自分の弱さのために、良心の認めているままにこれを表すことができないことがある。しかし、もしも私たちが真に正しいことを正しいと主張し、真に誤っていることを誤っていると主張できたら、どんなにすばらしいことか。私たちがある一つの経験をすると、私たちは、このように主張できる勇気の人となることができる。それは、イエス・キリストとお会いすることだ。そうする時、私たちは、主イエス・キリストにお会いしたという事実を語れるだけでなく、正しいことを正しいと語り、誤っていることを誤っていると語ることのできる人になれる。

2009年6月28日

自分の知識

心から主に信頼しなさい。
自分の英知に頼ってはならない。
何をする時にも、主を認めなさい。
そうすれば、主はあなたの道を真直にされる。(箴言3章5-6節)


自分の知識がいかに頼りないものであるかということは、だれでもよく知っている。何か重大な決断をしなければならなくなった時、その決断にずいぶん時間がかかったことはないだろうか。ああでもない、こうでもないと、考えれば考えるほど多くの道が見えてきて、ついには決断が下せなかったという経験をしたことはなかったろうか。それは、自分の意思が弱かったということよりも、決断を下す材料に乏しかったからではないだろうか。つまり、自分の持っている知識というものが、いかに不十分極まりないものであるかということの証拠なのである。

私たちが持っている知識というものは、結構不十分なもので、それでも毎日の生活にはそれほど事欠くわけではない。しかし、いざ何か大切なことを決定するということになると、その不十分で不確かなことが暴露されてしまうことになるわけである。そんな不十分で不確かな知識しか持ち合わせていないのに、そんな自分に頼るなんてことは、実に愚かなことであると言わなければならないだろう。

そう言うと、自分以外の誰に頼ったらよいのかという質問が出されてくるだろう。自分の問題を解決するのに、自分以外の者で頼れる人など本当にいるのだろうかという疑問を抱いたとしても不思議ではないかもしれない。しかし、頼れるお方がいるのである。それは人ではなく、すべてのことを完全によく知っているお方、それは神である。私たちがなかなか決断を下せなかったのは、知識が不十分であっただけでなく、利己的な自分がその不十分な知識に基づいて、いかに自分に有利な決断を下せるかと考えるからである。しかし、もっとすばらしい方法は、利己的な自分ではなく、最も正しいお方である神によって決断を下すことなのである。そうすれば、なんのためらいもなく、道を選ぶことができるし、その道はいつでも正しい道であるから、安心して歩いていくことができるのである。

2009年5月20日

永遠の視点で物を見ると

クリスチャンになって六十三年、牧師になって五十六年。あっという間に過ぎてしまったような感じがする。私たちが信じているキリスト教信仰は、永遠の視点からものを見るようにするので、たとい五十年でも百年でも、そんなものは一瞬の出来事に過ぎないのである。永遠の視点からものを見るようになると、物事が一変した。価値観も変り、悩んでいたことも悩む必要がなくなった。

クリスチャンになる前は、他人のことが気になって仕方がなかったものだ。他人と自分とを比較して、一喜一憂した。ほかの人がうまくいっているのを見ると、心の中にねたみ心が湧き上がって来るのをどうしようもなかった。これは、クリスチャンになってしばらくの間はそれがなくなったが、しばらくすると、また同じような考えが湧いてきた。牧師になっても、一緒に神学校を卒業した友人と、やはり比較した。それが、いつのころからか、そういうことをしなくなった。後輩であった人が伝道、牧会で良い働きをしているのを知っても、それを心から喜ぶことができるようになった。なぜ私がそのように変っていったかと言うと、その人々も決して競争相手ではなく、同労者であるということが分ったからである。それぞれの人に神が与えていてくださる賜物があって、それぞれその賜物を用いて、神の働き場で活躍しているわけだから、喜ぶのが当然だと思うようになったのである。競争相手と考えていた時には、やはり視点は自分の所にあって、自分中心に物事を見ていたのだが、神からの視点でものを見るようになると、自ずと見方、考え方が変っていった。主がそうさせてくださるのである。

永遠の神の視点からものを見るようになると、本当に楽になった。力む必要など毛頭ないし、背伸びする必要もない。自分の力以上のことをしようとして、あくせくすることもない。そういうふうになると、ストレスも減ってきた。毎日が楽しくて仕方がない。

永遠の視点でものを見るようになると、対人関係もうまくいくようになり、どんなことがあっても、あわてないで済むようになる。御言葉に教えられていることが素直に自分のものとして実行でき、他の人を無闇やたらに批判することも少なくなった。いつも感謝と喜びに溢れ、賛美に日を過すようになっていった。すべてハレルヤである。

2009年4月21日

もの書きになって

昔、私は書くことがにが手だった。それは私のにが手な科目の一つが作文であったことにも表れている。なぜ作文がにが手であったのかと言うと、本を読むのが余り好きでなかったことによる。本を読むよりも、ものを考えたり、作ったりすることが好きだった。そんな私が、今では百五十冊もの本を書くようになったのは、不思議と言えば不思議と言うほかはない。

もう一つのにが手のものがあって、それは、皆の前で話をすることであった。こちらの方は、キリスト教信仰を持つと、すぐ直った。皆の前で入信の話をするようにと言われ、三百人ぐらいいる人々の前で話をした時、それまでは多くの人々の前に立つと、頭の中が真白になってしまったのに、その日から私は落ち着いて、皆の前で話をすることができるようになった。

しかし、ものを書く方は一向に変りばえがしない。ものを書くという場合、二つのことがどうしても必要になってくる。何を人に伝えたいのかというものを持っているということがどうしても必要になってくる。そして、もう一つは、それをどのように伝えるかという問題である。こちらの方は、どちらかと言うと、日本語の技術の問題である。技術とは言っても、もっと具体的に言うと、伝えたいメッセージを、いかに相手に正しく伝えるかということで、つまりは、正しくて美しい日本語で表現するということに尽きる。私もそうであったが、文章の下手な人は、用語が貧弱なのである。物事を強調する場合、「非常に」以外にもいろいろな表現があるのに、そういう用語を使う努力をしようとしない。「今日は非常に暑く、スケジュールが非常にこんでいたので、非常に疲れた」という表現の「非常に」という部分をほかの言葉に変る工夫をしてみる。「今日はとても暑く、スケジュールはかなりこんでいたので、えらく疲れた」と言えば、同じことを相手に伝えることができる。

よい文章を見て、まねをすることだ。お習字を見れば分る。上手なお手本を見て、まねをする。それと同じように、良い文章をよく読み、その中のいい部分を自分の文章に取り入れてみることだ。

主が私に与えてくださった良いものを、何とかしてほかの人にも伝え、ほかの人に仕えていきたい。私がものを書いているのは、それが目的のほとんどである。

2009年4月13日

大きな試練に遭ったら感謝

人生にはいろいろなことが起って来る。患難、試練もしばしばある。そういうことが起って来た時、昔の私だったら、「何で自分だけがこんな大きな試練を受けなければならないのか」と言って呟いたものだ。クリスチャンになっても、しばらくの間は、そんな考え方をしていた。

ところが、ある時、次の御言葉と出会い、私の考え方は根底からくつがえされてしまった。
「あなたがたが今までに遭った試練は、だれにも襲って来るもので、特別なものではない。神は約束されたことを必ず果たしてくださる真実な方である。だから、約束通り、あなたがたが耐えられないような、厳しい試練に遭わせないばかりか、かえって耐えられるように逃れの道も備えてくださるのである。」(1コリント10:13)

私が耐えられないような、厳しい試練には、神が遭わせられないのだということを知ったからである。

母親が赤ん坊をお湯に入れる時、母親は赤ん坊にとって熱すぎもせず、冷たすぎもしない、ちょうどいい湯かげんを見極めてからでないと、赤ん坊をお湯に入れることはしない。

それと同じように、いや、それ以上に、神は私たちの霊的状態をご覧になっていて、これくらいなら大丈夫という試練の度合いを見極めてからでないと、私たちを試練の中に投じることをなさらないのである。

そのことが分った時、大きな試練に当面しても、神が私をそれだけ大きく評価していてくださるのだということが分り、感謝するようになった。だから、そういうことが起ってきた時、不平、不満を言うのは、全くお門違いなのである。ただこの際、覚えておかなければならないことは、神が大きな試練をお与えになった時、自分がこれほど大きな器に評価されているのだと思って、慢心してはならないことである。そんなことをしたら、たちまちにして足をすくわれて、倒れてしまうことだろう。

御言葉によって、私の人生は変ってきた。御言葉が私の人生の人格形成をしてくださったということがよく分る。私は弱虫であり、肉体ばかりでなく意志も弱い人間だった。どんな時でも不平、不満ではなく、感謝できるようなものに変えてくださったのは、神の言葉である聖書である。

2009年4月1日

自分に対してひどいことをした人を赦すことができるようになった

クリスチャンになる前の私は、自分に対してひどいことをした場合、決して赦すことなどできず、いつまでもその人に対して恨みを抱き続けていた。嫌な奴は、徹底的に嫌であった。そんな奴とは金輪際付き合うもんかと思ったものだ。

しかし、キリストと出会い、キリストを信じるようになると、キリストの御言葉を実行することに喜びを感じるようになった。初めのうちは、キリストが「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:37)と教えておられる御言葉に出会っても、「それが出来たらいいだろうなあ」とか、それを目標として信仰生活を送って行けばそれでよいのだなどと考えてて、その御言葉をそれほど重く感じてはいなかった。

しかし、よく見てみると、この御言葉はキリストの命令であって、決して願望などではない。これは実行しなければならないのである。そうは言っても、そう簡単に実行できることではない。そこで、私はそれが実行できるように祈った。それを実行することは、そう簡単なことではないので、私は必死になって主の御前に出て、主の力を祈り求めた。

ある時、こんなことがあった。冬の寒い晩のことなのだが、私が床の中に入っていると、電話が掛ってきた。それは、もう十二時を大分過ぎていた。床から出て、電話器を取り上げると、何の応答もない。しばらく耳に当てていると、向うで電話を切る音がした。間違い電話ではなく、明らかに迷惑電話である。そこで、また床の中に入ると、数分してまた電話が鳴った。もしかして、教会員からの緊急電話かもしれないと思って、起き、電話口に出ると、さっきと同じ迷惑電話である。こんなことが二、三回繰り返されると、もう足が冷えて、眠れない。同時に怒りがこみ上げてきた。

次の瞬間、主が私に示してくださったことがあった。この人は、このようなことをして自己満足している気の毒な人だ。主の祝福によって心が満たされれば、もうこのような迷惑電話を掛けてくることもなくなるだろう。そうだと私は思った。そして、次の御言葉を思い出した。「あなたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)

私がその人の祝福を祈った時、電話は掛ってこなくなった。

2009年3月23日

思い煩わなくなった

私は性来、母親譲りの取り越し苦労性だった。つまり気が小さかったと言っていいだろう。いつもくよくよしていた。取り越し苦労というのは、物事が実際に起る前に、それが起ったらどうしようかと思って悩み、それが起るとまた悩むという具合に、いつもほかの人より一回多く悩むのである。時には、それが起って来ないこともあるから、悩まないでもよいものについても悩むことになる。損な性分である。頭では分っているのだが、私はこの取り越し苦労性で悩んでいた。

ところが、私がキリスト教信仰を持つようになると、死の恐れからの解放と同時にやって来たのが、取り越し苦労性からの解放であった。それからと言うもの、ほとんど物事に思い煩うことはなくなった。それは、そういうことについてのあきらめではない。私をキリスト信仰へと導いてくださった全知全能の神、天地万物の造り主にお会いし、このお方を知ったからである。

そして、この神をさらに深く知れば知るほど、大船に乗ったような気持になり、何一つ恐れたり、不安になる必要のないことがよく分るようになった。だから、今では、どんなことが襲って来ても、思い煩うことはなくなった。

それでは、そういう問題が起らなくなったのかと言うと、そうではない。思い煩いそう面倒な問題はなくならないばかりか、以前と同じように起っている。私自身に関するものもないわけではないが、それよりも、私が関係している働きに関するものの方が、むしろ断然多い。次から次へと問題が起って来て、てんてこ舞いしそうなこともないではないが、そうしたことは、天地万物の主である神の所へ持っていって、お任せしてしまうのである。それは、神の言葉である聖書がそう教えているからである。
「神は、あなたがたのことを心配していてくださるから、あなたがたの思い煩いを、すべて神にゆだねてしまいなさい。」(1ペテロ5:7)

「何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるのがよい。そうすれば、私たちの常識を越えた神の平和が、キリスト・イエスによって、あなたがたの心と思いを守ってくださる。」(ピリピ4:6-7)