2008年1月30日水曜日

クリスチャンになってよかった 6/10

クリスチャンになってから変ったことはいくつもあったが、その一つとして怒ることが少なくなったと言うことができる。人間は些細なことで怒る。とかく自分が正当に扱われないと怒るものだ。実は、正当だけではだめで、自分ではそうと分っていても、正当以上に扱われないと不機嫌になる。悲しいかな、私もその点において、決して例外ではなかった。

ところで、それがどうだろう。クリスチャンになってからというもの、怒らなくなった。もちろん、怒ることがいつも悪いわけではない。間違ったことが行われていても、なおニコニコしているとしたら、それは大いに疑問で、それは正義の士とは言えないだろう。義憤は決して間違ってはいないのである。だからと言って、怒ってばかりいる人というのは、正義感からそうしていると言うよりも、とかく心に不満がいつも潜在的に存在していることの方が多い。欲求不満が何かをきっかけとして、怒りという形で爆発するわけである。私も実はそうだった。

しかし、クリスチャンになり、心が満たされるようになると、たとい自分が不利な扱いを受けても、そう腹が立たなくなった。よっぽどのことでない限り、怒らなくてもすむようになった。いくらか大物になったように感じる。

それに嫌なことがあった場合、それを解決する道が与えられたからである。クリスチャンになるまでは、嫌なことがあると、一人で悩み、一人で怒った。しかし、クリスチャンになったら、私の助け主である神を知ったのである。だから、嫌なことがあったら、神のもとに隠れ場を見出し、そこで思いきり、自分の心の中の思いを訴えることができる。これが祈りである。この祈りという逃れ場が与えられてからというもの、そこで自分の心を整理をすることができるようになった。

祈りは、神との会話である。私の助け主である神のみもとに行き、自分の心の中の思いを、ありのまま申し上げるのである。くやしい思いも、悲しい思いも、腹立たしい思いも、そのまま神に訴えるのだ。これを知ってからというもの、私は怒ることが少なくなった。いや、もっと正確に言えば、怒り続けることがなくなった。ひどいことをされた場合、もちろん怒りの思いが湧いては来るのだが、それを神のみもとへ行って、訴えると、神が私の心に語り掛けてくださり、いつしか心に平安が与えられてくる。これはクリスチャンのすばらしい特権であると言うことができる。

2008年1月26日土曜日

人間として生きる7 – エゴイズムのない愛

私たちの人間関係は、どうやらほかの人を自分のための利用価値と考えるところが多いのではないだろうか。利用価値のある人とは仲良くし、利用価値のない人とは疎くなる。こういう人間関係は、利害関係が一致している間はよいのだけれども、それが相反するようになってくると、途端にその関係は途切れてしまう。それは、夫婦の間においても、友人関係においてもそうではないだろうか。

あなたは本当の親友を持っているか。遊び仲間であるとか、仕事仲間といった、いわゆる付き合いという表面的な関係は持っていたとしても、いざという時、本当に頼りとなる友人を持っているだろうか。

夫婦にしても同じことが言える。心の中を本当に打ちあけ合い、慰め、励まし、助け合う間柄だろうか。夫が職場での苦しみを話し、それに妻が相槌を打っているうちはよいのだが、少しでも夫に忠告がましいことを言うと、「うるさい。黙っていろ」と言って、相手を自分の対等の人とは考えず、いつも圧倒しようとする態度に、妻は我慢の限界に達している夫婦が少なからずいることを知っている。妻を召使いぐらいにしか考えていない夫は、妻を便利な使用人ぐらいにしか考えていないのだろう。妻は妻で、夫を月給運搬人ぐらいにしか考えていないとしたら、こういう夫婦は、形の上では夫婦かもしれないが、本当の夫婦ではない。いつかは破綻するのがオチである。

芥川龍之介がまだ一高の学生であった時、友人の恒藤恭にあてた手紙の中で、次のように書いている。「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか、イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑う。」こう書いて、彼は後に自殺しはてた。

確かに、相手を自分にとっての利用価値としてしか見ることのできない考え方は、エゴイズムの愛だろう。そういう愛しか人間は生まれながらにして持っていないことは確かだ。そういう愛では、本来共同体であるはずの家庭も、崩れていってしまう。その問題を、聖書では罪と言うのである。この問題を無視して、人間は決して幸福になることはできない。人間と人間の間に成り立つ関係、それが愛なのである。

2008年1月23日水曜日

クリスチャンになってよかった 5/10

死の問題が解決し、人生の目的・目標が分かれば、当然のこと生きがいのある人生になる。私もクリスチャンになって、本当に生きがいのある人生に変った。もう何も恐れる必要はなくなった。充実した毎日に変えられた。

クリスチャンになる前の約20年の人生とその後の60年の人生を比べたら、初めの人生はむなしい歩みをしていた人生のような気がしてならない。聖歌の中にある次の歌が、今の私の気持ちをよく表しているように思えてならない。
神なく望みなく、さ迷いしわれも、
救われて、主をほむる身とはせられたり。
われ知る、かつては盲目(めしい)なりしが、
目明きとなり、神をほむ今はかくも。
(聖歌(続)463)

ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中で、「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました」と言っているが、正に今の私の気持ちを代弁してくれているという思いがする。クリスチャンになるということは、クリスチャンという変った人間になることなのではなく、正常な人間、本当の人間になることである。クリスチャンになるまでの人は、罪のために歪んでいる。そのことすら分っていないのである。悪魔がその人の心の目を覆い隠しているからである。罪人とはエゴイストのことだと以前書いたが、エゴイストの人間が健全な姿でないことぐらいは、だれでも分るはずだ。

私はクリスチャンになって、本当によかったと思っている。自分の弱さを知り、自分がいかに傲慢な人間であるかということも分った。ほかの人といつも比較をし、ほかの人が少しでも自分より劣っていると思うと、すぐ優越感を抱き、ほかの人が少しでも自分より優れていると思うと、すぐ劣等感を抱いていたものだ。そういうところからも解放され、毎日の生活が充実している。クリスチャンになったことを一度も後悔したことはない。それどころか、ほかのすべての人もクリスチャンになってほしいと思っている。

充実した毎日を送ることも本当にすばらしいことだが、いつこの世の人生が終っても、天国へ行くことができるから、少しも不安はない。天国へは罪を持ったまま入ることはできない。天国へ入れるのは、キリストによって罪を赦された人だけである。だから、罪赦されて、クリスチャンになったということは、大きな特権なのである。

2008年1月19日土曜日

人間として生きる6 - 利益社会と共同社会

われわれが生きている社会は、人間関係という点で見てみると、二種類の社会があるということがわかる。その一つは利益社会であり、もう一つは共同社会、ないしは共同体である。利益社会のことをドイツ語ではゲゼルシャフトと言うが、これは、利害関係においてつながっている社会のことで、この世における生活のほとんどはこれである。たとえば、社会を考えてみればよく分るだろう。働く人は、労働力を提供する代りに賃金をもらうのであり、そこにはギブ・アンド・テイクの関係が成り立っている。学校も本来は利益社会ではなく、教育する場なのだが、そこでも学校と生徒の関係は、ギブ・アンド・テイクの関係に他ならない。この世の中のものはすべてそうだと言っても言いすぎではない。

ところで、共同社会とか共同体というのは、言葉の本来の意味からすれば、生を共同に営みうる場であって、利害関係というものは入ってこないものであるはずである。どのようなものがそれにあたるのかと言うと、血と地の関係において生まれてくる。具体的には、家族であるとか、県人会などがそれである。

ところが、こうしたものにまでも、今日では利害関係が入ってきてしまっている。親子の関係も夫婦の関係も、真実な人間同士の交わりではなく、相手は自分にとってどれだけ利用価値があるかとしか考えていない現実を知ると、寒々としたものがある。

なぜそういうことになってしまったのであろうか。人間一人一人が自分中心にしか物事を考えなくなってきているからである。厳密な意味で、自分中心は必ずしも悪ではないが、それが罪によって利己主義になってしまうところに問題がある。罪を持った人間ーそれはエゴイストの人間であるーのいる所、そこは元来、共同体であるはずの所なのに、利益社会になってしまっている。

共同体、それはゲゼルシャフトに対してゲマインシャフトと言うが、それが本当に成り立つためには、一人一人のうちから利己主義によって特徴づけられる罪が取り除かれなければならない。そのことなしに、本当の共同体は生まれない。ドイツの新しいゲマインシャフト運動として起された教会は、もはやキルへ(英語のチャーチにあたる)とは呼ばないで、ゲマインデと呼んでいる。そこにこそ本当の共同体があると言うわけである。それを成り立たせるものは愛である。

2008年1月15日火曜日

クリスチャンになってよかった 4/10

私がクリスチャンになってすぐなくなったのは、死に対する恐れである。人に対する恐れも心配事も、死に対する恐れが解決すれば、すべてなくなってしまうものである。死はすべてのものの中で最大の恐れだからである。それがなくなったということによって、私の人生は全く変ったのである。死に対する恐れがなくなったら、私はそれまでの消極的な人間から積極的な人間に変った。死によって縛られていたものから解放されたのである。

どんなに楽しいことをやっていても、死んでしまえばすべてはおしまいではないかと考えると、それもむなしかった。どんなに立派な業績をあげたとしても、死んでしまえばそれまでのことであると考えると、それもむなしかった。

しかし、死に対する恐れがなくなると、どんなものにも積極的にかかわっていくことができるようになった。クリスチャンになってから私が行った教会の最初の礼拝の後で、牧師先生が教会学校の教師が足りないので、だれか教師になってくれる人はいないかと言われた時、以前の自分であったら、だれか適当な人がいるはずだし、自分なんかはふさわしくないと考えていたのに、その時、私は進んで、「私でよければやります」と申し出でいたのに、自分でも驚いたくらいである。

それだけではなく、終戦直後の大学は、戦時中の空襲でいくつもの建物が壊れてしまっていて教室不足のため、新学期から日曜授業を始めることになるという発表を聞いた時、それに対する反対運動を起したり、それが駄目になると、大学内で日曜日に礼拝をするために、「キリスト者学生会」という団体を作ったりするように私は変身した。そうさせてくださったのは、聖霊の神であった。

私が1946年11月30日の晩、主イエス・キリストが私の罪を背負って、十字架上で身代りに死んでくださったことを信じた時、私の心からは罪責感がなくなると共に、死に対する恐れもなくなっていた。そして、私の心は満たされ、もう天国に入ったのではないかというような思いを抱いた。

すべてのクリスチャンが私のような劇的な回心を経験をするとは限らない。たとい劇的な回心であろうと、そうでなかろうと、本当のクリスチャンになれば、すべては変るのである。
「だれでもキリストを信じるなら、その人の心は全く新しく変えられる。もうそれまでと同じ人生では なく、全く新しい人生が始まったのである。」(2コリント5:17)

2008年1月13日日曜日

人間として生きる5 - 動物と人間の違い

人間が進化論の末、動物から進化したのだと考えている人たちにとって、人間と動物との違いは大したことはなく、相対性の域を出ないだろう。

ところで、人間と動物との違いは何かと言って、ある人は染色体数が違うと答えるかもしれない。確かに人間は動物とでは染色体数は違う。しかし、人間でも男と女とでは違うのだから、これも必ずしも人間と動物との違いを表す基準にはならないはずだ。

私たちは人間はノイローゼになったり、精神的に正常さを欠くのに、犬や猫はほとんどそういう現象を持たない。その一番よい例は、人間の場合、生きることに苦痛を感じて来、ついには自殺してしまうことがしばしば起るが、動物の場合、自殺をするということはまず聞いたことがない。それは、なぜなのであろうか。人間には動物にないものがある。聖書によれば、人間だけが神のかたちに似せて造られているのである。その神のかたちが満たされず、困難が起り、それが余りにひどくなると、自殺や発狂に至るのである。自殺や発狂にまで至らなくとも、今日どれほど多くの人が生きることに希望が持てず、うつ状態の人が多くいることであろうか。これは、人間だけに起る現象である。

今日、中国はすっかり変った。今でも政治体制は一応共産党独裁制ということになっているが、経済界は資本主義体制に移行してしまった。やがてこれも落ち着くところに落ち着くようになるだろうが、中国という大国においては、昔からそれを統一することは難しかった。中国統一が全くなかったわけではないが、それが必ずしも長くは続かなかった。中国の大衆は一つの国として統一されることを皆求めていた。孫文は必ずしも成功しなかった。国民党も失敗した。中国共産党だけが成功した。このことについて、イギリスの作家ドーソンが、次のようなことを言っている。「中国民衆は、神のようなものによってのみ満たされる欲求不満を持っていた。」彼は「神のようなものによってのみ満たされる欲求不満」のことをディヴァイン・フラストレーションと言っている。人間の魂は、ただ神によってしか満たされることができないのである。神によって神のかたちに似せて造られたからである。中国民衆は共産主義にそれを見出して、中国革命に飛び付いた。しかしそれは、神のようなものではあっても、神ではないので、やがてまた失望するに相違ない。

2008年1月9日水曜日

クリスチャンになってよかった 3/10

クリスチャンになってから心配事が少なくなったことは事実である。クリスチャンになる前の私は、気が小さく、何でもないことまでも心配しないではいられなかった。ほかの人から見れば何でもないことなのに、当人にとっては心配でならないことが多くあった。

私は小さいころから体が弱く、病気になりがちであった。すぐに風邪を引いたり、おなかをこわしたりして、学校を休んだ。小学校六年生の時には、腸カタルから虫垂炎になり、少し手遅れになってから手術をしたため、腹膜炎を併発して、三週間入院していたこともあった。はたして二十歳になるまで生きられるのかどうか不安で仕方がなかった。

体だけのことではなく、対人関係など各種の問題の中に置かれると、元々意志が弱かったということもあって、これからどうなっていくのか心配で、心が安らぐことは少なかった。ところがどうだろう。クリスチャンになったら、真先に心配事がなくなってしまった。

どうして心配事がなくなったのかと言うと、心配事をゆだねることのできるお方を知ったからである。それは、この天地万物をお造りになった神である。そのお方に心配事をゆだねることができたのである。
「神は、あなたがたのことを心配していてくださるから、あなたがたの思い煩いを、すべて神にゆだねてしまいなさい。」(1ペテロ5:7)

母親譲りの取り越し苦労性の私が、クリスチャンになって一遍で変ったことと言えば、このことである。それまでは、何か嫌なことが起ってきそうになると、必ずあらかじめそのことについて悩んでいたものだ。それが襲ってきたらどうしようかという心配である。しかし、時と場合によっては、それが起ってこないこともある。だから、取り越し苦労性の人は、ほかの人より一回ずつ多く悩むことになる。愚かであると頭では分っていても、それがやめられないのだ。

ところが、クリスチャンになったら、途端に心配性でなくなってしまった。心配事から解放された。クリスチャンになるということは、キリストが私の罪の身代りに十字架上で死んでくださったのだということを、ただ頭で認めることではなく、聖霊による生れ変り(新生)という信仰体験をした人のことである。だから、自分で変えようと思っても変えることのできなかったことを、神が変えてくださるのである。

2008年1月6日日曜日

人間として生きる4 - 人間性の疎外

パッペンハイムが「近代人の疎外」(岩波新書)という本を書いている。その本の中で、彼は一つの出来事を記し、それを説明している。数年前のある通俗雑誌が写真コンテストの結果を発表した時、ほやほやの現場のニュースをとった写真に賞が与えられたのだが、それは二台の自動車がメチャメチャにこわれた交通事故をとったもので、それを背景に、犠牲者の一人の、今にも死のうとしている苦痛にゆがんだ顔の大写しであったというのだ。

この文章を読んだ時、私はすぐに日本において起ったあの社会党委員長の浅沼さんが刺された時のことを思い出した。真昼の日比谷公会堂の公衆の面前で、浅沼さんを刺したあの十七歳の山口少年の姿の中に、私は人間が人間でなくなった時に、人間がどれくらい恐ろしい存在になるかということを、まざまざと見出した。そしてそこにもう一つの現実を見逃すことができなかった。あの事件の時、刺されて苦痛に顔をゆがめ、眼鏡が外れた浅沼さんの死の直前の姿に、冷静にカメラを向けて写していたカメラマンがいたのである。その人にとっては、カメラマンとしての絶好のチャンスという思いはあっても、苦痛にもだえている人の心への同情は全く見られない。ニュース・カメラマンとしての自分の出世作品への思いしかないのである。

パッペンハイムはこう言っている。
「こうした冷淡さや関与の欠如ということは、他の人間の苦痛を目撃しながら、もっぱら自分のカメラを使うことばかり考える写真家のような人たちだけの特徴だと言えるだろうか?こうした気休め的な考えは現実的ではないと思う。われわれは誰でも無関心な傍観者になる傾向を持っているように見えるのである。他の人たちと交際したり、また重大な出来事に反応したりする場合、われわれはとかく断片的な出会いしか持たないような傾向がある。われわれは全体として他の人物、または全体としての事件にかかわりをもたないで、むしろわれわれにとって重要な一つの部分を切り離して、残りの部分に対しては多かれ少かれよそよそしい観察者にとどまってる。」

人間が人間でなくなるということは、実は人間が人間としてのあり方をしなくなるということである。そういうあり方をしていると、人間関係が崩壊してしまい、自分もまた人間ではなくなってしまうのである。

2008年1月1日火曜日

クリスチャンになってよかった 2/10

私がクリスチャンになって本当によかったと思っていることは数限りなくある。まず人を恐れなくなった。クリスチャンになるまでは、人の言うことが気になって仕方がなかった。人の口や人の目を気にし、恐れていた生活は力のない生活だった。

日本人は,とかくほかの人が自分のことをどう思っているかを気にするが,神からしっかりとした確信が与えられると、人を恐れることがなくなった。けれども、これは傲岸不遜な人間になることとは違う。

私がクリスチャンになってまだ一年も経っていなかったころのことである。大学のクラス委員が妙な情報を持って来て、私たちに説明した。それは、近々国会で審議される私学法案なるものは大変な悪法で、これが国会で通ると、私学はアメリカの植民地のようになるというのである。だから、国会で審議する日は、試験をボイコットし、国会にデモをかける必要があると言って、私たちに訴えた。

クラス委員は、学生自治会の委員であり、彼は全学自治会で聞いてきた情報を伝えたにすぎなかった。人間として、彼はいいかげんな男ではなかったが、私はどうしてそんな重要情報が学生だけに流されて、新聞も大学当局も沈黙しているのか不思議でならなかった。

私は早速、親しくしていた政治経済研究所の総務部長をしていたW氏聞くと、彼は私学法案なるものを見せてくれ、悪法であるどころか良い法律であること、それに反対するようにという秘密指令を日本共産党が出している裏のカラクリまでも教えてくれた。

第二回のクラス会の時、試験ボイコットについての決を取ることになった時、私は立ち上がって、「私学法案なるものは決して悪法ではない。私は実際それに目を通してみた。それが国会で通ったからと言って、われわれの大学が植民地化されるなどということはありえない。だから、この試験ボイコットは間違いである。間違っているものに賛成はできない。たとい多数決であっても、それに従ってはならない。」人前で何一つ自分の意見を言うことのできなかったことを知っていたかつての友人がこの私の姿を見たら何を言うだろうか。そして、それをだれよりもよく知っているのは私であった。だから、私自身、このように言っている自分の姿に驚かずにはいられなかった。そして試験の当日、ボイコットを強行するためのピケラインが張られたが、私はそれを強行突破して試験を受けたのである。