2008年5月31日土曜日

罪の現実8 - 教育によって改善できるか

人間をどう見るかということは、文学の分野だけでなく、法律の分野でも同じことが言える。法律において、人間をどう見るかということは、法哲学における人間観でも明らかである。

法律は皆同じような見方をしていると思っている人がいたら、それは大間違いである。人間をどう見るかによって、刑法は全く変ってしまう。たとえば、今の日本の法哲学は、大体においてヒューマニズムの人間観をもって見ている。その証拠に、教育刑という考え方を持ち込んできている。つまり、刑務所において善いことを教えておけば、釈放された後、皆善人になれるという考え方である。

しかし、はたして現実はどうであろうか。初犯刑はその大半が累犯刑に進んでいっている。これは、教育によっては、人間を改善することはできないということをあかししてはいないだろうか。

もちろん、教育が有害無益であるなどと言っているのではない。教育の重要性については十分知らなければならないことである。しかし、教育には限界があることも知る必要がある。

教育によって、人間の性格を変えることはできない。犯罪を犯した人の性格を変えて、犯罪を犯さないようにすることはできないのである。

教育というものは、文化的遺産の継承を通し、人格と人格の触れ合いを通して、人格形成を行うことであって、それ以上の何ものでもなく、それ以下の何ものでもないわけであるから、人間の性格を変えるということは、教育の本来の目的ではない。ところが、今日の刑法における考え方としては、教育刑と称して、人間の性格は変えられると誤信して、多大な税金をこのことのために投入している。これは、税金の無駄遣いにほかならないのである。

だから、教育によって人間を変えることができると考えるのは誤解である。人間の持っている問題は、教育などによって変えられるものではない。これは、教育などによって変えられるものではなく、心理学者のウイリアム・ジェームスが「回心の種々相」の中で述べているように、回心、つまり生れ変わるということ以外のいかなる方法によっても変えることはありえないのである。それが、聖書で言う「罪」の本質なのである。

2008年5月28日水曜日

祈りについて1

クリスチャンにとって、祈りは特権であり、また神から力を頂く場でもある。

私たち人間は、自分の思いをじっと胸の中に秘めておくことができない者だ。これを何らかの形でだれかに言わないではいられない。子供が母親に何でも話すのは、その良い例であると言うことができよう。だんだん大きくなると、恥ずかしいという気持や、親は本当に自分のことを理解してはくれないという思いが起って、親に話すよりも友達に話したり、日記に記したり、インターネットのブログで発表したりするようになるだろう。それでも不満足な場合には、一人で物思いにふけるようになり、それを一人言のようにして言うこともあるだろう。人が自分の思いを言い表さずにいられないのは、人格的存在として造られているからである。人格的存在は、いつもほかの人格的存在を必要とし、それと交わらないではいられないのだ。ところが、一人の人には一つの人格しかないから、人はだれでもほかの人を必要とするのだ。

私たちの霊は、すべての思いを言い表すためには、どうしても完全な人格を求める。自分の悩み、悲しみ、苦しみ、また喜び、楽しみなど、すべてをありのままに注ぎ出して語るためには、その相手が偉大な存在でなければならないのである。このような存在に対する私たちの霊の思いの吐露、人格的交わりが祈りなのである。私たちは元々弱い者だから、偉大なお方である神に依存して生きる存在として造られている。

だから、祈りは人間の最も深く、聖い心からの声であると言うことができる。どんな宗教でも、その最終的に行きつくところは祈りであると言われるが、それは、このような意味から理解することができるわけである。

ところで、キリスト教の祈りというものも、そうした人間の側からの要求の表われ、また思いの行きついたところ、つまり極致にすぎないものなのだろうかと言うと、必ずしもそうではないのである。聖書の教える祈りというものは、私たちの霊が神の霊と交わることにほかならない。そうしないでは生きていくことができないように造られている私たちの霊が、造り主であり、天の父であるお方と交わる交わりなのである。だから、祈りとは、しなければならないものではなく、しないではいられないものにほかならない。そういうわけで、クリスチャンが祈らないと、霊的呼吸困難に陥ってしまうのである。

2008年5月24日土曜日

罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)

芥川龍之介が掘り下げて行ったエゴイズムの問題と取り組んでいった人として、私は太宰治を挙げることができるように思う。芥川がエゴイズムの問題と対決したのに対し、太宰はそれを「人間失格」という問題意識にまで深めたと言うことができるだろう。

この作品の中で、主人公の大庭葉蔵はこう言う。「人間失格、もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。」人間が人間でなくなること、それほど恐ろしいことはない。それは人間性の完全な喪失ということになる。

「僕には人生の目的が何であるかわからない。友達とも、人生の目的は何かということで議論したが、皆の出し合った意見の中で、心から納得できるものは一つもなかった。自分は現在何のために勉強しているのかさっぱり分らない。」

「人生て何だろう。人生には果して目的があるのだろうか。人生には目的なんてあるのではなく、ただ生れてきたから、生きているだけのことではないのか。死ぬまで生きている、ただそれだけのことではないのか。もしもそうだったら、何もこんなに苦しみながら死を待つ必要はない。さっそく三原山かクリスマス島へでも行った方がよい。」

この作品の中で、罪のアトニム(反対語)ごっこという遊びをするのだが、その会話の中で、罪の反対語がついに見付からなかったことだ。罪の反対語として法律を持ち出したり、善を持ち出したり、神を持ち出したり、救いを持ち出したり、愛を持ち出したり、光を持ち出して来て、結局分らないのだ。罪の実体が分らなかったというのが、太宰治の本当のところだったように思われる。

太宰治や坂口安吾や織田作之助という一連の作家の文学のことを、可能性の文学と呼ぶ。それは、彼らの作風が、一様に落ちる所まで落ちて、そこからどこまで上がって来ることができるかに、人間の実力の可能性があるということを問題にしているため、このような呼び方がされる。

ところが、この可能性の文学と称せられる一連の文学者は、どういう足どりをたどったろうか。太宰治はついに心中をしてしまうし、坂口安吾は、催眠薬中毒のため東大の神経科に入院してしまうという具合で、最後は皆破滅で終っている。このことは、人間のうち側にあるものの破局性を示しているとは言えないだろうか。

2008年5月20日火曜日

聖書について4

私は、翻訳原則を変えて、もう一度翻訳を始めた。いくつかの書は、すでに古い翻訳原則によるものではあったが、翻訳を終っていた。だから、比較的容易に新しい原則に変えて、手直しすれば、それで済んだ。

私は元来、短距離型の人間で、長距離はにが手であった。しかし、新約聖書の場合、使徒の働きまで訳し終った時、分量から言うと、全新約聖書の半分以上は訳したことになるのである。思わずこれはいけると思った。というのは、ローマ人への手紙、コリント人への手紙1、2、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロ二ケ人への手紙、テモテへの手紙1、2、テトスへの手紙は、古い翻訳原則によってではあったが、翻訳が出来ていたからである。こうして、1978年に、新約聖書の翻訳は終った。

これを出すと、大きな反響が起った。ある人は、こんなことを言ってきた。「私はもう年寄です。私の目の黒いうちに、ぜひとも旧約聖書を出していただきたいと思います。」旧約聖書は、分量からすれば、新約聖書の三倍もある。その人の要望にはぜひとも応えてあげたいが、とても出来るものではないと思った。創世記、出エジプト記、ヨシュア記などは、すでに古い翻訳原則で訳してあったので、遅々としてではあったが、まあまあの速さで進められていった。毎日出来るだけ時間を取るようにして、翻訳を進めていった。

1983年の1月に、それまで日本プロテスタント聖書信仰同盟の実行委員長をしていたのを辞めることになった時、急に時間が取れるようになり、急ピッチで翻訳を進めることができ、その年の3月に翻訳は全部完成してしまった。そうなると、どうしてもその年のうちに出したいと思うようになった。しかし、こんなに分厚いものを突然印刷屋に持って行っても、引き受けてくれる所はなかなか見つからなかった。けれども、引き受けてくれる所が現われ、その年の秋に旧新約聖書を一巻本として出すことができた喜びは何にも代えがたいものであった。

私が翻訳に手を付けてから三十年余り経つ。私は改訂したい箇所があると、すぐ赤で訂正し、付箋を付けておく。こうして、改訂すること九回、今日第十版を出している。かなりの箇所が改訂されているので、十版を見ると、以前の版よりはるかに分りやすくなっていると思う。この「現代訳聖書」は、日本人のための私のライフワークでもある。

2008年5月18日日曜日

罪の現実6 - 文学が示している人間の破局性(2)

夏目漱石の「こころ」という作品が、画期的な意味を持つものであるとするならば、その後、そうした人間、あるいは自我というものをそのまま延ばしていった時、どういうふうになるかということを追求していった作家として、私は芥川龍之介を挙げることできると思う。

芥川の最後の作品であり、文字通り遺稿となった「西方の人」「続西方の人」は、言うまでもなく彼のキリスト論であると言うことができる。彼の生涯を見てみると、ある時期にはキリスト教に傾き、ある時期には仏教に傾き、大きく揺れ動いている。彼にとっては、キリスト教が関心の対象になっていたのではなく、聖書を通して伝達されるキリストが問題であったのである。彼はこう記している。「わたしはやっとこの頃になって四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云う人を愛した。クリストは今日の私には行路のやうに見ることは出来ない」(「西方の人」)という芥川のキリストに対する愛がどのようなものであったかは、もちろん、単純に受け取ることはできないとしても、彼の意識が、キリスト教という宗教に向けられていたのではなく、イエス・キリストに向けられていたことだけは疑うことができないだろう。

「西方の人」のキリスト論は、正統的な信仰告白の立場から見ると、それは言語道断というほかないかもしれないが、しかし、芥川が近代日本文学の運動を、ほとんどその絶望にまで突き詰めたところで、主イエス・キリストというお方の前に出たということは極めて重要なことである。しかし、芥川の「西方の人」には、キリストとお会いするという信仰的モチーフが欠如している。

芥川が書いた「西方の人」「続西方の人」というのはイエスのことである。しかし、彼は1927年7月24日の朝、薬を飲んで自殺してしまった。夏目漱石の場合、作中の人物の死を持って終らせることができたものの、芥川の場合、自ら死んでいる。しかも、その枕もとにはたった一冊の聖書が置かれてあった。

芥川は、「わたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じている」とはっきり書いている。それなのに芥川の場合の問題は、彼が書いた「西方の人」の中のイエスに対する見方にひそんでいる。芥川にとって、イエスは宗教的天才、天才的ジャーナリストでしかないのである。

2008年5月14日水曜日

聖書について3

私が奇しくも聖書翻訳に携わるようになった経緯はこうである。第二次世界大戦直後の日本では、自力で聖書を印刷し、製本することはできなかった。いきおいアメリカ聖書協会が作って、送ってきてくれたのである。その聖書は、もちろん戦前に作られた文語訳聖書の写真版なのだが、残念なことに、戦後の教育を受けた者には読むことが難しかった。というのは、戦後の教育では、文章を書く場合、助詞を除き、表記法は発音通りにすることになった。つまり、「幸い」は、「さいわい」である。ところが、戦前の日本語表記法はこれとは異なり、この文語訳聖書では「さいはひ」と書いてある。「憐み」も「あはれみ」であり、「あわれみ」ではない。「効力」も「かうりょく」であって、「こうりょく」ではない。

これではだめだと思ったので、早速、私訳をし始めた。もちろん、口語訳である。そうしているうちに、日本聖書協会より「口語訳」が出された(1956年)。これは、かなりひどい訳ではあったが、当時使える聖書としてはこれしかなかったので、使わざるをえなかった。これがひどい訳であるということは、聖書の原文を勝手に変えて訳したり、キリストの権威をあえて認めようとしなかったりしていた。そこで、日本プロテスタント聖書信仰同盟では、日本聖書協会に質問状を提出したにもかかわらず、一向に返答はなかった。

そうこうしているうちに、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々の中から新しい聖書翻訳の気運が高まり、アメリカのロックマン・ファウンデーションの協力を得て、「新改訳聖書」を出すことができた(1970年)。私もその時、翻訳者の一人として加わった。

その後、日本聖書協会では、カトリックと「共同訳聖書」を作るということに先立ち、アメリカ聖書協会翻訳主任のユージン・ナイダ博士を招いて、「ダイナミック・エクイバレンス」なる翻訳理論の説明会を開き、私もそれを聞いたのだが、従来の翻訳原則が頭にこびりついているため、全く受け入れられなかった。

その後、リビング・バイブルの序文にケネス・テイラー博士が、このような意味のことを書いておられた。「新約聖書で旧約聖書から引用する時、原文とはかなり違った引用の仕方をしている。このようなことが許されるなら、このリビング・バイブルもありうるはずだ。」この時、私は「ダイナミック・エクイバレンス」の翻訳理論が分ったのである。しかし、リビング・バイブルは厳密には翻訳ではないが、私は新しい翻訳原則で原文から翻訳しようと思った。

2008年5月11日日曜日

罪の現実5 - 文学が示している人間の破局性(1)

中世に文学は、神の御前に人間を設定して、その人間がどういう動きをするのかを描いている。しかし近代の文学になると、神を信じる人は必ずしも多くはないので、神との関係において人間を考えるのではなく、人間のうちにあるものをそのまま延ばしていくとどういうことになるのかということをテーマにしている。

ことに日本の近代文学で、その意味から特異な存在として、画期的な位置を占めるのは夏目漱石であると思う。彼の「こころ」という作品があるが、その主人公である「先生」が「私」に語りかける印象深いところがある。
「あなたは未だ覚えているでしょう。私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にいるものではないと云ったことを。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。あの時貴方は私に昂奮していると注意して呉れました。そうして何んな場合に、善人が悪人に変化するのか尋ねました。私がただ一言金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔を記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時伯父の事を考えてゐたのです。」

これは、先生という主人公が伯父さん一家にうまくだまされて、伯父さんがその娘と自分を結婚させることにより、自分が父親から受け継ぐはずの財産を取ろうとしていることを知るのである。「アカの他人は信用できない。しかし伯父さんだけは信用できると思っていた」その気持ちが、伯父さんにそむかれて、彼はショックを受けるのだ。

彼は東京の下宿の隣部屋に親友Kを住まわせるのだが、そのKと下宿の娘さんが親しくするのに、心の中で何か穏やかならぬものを感じ始めるようになる。それからしばらくすると、Kからその娘さんに対する愛の告白を聞かされる。彼の心はますます平穏さを失っていく。そして下宿の小母さんに「お嬢さんを下さい」と言うのだが、小母さんからは、「あなたのお友だちにはあなたの方からよく話して下さいよ」と言われるのだが、到底話せない。ある日、お茶飲み話の時か何かに小母さんが、Kにその話をしてしまう。そしてKは思い詰めて、自分の部屋で自殺をしてしまうのだ。

アカの他人も、伯父さんも信用できないところから、今度は自分さえも信頼することができなくなっていくのである。

2008年5月7日水曜日

聖書について2

聖書は良い本だけれども分りにくいと言われる。毎年わが国では数百万冊の聖書(分冊をも含めて)が人々の手に渡っているというのに、その約九割は読まれていないというのだ。どこにその原因があるのだろうか。それは、読んでも分らないのだと言われているのである。

それでは、どうして読んでも分らないのかと言うと、どうやら翻訳に問題があるらしい。もちろん聖書が本当に分るためには、信仰を持って読まなければならないわけだが、実はそこまで行かないところで、さっぱり分らないのだ。それは、聖書が書かれた時代の風俗や習慣が、今日私たちが生きているわが国のものと全く違っているのに、そのような歴史的、社会的、文化的な違いをほとんど考慮に入れずに訳しているところにあるのだ。

従来使われていた聖書翻訳の原則は、「原語に忠実」、一点張りだった。「原語に忠実」で何が悪いのかと思う。しかし、原語に忠実だけではだめなのである。むしろ、歴史、社会、文化の違いを考慮に入れた、「原文の意味に忠実」ということが重要なのだ。これは、アメリカ聖書協会の翻訳主任であった言語学者ユージン・ナイダ博士によって提唱された「ダイナミック・エクイバレンス」という翻訳理論である。そしてこれは、キリスト教界においてだけでなく、一般に使われている翻訳理論でもある。キリスト教界では、現にウイックリフ聖書翻訳協会の宣教師がこの翻訳理論を使って、世界各地で聖書を翻訳している。

聖書というものは、元来、それを読むだけで分るものであったはずだ。読むだけでは分らず、その説明文が必要であったとしたら、それをも加えたものを、神は私たちにお与えになったはずである。しかし、神が私たちの救いについての御心を示してくださったのは、あの六十六巻の聖書だけなのだ。だから、当然のこと、聖書はそれ自体、神の御心を明瞭に示していたと言うことができる。

それなのに、今日私たちが聖書を読んでも、読むだけではよく分らないのは、翻訳に問題があることに気付いたのである。「原語に忠実」という翻訳原則を変え、「原文の意味に忠実」という翻訳原則に変えて訳した。とにかく読むだけで分る聖書として、三十年余りの歳月を費やして訳した。それが「聖書」(現代訳、現代訳聖書刊行会)である。この翻訳原則に従って訳された聖書に、欧米ではもう何種類も出ていると言うのに、わが国では、この通称「現代訳聖書」一種類のみであることは寂しい限りである。

2008年5月3日土曜日

罪の現実4 - 欲望に彩られている人生

ほとんどの人は何らかの欲望を持って生きている。人間が持っている欲望は、食欲、睡眠欲、性欲といった、いわば動物的な欲望と、ただ一つ人間にだけある、認められたいといった重要感の満足につながる欲望がある。

しかし、こうしたものだけで、はたして人間が生きる喜びを味わうことができるだろうか。今日、あたかもほとんどの人がそこにしか関心がなくなってしまったかのように、どの小説も性風俗の克明な描写にうつつを抜かしているが、そのようなことで、はたして私たちは本当に満足できるのだろうか。確かに、私たちの欲望はそれによって満たされるが、その時、私たちは嫌というほど魂の飢え渇きを覚えないではいられない。

人間として生きることに喜びを見出すためには、自分が今生きていることに満足できなければならない。「生きがいの欲求」について、最も深く追究したアメリカの心理学者キャントリルは次のように言っている。
「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに『成功』であるように見えても、もしあなた自身が経験の『高揚』を感じなければ、それはあなたにとって成功ではない。それゆえ、時折われわれから見ると成功したように見える人が自殺をし、世間が『偉大』であると考えている芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしいと言ってわれわれを驚かせるのである。」

それでは、自分が今ここにこうして生きているということに、私たちはどうしたら満足できるだろうか。普通私たちは、いつも何かによって、満足がおびやかされている。不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみといったものがそれだ。だから、それらを取り除いておく必要がある。しかしその原因は一様ではないので、いくら原因になりそうなことが起こっても、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の持ち方の方が大切であると言うことができよう。

また、生きていることに満足を与えるということは、生命の流れをスムースにすることなのだから、それを助けるものとしては喜びを挙げることができるだろう。つまり、いつも心に喜びを抱き、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の態度が一番基本的なことである。この欲求不満の処理がうまくいかなかったがために、ノイローゼになる人は決して少なくないのである。