2008年2月27日水曜日

クリスチャンになってよかった 10/10

クリスチャンになって、私は経済的なことについての心配がなくなった。神がすべての必要を満たしてくださることを体験したからである。

私は、神学校を卒業した時、三つの進路があった。一つ目は、歴史の古い教会の副牧師という道であり、二つ目は、戦後来日した欧米の宣教団体の日本人リーダーとしての道であり、三つ目は、だれにも頼らず、ただ神にのみ寄り頼んだ自主独立の開拓伝道という道であった。私はこの三つのうち、第三の道である自主独立の開拓伝道という道を選んだ。最初の二つは、生活は一応安定していた。しかし、第三の道は、人間的な保証はどこにもない。神に頼る以外にはない。私がそれをあえて選んだのは、私のような、どちらかと言うとインテリの端っくれにある人間につきものの信仰は観念的な信仰になりやすいから、どうしても体験信仰が欲しかったからである。

だから、私は次の神の約束の御言葉に賭けたわけである。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活上必要なもの)は、すべて添 えて与えられる。」(マタイ6:33)

この神の約束が本当かどうか体験してみようと思った。お金がなかったので、路傍伝道から始めた。私は元来内向的な人間なので、路傍伝道などは不向きであるのだが、御言葉を体験したいと思って、それを始めた。

神は、私の生活の必要をすべて満たしてくださり、教会形成は着実に行われていった。開拓後一年余りたって結婚したのだが、その時にも神は必要をすべて満たしてくださった。当時、私の収入は、卒業した神学校の時間講師をして、月に4千円であった(当時、大学出の初任給は一万円)。結婚する時には、教会からの謝儀は千円だから、私の収入は合計5千円であった。その時、家内となるべき人の収入は2万6千円であった。その人の収入を当てにして結婚したわけではなかった。その人は、そのころデパートに勤めていて、日曜日は休みでなかったから、結婚の時には辞めてもらうつもりでいた。

結婚すると、彼女の失業保険で半年生活することができ、半年後には、神学校で専任となり、その必要はすべて満たされた。こうした経験を通して、私は経済的なことでは少しも悩まなくなった。そして、総額25億円かかった今の会堂建設に取り組んだ時、一億円ささげることができた。その後も、神は私の生活の必要をすべて満たしてくださり、今もその点で少しの心配もない。

2008年2月23日土曜日

人間はなぜ幸福でないのか3 - 人生の目的が分らないから

私たちは人生の目的や意味が分らないと、幸福ではない。人間は、意味や目的が分らなくなると、生きることに戸惑いを感じるものだ。

ロシヤの文豪ドストエフスキーが、「死の家の記録」の中で、こういうことを書いている。彼は若いころ、政治犯としてシベリヤへの流刑になった。そのときに彼が見た拷問であると言って書いているのだが、二つの桶があって、一つの桶には水が一杯入っている。その桶の水をもう一つの空っぽの桶にあけるのだ。あけ終ると、今一杯になった水を、それまで一杯であって、今空っぽになったばかりの桶にあけ変えるのだ。そして、それを繰り返すのだ。一日だけの仕事ではなく、来る日も来る日もこれを繰り返させる。

何でそんなものが拷問になるのかと考える人がいるかもしれない。もしもこれをやっているうちに、桶の底がいつ抜けるかという実験であれば、そこに目的もあるし、意味もある。けれども、繰り返し繰り返し、いつ果てるともしれないこの動作に、人間は肉体的に参ってしまう前に精神的に参ってしまう。ドストエフスキーは、「その人は自殺するか、発狂するかである」と書いている。

また、彼は臼の中に砂を入れ、それを杵(きね)で突かせる拷問もあったと書いている。蒸した餅米であるなら、お餅になる。しかし、いくら砂を突いても何にもならない。これは拷問なのである。

人間は、何のために生きているのかということが分らなければ、生きることに苦痛を感じ、戸惑いを覚える。それが人間なのである。だから、何のために生きているのかということが分らないため、多くの人は幸福ではない。

それでは、何のために生きるのかということはどうしたら分るのだろうか。人間が偶然に存在したと考える人は、自分のちっぽけな頭で考えだしたお粗末な考えしか思い浮かばないだろう。機械を正しく取り扱うためには、その機械を作った人によるその取り扱い説明書に従わなければならないように、また薬を効果的に服用するためには、その薬製造者による服用説明書に従わなければならない。私たち人間をお造りになった神が私たちの人生の目的を持っておられる。それが、人間の取り扱い説明書である聖書なのである。それを無視していたのでは、決して幸福になることはできない。

2008年2月20日水曜日

クリスチャンになってよかった 9/10

この世の中を生きていく上で、人間関係は非常に重要だ。しかし、これはテクニックで出来る問題ではない。確かに、人間関係を上手にやってのける人がいる。営業マンや商売人には打ってつけというような人がいることは事実である。当りが良く、人の気をそらさない。しかし、そういう人はとかくそういうテクニックにたけているだけで、真実味がない人が多いことも事実だ。そういうような人になることがよいことでないことも確かだ。

私はことのほか人間関係が下手で、人の機嫌をとったりすることにかけては、大のにが手であった。教会に来る人を抱きかかえるようにして、「よくいらっしゃいました」などといったようなパーフォーマンスは全くできない。そうすれば、その人はまた来ようという気持になることは分っているのだが、そういうテクニックで人を引き付けようとは思わないのだ。むしろ、本当のクリスチャンになれば、日曜日に神を礼拝するために教会に来るのは当り前のことだと思っている。人に媚びたりすべきではないと思っているのである。

そんな私でも、クリスチャンになってから少しずつ人間関係がよくなってきた。そして、少しずつ分ってきたことは、私自身が変ってきているということである。自分で自分を変えることなどできないのだが、神が私の生き方を根底から変えてくださったので、少しずつ変ってきたのである。

クリスチャンが礼拝に来るのは当り前と思っていたのに、その人が礼拝に来るためにどれほど多くの犠牲を払って来ているのかということを理解することができるようになった。だから、礼拝が終ると、出口の所に立って、礼拝に来られた人々に、一人一人握手をして、その人の安否を問い、ねぎらうようになった。今では、これも礼拝に来られた人々の楽しみの一つになっているようである。

にが手な人とも交わることができるようになった。今でも、そんなに人間関係を上手にやれる方ではないが、それでもクリスチャンになる前とは全く違っている。人と話をするのに、にが手意識がなくなったということが言える。人間関係において大切なことは、いつまでも続く人間関係であって、それは真実な人間関係でなければならない。ごまかしたり、相手を利用しようとしたりするのではなく、真実な友情によって成り立つものである。そこにおいて必要なものは、愛と信頼にほかならない。そして、これはクリスチャンになるとだれにでも与えられる。

2008年2月16日土曜日

人間はなぜ幸福でないのか2 - 間違ったところに幸福を求めている

多くの人が幸福になれないでいるのは、間違ったところに幸福を求めているからである。ある人は、欲望の充足が幸福につながると思っている。あれを自分のものにすれば幸福になる、またこれを得れば幸福になると思って、いろんなものを求めている。

けれども、幸福というものは、そういう欲望が満足するという路線の上にはない。どんなに欲望が満たされても、魂は飢え渇いているという現実を私たちは知っている。だから、いくら欲望という路線を追求していっても、人間は幸福になることはない。

また、ある人は、他の人と比較して自分が幸福であるかどうかを確かめようとしている。しかし、他の人と比較する場合、どういうように考えるのかと言うと、「あの人より自分は幸福だ」と考える人はほとんどいない。他の人と比較して、「あの人より自分の方が学校の成績がよかったのに、どうしてあの人は出世してしまい、自分は駄目なのか」と思い、自分の不幸さ加減をかこつのだ。また、「あの人は自分よりも器量がよくなかったのに、あの人はあんな幸福な結婚をしている。それに反して自分の方は・・・」というふうに考え、自分は不幸だと思う。他の人と比較する場合、そのほとんどは自分の方が幸福だと考えないのである。

また、ある人は華やかなところに幸福があると思っている。新聞に自分の顔写真が載るとか、ラジオやテレビに出演することが幸福だと思っている人がいる。ある人は、一生懸命になって自分の親戚、知人、友人に電話を掛けた。「何月何日、何時から、どこそこのチャンネルでテレビに出ますから、見てください。」それがどんなにすばらしいことか分らないが、とにかく電話を受けた人はそれを見た。電話を掛けた人がどこにいるのか分らない。それでもよく見ると、50人くらい後ろの方に座っている人でいて、○か×かを書いたうちわのようなものを上げていたということであったというのである。

テレビに出ることや、華やかに脚光を浴びることが幸福だと思っている人がいるけれども、そういったところに本当の幸福はない。幸福というものは、もっと身近かな、もっと平凡で地味なところにあることを知るべきである。メーテルリンクの「青い鳥」のように、結局は自分の最も身近かな所、自分が見落していた所にあったように。

2008年2月13日水曜日

クリスチャンになってよかった 8/10

またある時のこと、いやがらせ電話が夜中に掛って来たことがあった。それは冬の真最中のことであった。夜の十二時を過ぎると電話が鳴るのだ。寒い中、寝床から起き出して、受話器を取ると、しばし無言のまま、電話を切ってしまう。寝床に入って、しばらくすると、また電話が鳴る。もしかすると、教会員からの緊急の電話かもしれないと思って起き上がり、受話器を取ると、全く同じである。そういうことが一晩に3、4回は起る。しだいに、こちらも腹立たしい思いになってくる。

その時、私は神が私に教えてくださった。この人は、こんなことをして自己満足をしている気の毒な人なのだ。この人は神の祝福を頂いて心が満たされていないから、こんなことをしているにちがいない。この人が祝福されるために祈ろうと思った。あの御言葉が示されたからである。
「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)

私がこの御言葉通りその人の祝福を祈った時、不思議とあのいやがらせ電話は来なくなった。御言葉が教えている通りのことをすれば、神は大きな祝福を与えてくださることが体験できた。それは、クリスチャンというのはだれでも自分が赦されたという体験をしているので、ほかの人を責める資格などないということが分っているからである。次のように教えられている通りである。
「お互いに親切にし、優しく振舞い、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

憎しみを持って生きることほどつまらぬことはない。時として憎しみをバネにして、そこに生きがいを持とうとしている人がいるけれども、それでは自分自身を傷つけて終ってしまうのがオチである。まず体を害し、心を傷つけ、ズタズタになった人生を送らなければならない。

しかし、赦すことのすばらしさを経験してからは、人生が自由になった。憎んでいる人がいれば、その人を避けて生きていかなければならないが、憎んでいる人がいないのであれば、何の気兼ねも必要がない。いつも心は晴れやかである。これは、ある特別に修業を積んだクリスチャンにだけ出来ることではなく、すべてのクリスチャンにとって出来ることである。神の御言葉である聖書を本気で信じると、その御言葉が私たちのうちに実現するのである。

2008年2月10日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか1 - 人生の目的、目標は幸福

昔ギリシャの哲学者アリストテレスという人は、「人生の目的、目標は幸福にある」と言っている。けれども、今日幸福な人には滅多にお目に掛ることがない。なぜそうなのかということを考えてみる前に、幸福な人とそうでない人について考えてみたいと思う。

人はだれでも「幸福」を求めていると言ってよいだろう。「幸福」と言わずに「幸せ」と呼んだところで、その内容は同じことだ。しかし、「幸運」と言うのはまた別物だ。それは良いめぐり合せのことであって、たまたまそうしたよいめぐり合せに出会ったという偶然性に依存している。しかし、「幸福」というものは、必ずしも偶然性に期待するものではない。

幸福を求める心は、また幸福についての様々な迷信を生み出す。たとえば、幸福の手紙と呼ばれるものや、結婚するのに良い日を選んだりするのがそれである。大安とか友引に結婚するという具合である。さらにアメリカでは日本のハッピまがいのコートを着て、それをハッピー・コートと呼んでいる人がいる。

昔から幸福に関する本は沢山出ている。幸福について語られ、論じられてきた。しかし幸福を得ている人はほとんどいない。

幸福な人というのは、将来について言えば、斜め上の空が突き抜けたような感じを持ち、過去について言えば、ちょうど船が白い航跡を残し、やがてそれが消えていくような感じを持っている人だと言われる。つまり、過去に捕われることなく、将来がずっと先まで突き抜け、希望を持てる状態である人だ。それに反し、幸福でない人というのは、いつまでも過去の出来事に縛られ、それに対する恨みつらみを持ち、だれかを憎み続けている人である。そういう人は、過去にしがみついているから、将来が全く見えないどころか、考えることすらできない。

こういう心理状態を心理学者は教えてくれる。だから、自分が今どのような心理状態であるかということを知れば、自ずと自分が今幸福であるか、それとも不幸であるかが分るというものである。

そういうことが分っていても、なかなか幸福な人のような心理状態になれないとしたら、どこに問題があるのだろうか。どうしたら幸福な人になれるのだろうか。そのことについて考えてみることは、決して無駄なことではあるまい。

2008年2月5日火曜日

クリスチャンになってよかった 7/10

クリスチャンになってからでも、虫の好かない人、嫌いな人というものはいるものだ。そういう場合、以前なら、いつも悪いのは相手の方だと言って、その理由を数え立て、自分を正当化したものである。しかし、そんなことをして自己満足していても、事態は全く変ることはない。

人からひどいことをされて、それを赦すということは、そんなに簡単なことではない。しかし、人を赦すことの喜びを体験した時、それは何とも言えぬものであった。

聖書の中には、すばらしい教えがいくつもある。たとえば、次のようなものがそれである。
「あなたの敵を愛しなさい。」(ルカ6:27)

「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)

もしもこれが出来たらすごいと思っていた。そして、その通り出来る人というのは、ある特別な人であって、それはクリスチャンとして目標とはなりえても、現実にそのようなことをするのは不可能であると思い続けていた。

ある時のこと、私はひどい中傷に遭ったことがあった。根も葉もないこと、全く身に覚えのないことだったから、なんでそんなことを言われなければならないのか、面食った。面食っただけでなく、その人を憎みもした。私が教会のお金を使い込んで、こっそり埋めたという非難中傷である。私は教会会計の帳簿を触ったこともなければ、お金をいじったこともないのに、なんでそんなことを言われなければならないのか分らなかった。とにかくその人を憎んだ。

私への中傷を聞いて、本当だと思い込んだ人は、ワープロにそのことを打ち込み、日本中にばらまいた。だから、私はその人をも憎んだ。彼らは、教会で除名処分を受けたが、その逆恨みをして、その後もそのうちの一人は年賀状を寄越した。そのお年玉付年賀はがきには、こう書いてあった。「眠られぬ夜を過しているのではありませんか。そろそろ悔い改めたらどうですか。」それを見て、私は胸くそが悪かった。たといお年玉付年賀状が一等の当選をしていても取りには行くもんかと思った。

しかし、その時、神が私に教えてくださったことは、神の御手の外において起ることは何一つないのだということであった。神の許しなしに起ることはないのである以上、ここにも神が何か目的をもって、それをするのを許しておられるのだということが分った時、私はその人を赦すことができたのである。

2008年2月3日日曜日

人間として生きる8 - アガペーとエロース

私たちは「愛」という言葉をさりげなく使う。しかし、古代のギリシャ人は、これを四つの言葉を使って、使い分けている。それは、アガペーとフィリアとストルゲーとエロースである。ギリシャ語を使って書かれている新約聖書では、このうち最初の二つ、アガペーとフィリアが出て来るだけである。アガペーは神の愛、フィリアは友情の愛と分けて考えることもできないことはないが、新約聖書においては、この二つの言葉は、ほとんど同じ意味に使われていることが多い。

ストルゲーというのは、肉親の情を表す言葉で、これとエロースは聖書の中には出て来ない。エロースという言葉は、今日ではほとんど性的な愛であると思われているが、元々はそうではなかった。プラトーンが説いているところによれば、相手の中にある良いものとか、美しいもの、気高いものなど、その価値を認めて愛するのがエロースの愛なのである。私たちだれかを愛する場合、このエロースの愛から出発するのは自然だと思う。

たとえば、ある女性を愛する場合、容姿が美しいから愛するとか、心が温かいから愛するということはあっても、頭も悪いし、不美人でもあるし、心は鬼のようで、その上お金もないのになお愛するということはまずありえないだろう。ほかのものに欠けていても、この一点において優れているから愛するというのが普通だ。私たちがだれかを愛する場合、このエロースの愛からスタートしていくことになる。

ところで、このエロースの愛というのは、自分のためという動機がその根底にあるから、当然、自分のために獲得するという性格を持っている。このエロースという愛だけであれば、利害関係が相反することになれば、必ず奪い合いが起り、衝突を避けることはできない。

それに対して、アガペーの愛というのは、それとちょうど反対で、人に与えるという性格を持っている。だから、エロースの愛だけでは必ず衝突が起るのを、アガペーの愛がそれを解決してくれるわけである。

ところで、エロースの愛は、人間だれでも生れながらに持っている。しかし、アガペーの愛は、人間のうちにはない。それは神だけが持っておられる愛である。だから、この神の愛を度外視していて、私たち人間の間の問題が解決される道理はないのである。