2009年7月26日日曜日

知恵を求める人

ああ、なんと幸いなことだろう、
知恵を見いだし、英知を得る人。
その道は楽しく、皆、平安である。(箴言3:13-17)

多くの人は快楽を求めている。快楽というような言い方をすると、自分はそんなものを求めてはいないと言う人もいるかもしれないが、結局自分が楽しいこと、面白いこと、嬉しいことを求めていることに相違はない。ことに日本人はよく働く代りによく遊ぶようでもある。温泉場などはいつも満員だし、夏は海水浴に、冬はスキーにと、沢山の人々が繰り出して行く、こんなにも多くの人がいるのかと思われるほどの盛況ぶりだ。しかし、夏や冬だけでなく、春や秋に出歩く人は、もっと沢山いる。たとい外へ行って遊ばなくても、楽しんだり、喜んだりする娯楽のたぐいは、いつでも多くの人々の興味の対象となっている。

また、ある人々は金儲けに血まなこになり、朝から晩までただ金を儲けるということのために、自分のエネルギーを使っている人さえいる。最近では金儲けを餌にして人をだます者たちがあとを断たず、その手に乗って、虎の子をなくしてしまった人も少なからずいる有様である。

しかし、本当に喜ぶべき道、楽しい道というのは、こういう欲望を満たさせる道とはまた別の道なのだ。もちろん、自分のやりたいことをすること、お金を沢山得ることは、面白いことであるには相違ないだろう。しかしながら、そういうものは、目的を達成したあかつきには、むなしさだけが残るのである。つまり、こういうものによっては、私たちの心まで満たすことはできないのである。私たちの心を本当に満たすものは、もっと別のものであり、それは知恵であり、英知である。これは知識とは違う。多くの知識を得ても、それで私たちの心は決して満足はしない。この知恵とか英知というものは、私たちの心が本当に満足することのできるものである。それは、具体的には何を指しているのだろうか。それは、何かの原理とか法則というようなものではない。私たちの心が本当に満足するのは、人格によってである。私たちの心を楽しませてくれる人格とは、それは神ご自身にほかならない。

2009年7月8日水曜日

見たこと聞いたこと

私たちは、自分が見たこと聞いたことを語らないわけにはいきません。(初代教会4:20)
この世の中では、その価値という点からすれば、大したことではないのに、宣伝文句につられて、あたかもその内容がすばらしいものであるかのように思われるものがいくらもある。つまり、見かけ倒しと言われるものがそれである。

また選挙運動の場合でも、必ずしも心からその人に傾倒しているわけでもないのに、アルバイトの謝礼を沢山もらっているために、あたかも自分が推薦できる人は、世界中にこの人しかいないとでも言うような宣伝をし、応援している人もいないわけではない。つまり、自分で自分を偽っているのである。

しかしながら、私たちは、自分の良心を偽り通すことはできない。どんなに沢山のお金をもらって、一時的には自分を偽ることができたとしても、それを通し続けることはできない。つまり、私たちの良心は、正しいことに対しては正しいという反応を示し、誤っていることに対しては誤っているという反応を示すからである。というのは、良心という英語conscienceは、conとscionというラテン語から来ており、それは「共に知る」という意味である。誰が共に知っているのかと言うと、神が共に知っておられるのである。ところで、私たちは自分の弱さから、正しいと思っていることを、あらゆる事情に抗しても主張することができないのだ。そういう時、私たちは誰でも多かれ少なかれ悩むものだ。

私たちは見もしないことを見たとか、聞きもしないことを聞いたというふうに、良心は決して思わないのだが、自分の弱さのために、良心の認めているままにこれを表すことができないことがある。しかし、もしも私たちが真に正しいことを正しいと主張し、真に誤っていることを誤っていると主張できたら、どんなにすばらしいことか。私たちがある一つの経験をすると、私たちは、このように主張できる勇気の人となることができる。それは、イエス・キリストとお会いすることだ。そうする時、私たちは、主イエス・キリストにお会いしたという事実を語れるだけでなく、正しいことを正しいと語り、誤っていることを誤っていると語ることのできる人になれる。