2008年8月31日日曜日

子供の教育

わが国では、子供の教育については、一般的に言ってとても熱心だ。しかし、その熱心さがどうも少しピント外れになっているのではないかと思われないでもない。というのは、教育に熱心な人を見ると、子供の学校の成績や上級学校への入学試験のことに熱中しているからである。けれども、こういうことを教育だと考えている人がいたとしても、はたしてこれが本当に教育なのかどうかということを考えてみなければならないだろうと思う。

わが国で行われている教育は、どうやら知的偏重の嫌いがないわけではない。子供の学校の成績とか入学試験用の勉強について考えてみても、そのように言ってよいのではないかと思う。しかし、さらによく考えてみると、知的偏重の教育でもなさそうだ。知的偏重なら知的偏重で、欠けている徳育とか体育に力を入れれば良いわけだが、わが国における教育は入学試験用の教育で、これ一点張りと言っても言いすぎではない。入学試験用の勉強というのは確かに知育に偏ってはいるけれども、知育全般にわたる教育ではなく、入学試験用の、いわばテクニック修得の勉強にすぎないのである。

入学試験が選抜試験である限り、だれにも出来る問題を出すわけにもいかず、つまらないところで間違いを犯しやすい問題を出し、受験生に差をつけなければならないことになる。しかも、短時間の間に公正な採点をしようとすれば、おのずと○×式の問題にならざるをえないだろう。そうすれば、叙述式の小論文などとは違い、思想内容が問題にされるのではなく、暗記テストにならざるをえないわけである。いかに迅速に、いかに正確に暗記しているかということが問われることになる。

ところで、私たちが生活をしていく時、真に重要なものは、暗記力よりも、推理力であり、また判断力である。けれども、今の入試用の勉強では、この重要な推理力や判断力はほとんど無視され、暗記力だけが問われることになる。このような勉強をしていればいるほど、偏った考え方をするようになっていってしまうのは当然のことである。だから、入試用の勉強にうつつを抜かしていれば、将来使いものにならない人間が出来上がってしまうのだ。そのことを考えると、私たちは教育というものを、もっと根本から考え直してみなければならないのではないかと思わざるをえない。

さて、教育というものは、一部の教育専門家である教育者だけに任せておけばよいものなのだろうか。世の中には、そのように考えている人もいないわけではない。けれども、次の世代はどうなっても構わないと考えている無責任な人は別として、次の世代について真剣に考えようとする人であれば、それは、すべての成人した人の責任であることは間違いないことであると思う。

ところで、わが国では、自分の子供の教育について無関心でいられる人が必ずしも多くはないという現実を考えてみると、教育というものは、一体だれがすべきものなのか、だれの責任なのかということを考えてみなければならないと思う。子供の教育は親がするべきものだと考える人もいる。このごろの教師には任せておけないと考えるのだろう。そこで、ホーム・スクーリングに取り組む人も出て来ている。ところが、今の日本でホーム・スクーリングをするということは容易なことではない。一般的に認知されていないため、いくら家庭で高校ぐらいまでやっても、アメリカなどの大学にしか入ることが出来ない現実があるので、英語中心の勉強しかしないことになってしまう。

私は、ホーム・スクーリングが悪いとは思わない。しかし、親だけで子供の教育は出来るものなのだろうかと考えてしまう。そうかといって、学校の先生だけで出来るものでないこともまた事実である。多くの親は、先生に教育を任せてしまって、何の協力もせず、ただ批判だけはする。しかも、その批判たるや、自分の思い通りの教育をしてくれないと言う批判である。それに、その思い通りの教育とは、自分の願っている良い学校に入ることだけを願うものにほかならない。極めて利己的な姿勢ではないだろうか。

教育というものが、一人の人間を作ることであるとすれば、第一義的には親の責任であることは当然のことだと思う。しかし、親だけで出来るものではない。学校の先生の協力が必要である。子供が時間を過ごす場所を考えてみると、学校でよりも家庭の方がはるかに多い。その家庭で、親が子供の人格形成に無関心であったら、一体どこで教育がなされるのだろうか。学校でも、はたして先生が教育とは何かということを考えて、子供を教育しているのだろうか。良い学校に一人でも多くの子供を入れるための単なる知識伝授をし、一方で落ちこぼれを作っていっていたとしたら、はたしてそれは教育と言うことが出来るだろうか。教育とはただ単に成績の良い子供を作ることではなく、一人一人の人格形成でなければならないのではないだろうか。

2008年8月24日日曜日

仕事とつき合い

職業というものは、ただ私たちが自分の生活の資を得るためのものと考えるべきではない。それを通して神の御業に参与するのであり、まただれかほかの人の役に立っているということを知らなければならないのだということを考えてきた。そして、自分が勝手にその職業を選んだのではなく、神が自分をその働きに召してくださっているのだということも考えてきた。

そういうことになると、神が私たちをその職場に遣わしておられるのだということにもなるだろう。私たちがその同じ職場にいる人にあかしをしなければ、生涯主を知らずにいる人がいることも知る必要があると思う。その人に対して主をあかしする責任は自分にあるのだ。その使命を忘れて、過ぎ行くこの世のことに夢中になってしまったとしたら、本末転倒と言わなければならないだろう。

仕事の上でのつき合いは、仕事がうまくいくためだけだと考えるべきではない。むしろ、もっと深い人間と人間とのつき合いであることを考えていくべきである。それは、その人の人生を祝福し、その人に幸福をもたらすためなのである。そのことを考えないで、ただひたすら自分の仕事がうまくいくことだけを考えて、自分に利益のある人だけとつき合っていくというのでは、余りにも利己的なつき合いであるとは言えないだろうか。職場における人間関係も、同様に考え、ただ目先のことだけに捕われず、もっと高い見地から考えていくべきではないだろうか。

同じ仕事仲間、職場の友人と仲良くすることは良いことだが、単なる表面的なつき合いで終始したり、遊び友達程度のものであるとしたら、余りにも無駄をしているのではないかと思えてならない。時間という点からしても、限られた自分の精力という点からしても、無駄遣いをしているように思われる。このようなことを、はたしてどれだけの人が真剣に考えて、友達づき合いをしているだろうか。友達を作ることは良いことなのだが、一体心の友なのか、仕事上だけの友なのか、それとも友という名の利用価値にすぎないのか、よく考えてみる必要があるのではないだろうか。

この世の中において、人間関係は非常に重要だ。この重要な人間関係を決してテクニックなどで出来ると考えてはならない。心と心の深いところでつながり合う交わりであるべきだ。そういう友を作るためには、私たちがどういう心掛けで友達づき合いをするかによる。相手を自分の仕事上で利用価値がある人ぐらいにしか見ない場合には、結局のところ、心と心の触れ合う交わりにまでは要らないだろう。私たちが一生涯、広く浅く適当につき合っていればよいと考えているのであればまた別だが、もしも心と心の通い合う交わりにまで至る友を作ろうと考えるのであれば、あらゆる機会にテクニックではなく、誠実なつき合いをすることが必要だろう。つまり、相手のことを真剣に考えてあげることである。

仕事とつき合いは、どの程度に考えたらよいかという質問を受けることがしばしばある。その答えは、人間関係というものをどう考えているかというところに帰着するわけで、そこのところをよく考えてみることが大切だと思う。そうすれば、一時的なつき合いとしてではなく、生涯にわたるつき合いとして考えることが出来るだろうし、私たちが心の友を得る機会は、あらゆるところにころがっているとも言えるわけである。こちらが誠実に接することをしないで、相手にだけ誠実を期待し、要求することは、どだい無理なことだと思う。

仕事が終わった後、一緒に何かを見に行くとか、一緒に何かをするとか、あるいは一緒に旅行に行くとか、一緒に遊ぶといった程度のつき合いではなく、もっと深い人間関係を作り出していくことを私はお勧めしたいと思う。そして、そういう人間関係の中から、必ずキリストを仲立ちとした人間関係が生まれてくる。

ただ、この世のこと、仕事のこと、趣味のことなどだけでつながっている友ではなく、永遠に至る友が出来てくる必要がある。そういう友達関係は、私たちが誠実に生きるところから始まるはずだ。私たちは、クリスチャンとして何が一番重要なことなのかということを知っているわけだから、それを友達づき合いの中においても、ごまかしたりしないで、第一としていくべきである。そうした中から生まれていく友情こそ本物で、永遠に続くものであると思う。小さなことの中においても、よく物事を考え、意味のある行動をしていくのがクリスチャンであるとするならば、このように考え、行動するのは、当然のことではないだろうか。

ところで、あなたは本当の心の友を持っておられるだろうか。何でも話すことのできる友、相手が困っている時には、心底から愛を持って助けてあげることのできる友を持っていないとしたら、あなたの生き方のどこかに問題があるということを知ってほしいと思う。

2008年8月17日日曜日

職業について

職業選択を簡単にやってのける人がいる反面、将来の仕事について思い悩んでいる人も少なくない。私は元々数学が好きで、その上家の設計に興味を持っていたので、建築家を目指して、大学の建築科に入ったのである。ところが、大学へ入り、その年の終りにクリスチャンになり、しばらくすると、牧師になることが私の使命であることがはっきりしてきて、それまで専攻していた理工学部の建築科をやめ、文学部の西洋史専攻に変えることにした。私にとって最も苦手の、しゃべることと書くことを専門とする牧師への道は、確かに新しい分野への挑戦だった。語学や、暗記物と考えていた歴史が苦手の私が、進路を変えて、新約聖書の原語であるギリシャ語や、旧約聖書の原語であるヒブル語をやるようになった。やってみると結構面白く、使命が先行すれば、結構やれるものなのである。

私は、多くの人々に勧めたいのだが、大企業とか将来性のある職場を選ぶことも決して悪いことではないけれども、そこだけが仕事場ではないということである。むしろ、そうした安定した仕事場だけではなく、主が必要としておられる分野への進出ということが求められているのだということも覚えてほしいと思う。主が必要としておられる所なら、どこへでもいくというパイオニヤ精神が重要なのである。私はそういう人生を生きてきて、本当に充実した人生であったことを感謝している。

クリスチャンだけの職場も結構だ。積極的にクリスチャンとして新しい事業をしていくことは良いことだ。私もゼロからのスタートで開拓伝道をしたから、そのことが分る。しかし、クリスチャンだけの職場を求める心の中に、わずかでもその方が楽だと言う安易さがあるならば、それは大いに問題だと思う。そういう人がいくら集まった所で、何も出来ないだろうし、かえって主をあかし出来ない職場になってしまうだろうと思う。

ある人々は、クリスチャンになると、仕事の上でうそが言えなくなるから、クリスチャンになりたくないと言う。確かにクリスチャンはうそを言わない。正直である。それでは、うそを言わなければ仕事はうまくできないのかと言うと、それは間違いだ。仕事は、うそを言うことによってうまくいくのではない。むしろ、そういううそは、いつかはばれてしまうもので、けっして長続きするものではない。正直にやる方がはるかに得策なのである。

仕事がうまくいくかどうかは、うそを言ってごまかすところにあるのではなく、真に相手の立場に立ってものを考え、相手が得をしつつ、自分も得をするというやり方でなければ、けっして成功するものではない。

ごまかすことに頭を使うべきではなく、人々が必要とし、求めているものは何なのかということを考えて、ものを作り、売り、他の人に喜んでもらうことのために頭を使うべきなのである。

たばこや酒を飲むかどうかというところに、人とのつき合いの大事な点があるのではなく、人間としての誠実なつき合いこそ重要であり、お互いに信頼し合える関係を作ることが大切なのである。

ところで、クリスチャンのつき合いの場合、それはけじめのあるつき合いであるべきで、何でも相手のペースに巻き込まれてしまうようなつき合いであるべきではない。出来ることと、出来ないことをはっきり区別し、人間同士としてのつき合いをするべきである。酒が入らなければつき合えないというのは、人間としてのつき合いのどこかにごまかしがあるのであって、人間同士としてのつき合いを作り出していかなければならない。

今日、職業観が極めてあいまいになっているような気がしてならない。聖書からもう一度、正しい職業観を教えられる必要があるだろうと思う。

聖書の中には「召し」という言葉が二種類の意味で使われている。一つは「職業」を指し、もう一つは「救い」を指している。前者については、次の御言葉がそれを示している。
「使徒として召されたパウロ。」(ローマ1:1)

これは、使徒という働きに召されたという意味である。後者については、次の御言葉がそれを示している。
「神の賜物と召しは変ることがない。」(ローマ11:29)

これは救いへの召しである。この「召し」ということは、私たち人間の業によってそれがなされたのではなく、神が私たちをそこへ召してくださったという意味である。だから、職業は召しと言われるのだ。それはラテン語でも、ドイツ語でも、英語でも、フランス語でもそうである。英語やフランス語やラテン語ではvocationと言い、ドイツ語ではBerufと言う。つまり、ここで大切なことは、その仕事を私たちが選んだ場合でも、究極的には神が私たちをその仕事に召してくださったのだと言うことを自覚する必要があるのである。

2008年8月10日日曜日

働くこと

今日、働くことに喜びを感じなくなってしまった人が沢山いる。それは、働くことの意味や目的が分らなくなってしまったからだと思う。ある人々はこう考えている。遊ぶためにはお金がいる。だから、お金を得るために働くのだと。こういう人々は、主として独身者だろうが、遊ぶことが人生の目的ぐらいに考えているのだ。しかし、人生の目的は決して遊ぶことにあるのではない。

私たち人間は働く者として神によって造られた者たちである。だから、よほど疲れているか、体の具合が悪い人でない限り、横になって寝ていることはできない。疲れが取れ、病気が治れば、布団の中に入っていることが苦痛になってくるはずだ。働く者として造られた人間は、働かないではいられないのだ。ただ何のために働くのかという、働くことの意味や目的が分らなくなったために、働くことに苦痛を感じるようになってきた。働くことの意味や目的が分らなくなってしまったのは、人類が罪に陥ったからなのである。

さて、私たちが働くという場合、それにはどういう意味や目的があるのだろうか。それは、自分で考えても出て来るものではない。神が私たち人間をお造りになったという原点に帰って考えてみなければ分るものではない。それでは、それは何なのか。一つは、神の御業への参与である。神は天地万物をお造りになった後、すべての被造物を動かしておられる。この神の御業は、創造以来ずっと続いてきており、私たちはその御業に参与させていただき、この宇宙の完成に向っての働きの一端にあずからせていただくのである。

もう少し身近に考えてみると、私たちは働くことによって、誰かの役に立っているということを知らなければならない。たとえば、衣食住のことについて考えてみよう。もしもそれを全部自分でやるとしたら、大変なことだ。食べるご飯一つとってみても、それを苗代から始めて、田植、草取り、そしてようやく刈入れをし、脱穀をしても、それはまだ玄米である。たとい精白をしても、それだけではご飯しかない。

味噌汁が欲しければ、大豆を蒔き、収穫してから味噌を作らなければならない。けれども、それだけなら具のない味噌汁だ。あさりの味噌汁が飲みたければ、海へ行ってあさりを取って来なければならないし、わかめの味噌汁が飲みたければ、海の中のわかめを取って来なければならない。卵が欲しければ、鶏を飼わなければならないし、牛乳が飲みたければ、乳牛を飼わなければならない。鮪の刺身が食べたければ、大きな船に乗って、鮪を釣って来なければならないのである。

着る物についてはどうだろうか。肌着は木綿が良いと思えば、綿を栽培しなければならないし、そこでできた綿花を糸に紡ぎ、次に織らなければならない。織り方にもいろいろあって、平織でよい場合と、綾織にしなければならない場合と、メリヤスのように一種のニットにしなければならない場合がある。Tシャツなどは、メリヤスで作らなければならない。ウールのものを着たければ、綿羊を飼わなければならないし、化繊のものが着たければ、化学工場を作らなければならない。また、色物を着たければ、染色工場を作らなければならない。

しかし、これだけでは食べる物と着る物だけである。住む所となると、自分で木を切ってきて、組み合せ、建て上げ、屋根をふき、壁を塗り、棚や家具を作ることもしなければならない。

こう考えてくると、自分一人の力だけでは、到底何も出来ないことが分る。私たちは、何から何まで自分一人でやることは出来ないのである。だれかの厄介になっている。このことが分ると、私たちもまた、だれかの役に立たなければならないことが分ってくる。それが働くことの意味なのである。働くことによって、その仕事がだれかの役に立っていることが分ると、そこに働くことの喜びがあるはずだ。

ところが、今日一人一人の働きが、社会の大きな仕組の中の一つの歯車のようになってしまい、自分がだれかの役に立っているという感じが持てなくなってしまっているため、多くの人々は、だれかの役に立っているということが実感として湧いてこないのである。

それでは、私たちが自分の仕事を選ぶにあたって、どういうことを考えたらよいのだろうか。まず第一に、その仕事を通して神の栄光を現すことである。今日では、とかく人の弱みにつけ込んだり、余り感心しない仕事もないわけではない。そのような人間性に反する仕事を選ぶべきではない。

私たちが仕事を選ぶ場合、自分に与えられている賜物と関係のある仕事を選ぶのが普通である。たとえば、血を見ると、気分が悪くなってしまうような人は、医者には向かないだろうし、高所恐怖症の人は、高い所へ上ったり、そこで仕事をしなければならないような職業は避けた方がよいし、自分でも決してそういう仕事を選ぶことはないだろう。

2008年8月3日日曜日

結婚について 2/2

私たちがだれと結婚するかについては、神がすでに決めておられ、その人と結婚するわけである。そのことを、私たちはそれぞれ主体的に受けとめ、結婚することになる。このように主体的に自分で結婚の相手を決められる人が、実は一人前の人間なのである。両親を離れて二人が一体になれるためには、どうしてもこのように精神的に独立した一人前の人間であることが必要である。結婚の相手さえも親に決めてもらわなければならない赤ん坊では、とうてい結婚する資格などないと言ってよい。

ところで、結婚する人は、一人前の人間なのだから、結婚するにあたっては、当然、精神的にも経済的にも親から独立している人でなければならないはずだ。これができていない人は、結婚して、何か問題が起ってくると、すぐ親の助けを借りなければならず、夫婦の絆が揺ぎ出す原因を初めから作っていると言ってよいだろう。

結婚は、神によって定められている男女の二人が一体となることであり、それを神の御前において誓約するのが結婚式である。だから、結婚式の中心は、あくまでも結婚する二人の神の御前における誓約である。その内容は、相手が神によって定められている人であることの確認と、そのような人として生涯相手に対するということにほかならない。

しかし、神の御前で誓約しさえすれば、それで自動的に一体になれるのかというと、決してそうではなく、生涯、一体になることの努力が課題として与えられているのだ。それは、夫はキリストが教会を愛された愛によって妻を愛し、妻は教会がキリストに従う服従に倣って夫に従うことによってできる(エペソ5:22-33)。

こうして、クリスチャンは自分たち夫婦を結婚するように定めてくださった神がいかにすばらしいお方であるかを表す生活をし、今日、崩壊しつつある家庭を築く働きをし、また夫婦が相互に啓発し合うわけである。結婚には、このように宗教的、社会的、個人的使命があることを知り、それを果たしていくのだ。

今日どれほど多くの家庭が崩壊しているかということを知る時、恐ろしい気がしてならない。崩壊家庭が増えれば、青少年非行問題も増える。離婚が増え、その犠牲者が増えつつある今こそ、クリスチャンは本当の家庭を築いていくべきである。人間は皆エゴイストだから、いつも問題が起りがちだが、クリスチャンはこのエゴイズムの問題を解決した者たちであり、絶えず反省心を持っている者たちだから、問題が起った時、相手を責めるのではなく、自分自身反省すべきである。

クリスチャンの家庭にも多くの誘惑が襲い、危機とも呼ばれるべき時が来る。その時、二人が別々に考えたり、別々の方向に行動を起こしたりせず、それぞれが反省し、一緒に力を合せて乗りきることにより、揺るぎない家庭を築いていくことができる。

結婚とは、一人の人間と一人の人間とが裸になってつき合うことである。もしも私たちがそれを肉体的なことだけだと考えるとしたら、それは人間を偽って見ていることになる。人間は、霊肉両面あって初めて完全だ。つまり、結婚とは、全人間的なつき合いなのである。ここにおいてうまくいかなかったとしたら、一体ほかのだれとうまくつき合うことができるだろうか。ここにおいて真の人格的交わりが成り立たないとしたら、もはや絶望と言うほかはない。それほど結婚は重要なことだ。人間社会において、人格同士の交わりが重要であるとしたら、結婚はその基本なのである。

しかも、結婚そのものは神によって定められたことで、結婚する二人も神によって結婚するように定められていた者同士である。つまり、結婚というものは、あくまでも神から出たことであって、人間が自分たちで考えだしたことではない。だから、私たちは、結婚式という社会のしきたりが二人を夫婦にするのではなく、神が二人を夫婦にするのだということを覚えることが大切なのである。

そういうことになると、私たち夫婦が交わりを持つことが許されるのは、神の許しということ以外にはない。二人の愛ではない。もちろん二人が愛し合っているということは大切なことである。しかし、二人が肉体の交わりをすることが許されるのは、二人が愛しているからなのではなく、神が許してくださったからだ。そしてそれは、二人が神の御前で厳粛に誓約した時であることは言うまでもない。

ここに、私たちが婚前性交、婚外性交を認めない真の理由がある。神が許しておられないことを、どうして人間が行えるだろうか。どんなにもっともらしい理由をつけても、結局は自分のしたいことをするということに帰着する理論を認めることはできないし、人間の欲望が最終的判断の基準なれるわけがない。このように、キリスト教に立った結婚以外に、一体どこに聖い結婚、揺るぎない家庭というものがありうるだろうか。ここにまた、結婚の確かさがあるのである。結婚について、もっと知りたい方は、拙著「結婚の備え」(いのちのことば社)を参照されたい。