2008年3月30日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか8 - 罪意識を持っているから(1)

私たちの心の中に罪意識があると、私たちは本当に幸福であることはできない。カナダの精神医学者ペンフィールドは、大脳を手術している患者に対して、ある実験をした。そして、「人間の大脳皮質の中には、過去の一切の経験が、ちょうどテープ・レコーダーに録音されているように、正確に記録されている。もしもある個所に刺激を与えると、その時の感情をそのまま伴って、それを思い出すようになる」と言っている。

もしも私たちが何かのはずみで、その大脳皮質に刺激が加えられるようになると、ちょうど昔こわれたレコードが同じ箇所を繰り返し鳴らしたように、思い出したくないその出来事が、その時の感情を伴って思い浮かんでくるようになるというのである。本当に恐ろしいことである。そのために、ついに生きていくことができなくなって、自殺する人もいるのである。

私たちは普通、罪意識ということを考える時に、どういうふうにして罪意識を持つのだろうか。いろいろな場合があると思うけれども、普通私たちがなんでもなく過している時には、自分には何らかの値打ちがあるとか、あるいはだれかが自分に対して期待している期待に、ある役割を果している、というようなひそかな自信を持って生きているものである。だから、生きていけるわけである。

自分の家族が愛してくれている、だから、自分は愛される値打があるのだ、というようなひそかな自信を持っている。ところが、何かのはずみでその自信を失ってしまった時、たとえば、病気になった時とか、失業してしまった時とか、あるいは何か失敗をしてしまったというような時、家族のだれも今までのように自分を見てくれない、職場でも学校でも今までのように自分を見てくれない。それで、今まで持っていた自信がガタガタと音を立ててくずれていって、一人ぼっちになってしまう、という孤独の中に取り残された時、私たちは自分のうちにあった生存目標を失い、ただいたずらに過去を顧みて、悔恨の念に埋もれていくものだ。

その時、今まで気付かなかった、自分のありのままの姿に気付く。罪の問題にこうして私たちはぶつかっていく。自分がこんなに醜い者であったのかという自分の本当の姿をそこに見出す時、私たちは自分の前に自分が立つ瀬がなくなってしまうのだ。

2008年3月26日水曜日

健康について 4/8

1984年9月19日の日本経済新聞の朝刊は、当時国立がんセンターの疫学部長をしておられた平山雄博士が9月18日にまとめた疫学調査の結果の発表について報じていた。これは、生活習慣とがん発生率の関係について総合的に調べた調査であって、世界においても初めての疫学調査であった。ここで、非常に注目されるべきことは、緑の野菜ががんの予防にも消去にも大きな効果があるということである。これは、緑の野菜の中にある葉緑素にその効果があるということである。

それでは、その葉緑素とはどういうもので、どういう働きをするのだろうか。葉緑素というのは、植物の中に存在する、人間で言えば血にあたるものである。それは、植物と人間におけるそれぞれの役割が極めてよく似ているということと、この両者の化学構造が良く似ているということから、そのように言える。それだけでなく、葉緑素は、血液を新しく造り出す素材として極めて有効であるという研究がドイツのビュールギーとその門下の研究者によってなされたことが、この両者の関係を深めるのに役立った(1932年)。

葉緑素も血色素も、どちらもポルフィリン核構造をしていて、ただ違うのは、葉緑素の方は、中心原子がマグネシウムであるのに対して、血色素の方は鉄であるという点である。

葉緑素と血色素は構造が似ているだけでなく、その働きもよく似ている。葉緑素が行なっている光合成は、炭酸ガスと水を使って糖を作り出すわけだが、血色素が重要な働きを担っている体細胞の中の組織呼吸とはちょうど逆で、ここでは糖を水と炭酸ガスに分解し、その過程でエネルギーを引き出す働きをする。このことから分ることは、この両者は補い合うように出来ているということである。つまり、血色素づくりの母核としての物質、これが葉緑素であるわけである。

葉緑素は、疲労のために動かなくなった神経や筋肉、心臓の働きを回復させる働きをし、また理想的な制菌剤でもある。またがんにも効く。

葉緑素のポルフィリンは、人間の腸の壁を通して赤血球という赤い色素のヘモグロビンのポルフィリンに移行して行く。このヘモグロビンのポルフィリンは、体細胞の生存、とくに組織呼吸に主役を演じているヘミン酸素のポルフィリンとして受け継がれていく。だから、葉緑素の作用は全身的なものになり、緑の野菜を多く採る人は、がんになりにくいし、がんになっても治癒しやすいのである。

2008年3月23日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか7 - エゴイズムがあるから(2)

芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」という作品を書いて、人間のエゴイズムの問題をえぐり出すようにして描いている。自分だけが助かればよいという人間のエゴイズムが、いかに恐ろしいものであるかということを、この作品は私たちに訴えている。

ある日のこと、お釈迦様が極楽の蓮の池のふちをふらふら歩いていて、ふと下を見ると、蓮池の下の地獄で、かん[牛偏に建]陀多(かんだた)という男が、ほかの罪人と一緒にうごめいているのが目に留まった。このかん陀多という男は殺人をしたり放火をしたりした極悪人なのだが、それでも一つだけ善行をしたことがあった。それは、ある時、深い森の中で、小さな一匹の蜘蛛が路ばたをはっているのを見かけたのだが、かん陀多はその時、足を上げて踏みつぶそうとしたのに、ふと、これも小さいながら命あるものに違いないから、と思い返して、その蜘蛛を助けてやったことがあった。お釈迦様はそのことを思い出して、かん陀多を地獄から助けてやろうと考え、極楽の蜘蛛の糸をそっと地獄へ下ろしてやる。地獄の苦しみの中からその蜘蛛の糸を見つけたかん陀多は思わず手を打って喜び、その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐって登って行った。そして、やっと地獄から抜け出すことが出来そうになった時、ふと下を見ると、数限りもない罪人たちが、自分の登ってきたあとをつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へと一心によじ登ってくるのだ。自分一人でさえ切れそうな細い糸なのに、そんなに沢山の人がすがりついたら、きっと糸が切れてしまうにちがいない。そうすれば、折角ここまで登ってきた自分までもが、また元の地獄に落ちてしまわなければならない。とそう思ったかん陀多は、大声を出して叫ぶのだ。「こら、罪人ども、この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ。」すると、そのとたんに蜘蛛の糸はプッツンと切れて、かん陀多は再び地獄の底に落ちてしまったというのだ。

「自分さえ」というエゴイズムこそ、私たちの人間のありのままの姿ではないだろうか。初めのうちは対人関係の中で相手が悪いと言ってほかの人を責めるのだが、そのように相手を責め、自分への責任を回避しようという責任転嫁と自己弁護の中に、自分のエゴイズムがのぞいているのではないだろうか。

2008年3月19日水曜日

健康について 3/8

日本でも長寿村と呼ばれる所が以前には確かにあった。それは、山梨県棡原村(上野原市)である。そこを研究した東北大学名誉教授の近藤正二博士によると、その土地で取れた未加工の食品を食べていたからだと報告されている。その後、そこに住んでその研究を進めている古守豊甫博士の報告によると、棡原村では、以前は次のような物を食べていたということである。そこでは、米は取れないので、昔から粟、ひえ、きび、とうもろこし、そば、麦、大豆などの雑穀に、芋類(じゃがいも、さといも、さつまいも)、こんにゃく、かぼちゃ、そのほか野菜、山菜は、季節に応じて豊富に採っていたそうである。

粟、ひえ、きび、とうもろこしは餅について食べ、大麦は押麦にしたり、引き割りにし、腹もちがよいので重労働の時に食べたというのである。小麦は粉にして、ほうとう(これは、山梨の郷土食で、うどんを野菜と一緒に、いきなりみそ汁の中に入れて煮込んだもの)と、まんじゅうにして食べていたということである。

そして、動物性蛋白質の肉や魚は、ほとんど口にすることはなかったというのである。

ところが、この山村にも道路が整備され、自動車が通るようになると、肉や魚や白米などが持ち込まれるようになった。そうすると、若い人々の中では、肉食、白米食をする人が増えていった。その結果、どういうことが起ったかと言うと、そういう人々に高血圧の肥満者が目立って増え、脳溢血で倒れる人がどんどん出てきた。そして今日では、その脳溢血で倒れた人たちの面倒を、その両親達が見ている有様だというのである。

日本における有数の穀倉地帯には短命が多いと近藤正二博士は「日本の長寿村・短命村」の中で書いている。具体的には、秋田県、山形県が短命県なのである。米が豊富なだけに十分精白し、たらふく食べ、畑が少ないため、野菜類は必要量を満たしていないのである。米どころでありながら長寿村である鳥取県の大山町や、徳島県の藍園村、学島村などは、売り物である米は食べず、自分たちはさつまいも、麦などを食べ、田のあぜ道に大豆やニラなどを植え、畑で野菜を作るなどして、白米を食べずに、それらのものを十分食べている。

島根県の隠岐の島は沖縄と並び、健康長寿者の多い所だが、彼らは大豆製品を毎日食べている。豆腐、納豆、あるいは、つぶし豆を乾燥させた打ち豆などである。このように食べ物が人の健康に与える影響は極めて大きい。

2008年3月16日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか6 - エゴイズムがあるから(1)

エゴイズムとエゴティズムとは違う。エゴイズムは利己主義のことで、エゴティズムは自己中心主義のことである。この両者の違いについてまず説明し、エゴイズムが人間を幸福にしないのだということをはっきり覚えておこう。

人間はだれでも自分というものを持っている。自分がなくなったら、もはや生きていくことはできない。これは、自己中心ということである。私たちがそう簡単に死ねないのも、この自分というものがあるからだ。また主体性ということは、これに関係のあることで、自分というものがしっかりと確立していることを指している。だから、自己中心そのものを悪と考えるのは、早計で、悪いのは、自分さえよければいいと考えるエゴイズムなのである。

人間はだれでも幸福を求める。そのこと自体決して悪なのではなく、このような幸福追求は、自己中心ということから起ってくる。ところが、自分さえ幸福であれば、たといほかの人が不幸であっても構わないと考えたり、ほかの人の不幸の上に自分の幸福を築き上げようとするに至ると、これは明らかに悪であって、それこそエゴイズムの正体であると言ってよい。

さて、近代における人間性の探求は、人間をほかの人から孤立した人間として探求してきたところにある。自分をほかの人から切り離して、自分を自分たらしめる「自我」という抽象的な原理をそこに見いだし、その自我を無限に追求し、発展していくところに自分の幸福があるというふうに考えてきた。このような考え方は、結局のところ「自我」を絶対化してしまうことになり、ほかの人との間に心と心が通い合う交わりを生み出すことができず、孤独のどん底に自分を追いやる結果になってしまった。近代における自我の自覚から始まった自我追求が、今日一人一人に孤独を与える結果に終ってしまったことを指摘できると思う。

私たちは、自分がいかにエゴイストであるかということをよく知っている。エゴイストはいつも「自分さえ」という考え方をその根底に秘めている。だから、そういう生き方をしていると、ほかの人はすべて自分にとって利用価値のある者としてしか見ないため、本当の友人が出来ないだけでなく、夫婦の間においても、心と心の通い合う間柄が生れてこないのである。

2008年3月12日水曜日

健康について 2/8

病気というものは、現在約十八万種あると言われているが、それを要因という面から分けてみると、外因性の疾患と内因性の疾患とに分けることができる。外因性の疾患というのは、主として肺炎とか、赤痢とか、疫痢とか、コレラとか、チフスとか、結核などの細菌性の病気や外傷などがそうだが、こういう病気は、薬物療法や外科療法が進歩したために、それによって治療することができるようになった。ところが、内因性の疾患というのは、内的要因による病気で、患者自身の体質が大きな因子になっているものである。文明病と呼ばれるものは、そのすべてが実はこの内因性の疾患である。

最近では、平均寿命が延びたと言って喜んでいるけれども、実は乳幼児の死亡が大幅に減ったためであって、ほとんど変わっていないのが実状である。また、若い人々の体格が向上したと言われているが、体が大きくなっただけで、不健康な人がむしろ増えているというのが現実なのである。

最近では、脳溢血、がん、心臓病という文明病が死亡率の首位を占めているし、また、アレルギー性疾患、高血圧、神経痛、リウマチ、慢性内臓疾患、精神疾患は、うなぎのぼりに増加の一途をたどっている。

ところで、世界の長寿村と言われている所の人の中には、文明病と呼ばれる疾患が皆無であると報告されている。それには、ストレスのない自然環境ということももちろんあるけれども、食生活が重要な鍵となっている。

グルジア共和国と、パキスタンのフンザと、エクアドルのビルカバンバと、中国の新彊ウイグル自治区にある村、これらは世界の長寿村と言われている。

これらの村の人々が食べている食事には、共通したものがいくつもある。まず未精白の雑穀が主食。時には芋類を主食にしている所もあるが、未精白の穀物が中心である。それに副食は、植物性食品が主体で、それも新鮮な物で、自分たちの手で作っているものだ。肉類はごくまれで、しかも極めて少量しか採らない。さらに、新鮮な果物やナッツ、また発酵食品が採られている。それに、薬草が用いられている。

この長寿村というのは、地理的にもお互いに遠く距っているが、それぞれの村には、百歳を越える人が何人もいる。それほど食べ物は、私たちの健康に影響を与えていることが分る。

2008年3月9日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか5 - 心の中に恐れ、不安、憎しみ、ねたみがあるから(2)

フィリピンの首都ケソン市にベルナード公園という大きな公園があって、そこで四十八年前に大きな集会があった時ことである。ケソン市の合同聖歌隊やフィリピンの軍楽隊のブラス・バンドが大合唱する中で、集会は進められていった。

私は初めに、自分がなぜフィリピンに来たのかという話をした。戦時中、日本の軍人がフィリピンに行き、ずいぶん残虐な行為をしたのである。そのために私は謝罪に行ったのである。

集会が終わり、私が壇を下りて行くと、沢山の人々が寄って来た。その中に、二人の婦人がいて、そのうちの一人の婦人が隣の婦人を説明して、こう言った。「この人は、実はクリスチャンではなかったのです。」そこまで言うと、当の本人が続けてこう言った。
「実は、私は日本人を憎んでいました。夫も父親も私の見ている前で、日本の軍人に虐殺されたのです。ですから、私は日本人を憎むのは当然だと思っていたのです。そういうわけで、もしも今晩、日本人の先生がお話になることが分っていたら、私は決して来なかったでしょう。けれども、新聞にも載りましたし、この奥さんがしきりに勧めるので、私は来たのです。

プログラムが進んで、日本人の先生が話されると紹介された時、私は、ああ来るんじゃなかった。と思いました。けれども立錐の余地のないほど多くの人々が詰めかけておりましたから、帰ることができませんでした。私は聞くまいと思い、努力をしました。けれども、聞こえてきてしまったのです。

先生の話を伺っているうちに、私は日本人を憎んできたのは当然のことだと思っていたのに、それが間違っていたのではないかというような思いが浮かんできたのです。そして、日本人を赦さなければいけないのではないか、という思いが続いて起こってきました。そうだ、赦そうという気持ちが湧き起こってきたのです。そして、私が日本人を赦そうと決心した時に、私の心の中からすべての重荷が取り去られてしまいました。先生。今まで私が不幸であったのは、あの日本の軍人のせいだと思っていました。けれども、今初めでそうでないということが分りました。私が日本人を憎んでいたことが、私を不幸にしていたのです。」

2008年3月5日水曜日

健康について 1/8

私は二十数年前、心筋梗塞の一歩手前まで行ったことがあった。その時、医者の処方してくれる薬を忠実に飲んだのだが、一向に良くならなかった。そんな時、ある人のアドバイスで食事療法なるものを知り、それで完全に良くなった。そのことを契機として、病気のことや健康のことについて関心を持ち、勉強し、かなりのことを知るようになった。それをもとにして、健康について、私の考えを述べさせていただきたいと思っている。

人間、健康であるということは健全なことであり、正常なことなのだが、案外、不健康な人が多い。私も以前はそうであった。健康については、ほとんど関心がなかった。だから、病気になるのは当り前のことであった。

ところで、健康であるためには、四つのものが必要なのである。まず何よりも心に平安を持っていること。内臓の働きは、精神的な影響を受けやすく、ことに胃腸の働きはそうだ。だから、いつも心に平安を持ち、リラックスした気持が大切なのである。次に言えることは、十分な休息である。つまり、睡眠を十分にとることだ。そして、その次に、適度な運動を続けることである。そして、最後に、正しい食事をすることだ。日本人には、日本人に適した食事があって、体もそのように造られてきているから、未精白米(玄米)に菜食がよい。日本人の腸は欧米人の腸の倍近くあるので、菜食がよい。そうでないと、動物性食品(肉類)から出る有害物質(アシン、アンモニア、硫化水素、フェノールなど)が腸内にたまって、がんになりやすくなるのである。

この四つのもののうち、適度な運動と十分な睡眠については、どんな人でも良く知っていて、熱心に励行している。ところが、正しい食事と心の平安については、かなりの人が無知である。どんなによく睡眠を取り、毎日のように運動をしていても、悪いものを食べていたら、不健康になるのは当り前のことである。食品添加物の恐るべき有害物質については、「食品の裏側」(安部司著、東洋経済新報社)にくわしく記されている。また、四白の害(白米、白砂糖、食塩、化学調味料)についても知っておく必要がある。人間の体を形造っているのは食物なのだから、これについては無知でいてはならない。

ところで、たといこの三つを守っていたとしても、いつも心がイライラしていたら、必ず病気になってしまう。この四つのどれもが健康保持には必要不可欠な要素なのである。

2008年3月1日土曜日

人間はなぜ幸福でないのか4 - 心の中に恐れ、不安、憎しみ、ねたみがあるから(1)

私たちの心の中に何かに対する恐れや不安があると、幸福ではない。心理学者は、恐れと不安の使い分けをしている。対象のはっきりしているものに対する場合は恐れと言い、対象のはっきりしていないものに対する場合は不安と言う。だから、死に対しては恐れであり、将来に対しては不安なのである。また自分の身体がよくないことから、これから先どうなって行くのかが分らないことについての不安もあるかもしれない。

人間は、幸福であるときには、生命の流れがスムーズだ。その時、人間は幸福感を味わう。それにひきかえ、過去の出来事に縛られていて、そのことで心に自由がなくなると、人間は不自由になり、幸福でなくなってしまう。

また、私たちの心の中に、だれかに対して憎しみや恨みがあると、やはり幸福ではない。いつでもそれが心に引っ掛っているからだ。「あの人が、あん畜生が」という思いがあれば、私たちは幸福であることはできないに決まっている。

もし、私たちがだれかを憎んでいるとしよう。そしてその原因はその相手の人にあったとしよう。けれども、今、私たちが不幸であるのは、その原因が不幸を作っているのではなく、私たちがその人を憎み、恨んでいるからであり、そのために不幸であり続けなければならないのである。

今から48年前のことだが、私は日本人がアジアの人々に行ってきた残虐行為について謝罪するためにフィリピンへ行ったことがある。その時、ギマラスという小さな島へ行ったことがあった。そこで一人の少年に会った。少年は父親を日本兵によって殺されたということであった。だから、私に襲い掛ってきた。私はその少年に心からの謝罪をした。

その翌朝のことであった。私がその島を発とうとする時、彼が私の所へ飛んで来て、こう言うのであった。
「僕は一晩中祈っていたんだけれど、僕は親父を殺した日本人を赦すことができるようになったんです。だって、僕のようなものをもイエス様は赦してくださったんですから。」

その時、見るともなしに見た彼のほほには、大粒の涙が光っていた。それがちょうど昇って来た朝日にはえて、美しく輝いていた。私はあのときの彼の顔を今でも忘れることができない。