2009年1月11日日曜日

クリスチャンについての誤解

クリスチャンと言うと、酒やたばこを飲まない人というイメージが、わが国では強い。しかし、今日では、酒を飲む人はいても、たばこを吸わない人は、ノンクリスチャンの中にもいるから、これらのことだけで、それがクリスチャンであるということにはならないだろう。

クリスチャンであるということを決定するのは、その人がどういうことをしているかということよりも、その人がどういう人であるのかということが重要だ。人格的に立派であると言ったところで、人格的に立派に見えることをしているということにすぎない。だから、必ずしも内面的なことを言っているわけではないだろう。

それでは、クリスチャンとは、どういう内面的な事実を持っている人なのかということについて考えてみることにしよう。聖書では、クリスチャンとは、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きた人だと教えている。それでは、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きるとは、どういうことなのだろうか。クリスチャンとは、信仰によってキリストと結び付けられた人のことである。キリストは私たちの罪を身代りに背負って、十字架上で死んでくださった。私たちが信仰によってキリストと結び付けられると、私たちの古い人は、キリストと共に十字架上で死んでしまったのだ。また、キリストは死人の中から復活されたので、私たちが信仰によってキリストと結び付けられると、キリストと共に新しい命が与えられる。これを生れ変りと言うのである。

そのしるしとして、私たちはバプテスマ(洗礼)を受ける。だから、洗礼を受けたかどうかが、クリスチャンであるかどうかを決定するのではない。むしろ、クリスチャンであるかどうかを決定するのは、生れ変ったかどうかということである。だから、キリストと結び付くバプテスマによって生れ変るということが大切であり、クリスチャンは皆この経験をしている人である。そういうわけで、いくら水の洗礼を受けたとしても、その実質であるキリストと結び付くバプテスマを受けていなければ、クリスチャンとは言えない。この生れ変りの経験は、必ずしも劇的な回心を意味するものではない。しかし、今キリストを自分の救い主と信じているのであれば、その人は生れ変った人である。