
苦しみの原因は、その多くは分らないのだ。だから、その苦しみもひとしお大きくなるわけである。原因が分かっていて、そのためにその苦しみを経験しているというのであれば、まだまだ耐えやすいに相違ない。
それでは、聖書は苦しみの原因について、どのように教えているのだろうか。具体的なこの苦しみは、具体的なこの罪の結果であるというようには教えていない。しかし、苦しみが私たち人類の社会に入って来たのは、罪の結果であることは確かなのである。人類が罪に陥った結果、その罪の刑罰としての呪いが下り、苦しみが人類の中に入って来たのである。
今日、一人一人がバラバラになってしまったのも、耐えがたい孤独に陥っているのも、幸福であるべき結婚が不幸な結婚に終わるのも、すべて罪がこの世に入って来たからである。
また、多くの人は自己本位の生き方をしている。だれも自分のことを考えてくれないという悩みは、まさにそれを言い当てている。自己本位の生活は、いつでもお互いに対する不信感になって表れる。自己保身のとりこになると、自分一人が生きるために、ほかの人を殺すことさえしかねない。自己本位の生活は、いつでも優越感か劣等感のとりこになる。ほかの人が自分よりも劣っていると思うと、優越感を持ち、ほかの人が自分よりも優れていると思うと、劣等感のとりことなってしまう。また自己本位の生活は、いつでもほかの人に責任転嫁をし、自己弁護をしてはばからない。
こうしたことはすべて罪の結果である。わがままで、自分さえ良ければそれで良いと考えるエゴイズムの罪がなければ、何も悩んだり苦しんだりすることは起こってこないのである。