2007年8月15日水曜日

実存的問題-苦しみ 2/4

苦しみの問題を取り扱おうとすると、日本人の中には決まって因果関係を持ち出して来て、これを説明しようとする人がいる。いわゆるバチの思想がそれであると言ってよいだろう。今苦しみに遭っているのは、それ以前に、その人か祖先かのだれかが何か悪いことをしたという原因があるからで、そのバチが今当たったのだというわけである。しかし、このような考え方における根本的な欠陥は、私たち人間が何から何まで全部分るのだという前提を持っているということだ。しかしその実、私たちはほとんど何も知らないのだと言ってよい。知りもしないのに、あたかも何もかも見通しだと言わぬばかりに安易な因果関係で説明しようとすることは、全く傲慢のそしりをまぬがれない。

苦しみの原因は、その多くは分らないのだ。だから、その苦しみもひとしお大きくなるわけである。原因が分かっていて、そのためにその苦しみを経験しているというのであれば、まだまだ耐えやすいに相違ない。

それでは、聖書は苦しみの原因について、どのように教えているのだろうか。具体的なこの苦しみは、具体的なこの罪の結果であるというようには教えていない。しかし、苦しみが私たち人類の社会に入って来たのは、罪の結果であることは確かなのである。人類が罪に陥った結果、その罪の刑罰としての呪いが下り、苦しみが人類の中に入って来たのである。

今日、一人一人がバラバラになってしまったのも、耐えがたい孤独に陥っているのも、幸福であるべき結婚が不幸な結婚に終わるのも、すべて罪がこの世に入って来たからである。

また、多くの人は自己本位の生き方をしている。だれも自分のことを考えてくれないという悩みは、まさにそれを言い当てている。自己本位の生活は、いつでもお互いに対する不信感になって表れる。自己保身のとりこになると、自分一人が生きるために、ほかの人を殺すことさえしかねない。自己本位の生活は、いつでも優越感か劣等感のとりこになる。ほかの人が自分よりも劣っていると思うと、優越感を持ち、ほかの人が自分よりも優れていると思うと、劣等感のとりことなってしまう。また自己本位の生活は、いつでもほかの人に責任転嫁をし、自己弁護をしてはばからない。

こうしたことはすべて罪の結果である。わがままで、自分さえ良ければそれで良いと考えるエゴイズムの罪がなければ、何も悩んだり苦しんだりすることは起こってこないのである。