2008年6月17日火曜日

祈りについて4

祈りが神との会話であるなら、神とお会いしないまま祈り始めても、それは本当の祈りとは言えないだろう。神の臨在を覚えるまで待つことだ。この体験をするところから、実は祈りが始まるわけで、これを体得しなければ、祈りを体得することはできない。

神の臨在を覚えるために、私は賛美することを奨める。この賛美は、信仰の体験を歌った賛美よりも、神を直接あがめる賛美(プレイズとかワーシップと呼ばれるもの)がよい。それを心から賛美することだ。一回だけでなく、その賛美の歌詞が自分のものとなるまで何回でも繰り返し歌うことだ。

心から賛美していると、雑念は去り、悪魔もそこにいたたまれなくなり、賛美のうちに住まわれる主がご自身を現してくださるのだ。その時、その主に話し掛けるのである。
「私の魂は、ただ神を待ち望む。」(詩編62:1)

神を待ち望むところから祈りは始まる。

祈りの勇者は、祈り始めると、すぐ神との交わりの中に入ることができる。しかし、信仰生活の初歩にある人は、なかなか神との交わりの中に入ることができない。時間がかかる。そういう人は、少し時間を取って、徹夜するくらいの意気込みで始めることが必要だ。祈りは口先だけで何かを言うことではない。神との交わりである。だから、神の臨在を覚えるまで待ち望むことが必要だ。そして訓練していくことによって、短時間で主との交わりに入ることができるようになる。そうなるまでに多くの時間を使わなければならないことになる。しかし、たとい祈りに入るまでに多くの時間を使ったとしても、本当の祈りが持てれば、それは本当にすばらしいことである。

「静けき祈りの時はいと楽し」という賛美歌があるが、これは元々"Sweet hour of prayer..."という歌で、直訳すれば、「祈りのすばらしい時よ」ということになる。この賛美歌の作者は、祈りのすばらしい時、それは神との本当の交わりの時だと歌っているのである。これを一度でも経験したら、そのとりこになってしまい、これから離れることができなくなってしまう。残念ながら、多くのクリスチャンはこれを知らない。だから、信仰生活が無力なのだ。喜びがなく、力がない。信仰生活の力と喜びの源泉は神にあるからだ。簡単に信仰をやめたり、教会から離れたりするのは、このすばらしい祈りの時を味わったことがないからだ。このすばらしい味を一度でも味わったら、信仰がバックスライドしたり、冷たい愛のない態度を取るはずがない。さらに詳しく知りたい方は、拙著「新版・ほんとうの祈り」(羊群社)を参照されたい。