2008年6月29日日曜日

死とは何か

死は何かと聞かれれば、生命活動の停止のことだと答えることができると思う。ところで、ただそれだけではない。

聖書を見ると、「死」と言う場合、三つの死がそこに表わされている。第一は、「肉体の死」で、これはだれにでもよく分る。普通「死」と言えば、このことである。ところで、聖書では、それとは別の死を述べている。その一つは、「霊的死」である。これがなかなか分りにくいのだが、聖書は次のように述べている。
「あなたがたは、以前は、自分の持っている罪のために、神から離れ、道徳面で無力な死んだ存在であった。」(エペソ2:1)

「道徳面で無力な死んだ存在」とはどういうことかと言うと、善いことが何であるかが分っていても、それを行なうことができなくて、悪いことを行なってしまうということだ。たとえば、学校でほかの人が試験の時にカンニングしている時、それが悪いとは思いつつも、自分もやってしまうということを考えてみると、よく分ると思う。つまり、この世の流れに流されてしまうのが、その特徴であると言うことができるだろう。

川の流れを考えてみたらよく分る。命のあるのものは、どんなに流れが急であっても、流れに逆らって上流に行くことができる。鮎でも鯉でも鮭でもみなそうだ。ところが、命のないものは流されていってしまう。

この世においても、霊的命のあるなしは、その流れに抗して立ちうるか、それとも流れに流されるかによって決ってくる。学生時代この世の流れに流されつけてきた人々は、社会に出ると、同じような生き方をしてしまう。職場ぐるみで不正がなされている時、「ノー」と言うことができないため、後でその不正がばれた時、その不正をした人たちの中に入ってしまうことになるのである。その時になって後悔してももう遅いのである。これが、霊的に死んでいる人の姿であると言うことができる。

ところで、もう一つの死がある。それが「永遠の死」なのである。死ということを存在の絶滅と考えている人にとって、永遠の死とは永遠に存在を失うことだと考えやすいのだが、そうではなく、永遠に存在し続けるのだが、祝福の源である神から永遠に切り離されることなのである。これほど恐ろしいことはない。

この世においては、生きていくのに苦しくなると、自殺をしたり、あるいは発狂することがある。しかし、この永遠の死というのは、自殺することもできず、発狂することもできない。苦しみを永遠に味わい続けなければならないのである。これほど恐ろしいことがあるだろうか。

聖書が「命」とか「死」と言う場合、それは単に生命活動の有無を意味しているのではない。命は神の祝福を表わし、死は呪いを意味する。だから、永遠の死とは、永遠に呪われ続けるということであり、永遠の命とは、永遠に神の祝福を受け続けるということである。

最初の人アダムが罪を犯したことによって人類に死がもたらされたと聖書は教えている。
「一人のアダムによって罪がこの世界の中に入って来、罪の結果、死が入って来た。そしてすべての人が罪を犯したので、死は全人類に広がっていった。」(ローマ5:12)

それでは、アダムが罪を犯さなかったら、アダムは永遠に生きることができたのであろうか。そんなことはない。神の披造物には、皆初めがあると共に終りがある。つまり、罪を犯さなくても、自然的死はあったはずである。アダムが罪を犯したことによって死が入って来たという場合、その死は罪の刑罰という意味での死であった。すべての人が死を恐れるのは、その死のことなのである。

クリスチャンは罪赦されたことを自覚している人々である。それなのに、なぜクリスチャンも死ぬのかと思う人がいるかもしれない。それは罪の刑罰としての死なのではなく、自然的死にほかならない。罪の刑罰としての死はもはや取り去られた。だから、クリスチャンにとって、死は肉体から解放されて、天国へ行く門口という意味になったのである。そういうわけで、クリスチャンはもう死を恐れない。恐れないどころか、天国へ行って、愛する主イエス・キリストのみもとにいつまでもいることができる契機なのである。これはどすばらしいことはないわけである。

クリスチャンはもはや死を恐れない。この世において与えられている使命を果すため、一生懸命毎日やっているが、主が「もうそれで十分だから、こちらに来て、休みなさい」と仰せられ、天国へ招いてくだされば、喜んで主のみもとに行くまでである。いつ死んでも、天国へ行くことが確かであるので、今の時を力一杯生き、使命を果すことができるのである。

死んだらだれでも天国へ行けるのではない。罪を持ったまま天国へ行くことはできない。
「罪や欲望を持ったままでは決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。」(マタイ7:13)