2008年7月13日日曜日

キリスト教の葬式

クリスチャンの葬式は、そこにクリスチャンの死についての考え方がはっきり表れている。私たちは、死を暗いじめじめしたものとは考えない。むしろ天国を思わせるような美しい花で飾り、神を賛美し、神の言葉である聖書から、遺族や参列者に対する慰めや勧めの言葉が語られる。死んだ人はもうそこにはいない。そこにあるものは、死んだ人の遺体で、死んだ人の霊はもうそこにはいない。だから、死んだ人の霊を慰めるとか、その人を祀るのではない。その人の霊は、もうパラダイスにあって、神とのすばらしい時を持っている。

クリスチャンでない人は、死んだ人の冥福を祈ったり、成仏するようにと祈ったりする。けれども、クリスチャンは、人が死んだとき、その人の生前の生き方によって、パラダイスかハデス(よみ)かにはっきり分かれてしまい、私たちが何かをすること、その人をパラダイスへ行くようにすることはできないことを知っている。だから、人の死後、冥福を祈ったりしない。葬式は、死んだ人の運命を左右するためのものではなく、むしろ遺族、知人、友人のため、つまり生き残っている人々のためなのだ。その人々がやがて自分の身の上にも起こって来る死に対して、心の備えができるようにという目的がある。

死んだ人の運命を左右するのは、今生きている人なのではない。死んだその人自身なのだ。その人が生きていた時、神のご好意として用意されていた救いを受け入れたか、それとも拒絶したかに掛っている。だから、葬式もおのずとそのことを表すことになる。

クリスチャンにとって、葬式は、最後の証の場でもある。自分がクリスチャンであったということを、他の人に知っていただく良い機会である。だから、そのような準備をあらかじめしておくことが必要だ。葬式に限らず、人が死んだ後は、とかくごたごたが起りがちだ。それは、生前、自分の身辺のことについて、きちっとした整理ができていなかったがためだ。遺産の問題を始め、いろいろな問題が起りがちだ。そういうわけで、問題が起きないように、よく処理しておくことが大切だと思う。それだけではなく、葬式のことについても、はっきり指示しておく必要がある。

キリスト教の葬式は、普通、葬式とその前夜行われる前夜式がある。前夜式というのは、仏教式で行われるお通夜とは違い、夜通し眠らずに行うのではない。一定の時間を限って行う。賛美、祈り、聖書朗読、説教が行われる。その後、故人の思い出話をしながら、個人をこの世に送り、天に取り上げられた神に感謝する時を持つのもよいことだと思う。最近では、翌日の葬式に来られない人が前夜式に来るため、葬式よりも多くの参列者があることが多くなっている。

葬式は、死んだ人をこの世に送り、天に取り去られた神を礼拝する礼拝である。死んだ人を拝んだり、その人が天国へ行けるように祈る行事ではない。その人が生前イエス・キリストの救いにあずかっていたのであれば、当然パラダイスに行ったのであり、今さらそうなることを祈る必要など毛頭ない。むしろ、後に残された遺族を慰め、励まし、またそこに列席する故人の知人、友人などに、やがて迎えなければならない自分の死に対する心の備えをするように勧める時でもある。

したがって、葬式は棺に納めた遺体を正面には置くけれども、その周りを生花で飾る。キリスト教の葬式では、造花は使わない。そして、花につける名札も取ってしまう。人間が前面に出て来るのではなく、神が前面に出てくるべきだからなのである。周りの壁は、天国を思わせるように白布で覆い、余計なものはなるべく置かない。後で献花をする場合には、献花台を用意しておく必要がある。

葬式の日取りだが、死んでから二十四時間経たないと火葬することはできないので、そのことはあらかじめ承知しておかなければならない。火葬場は普通、友引の日が休日だから、その日に火葬場へ遺体を持って行くことはできない。だから、葬式の直後、火葬場へ遺体を持って行く場合には、友引かどうか調べておかなければならない。葬儀屋に聞けば分ることだ。クリスチャンは、もちろん友引など問題にすることはないのだが、火葬場が休みではどうにもならない。

ところで、葬式の式次第は全部、司式牧師にお任せしなければならないのだが、その中で弔辞を述べる箇所がある。その時、世間一般では、そこにある遺体に呼びかけるような言い方をするが、クリスチャンの場合、「あなたは・・・」などと言うべきではなく、「○○さんは・・・でした」というように話すべきである。故人はもうそこにはいないのだから。献花をするのは、故人に対する愛惜のしるしであって、それをすることによって、故人の霊を慰めたり、故人に拝礼をすることではない。この件に関してさらに詳しく知りたい方は、拙著「死への備え」(いのちのことば社)を参照されたい。