2008年7月20日日曜日

男と女

人間はだれでも男か女かとして生まれてくる。男でも女でもない人間などどこにもいない。しかも、だれ一人としてこれを自分の意志で選び取ったわけではない。皆、この世に生まれてきた時、男か女かであるのだ。こういうことを考えてみると、この世の中には、自分の意志だけで決めることができないものがあるのだということに気付かざるをえない。何でも主体性を持って生きていこうとすることは、決して間違ったことではなく、依頼心を持って生きていくよりははるかにましな生き方だと思うけれども、何から何まで自分の意志で決められるものではないことの証拠が、出生において出て来ることを知らなければならないだろう。

それなら、私たちが男として、あるいは女として生まれてくるということは、だれが決めたのだろうか。親であるとも言えない。親はもしかしたら、次に生まれてくる子供を、その前の子とは反対の性を考えていたかもしれない。私の知っている人で、六人姉妹の人がいる。親は、今度こそ男であるようにと願ったのに、生まれてきた子供は六人とも女の子だったのである。だから、親の意思によって性別が決まるわけではないことは明らかである。

私たちが男か女かとしてこの世に生まれてくるのを決定したのは、人間ではなく、私たちに命を与えてくださる神なのである。性ということだけに限って考えても、そのことはよく分る。毎年生まれてくる赤ん坊は、男女共ほぼ同数であるということは、人間のだれがそんなことをすることができるだろう。丙午(ひのえうま)の年に生まれる女の子は結婚してくれる人がいないといった迷信は、今でもかなりの人が信じているらしく、その年の子供の出生数は極めて少ない。今年四十二歳になる人がそうなのだが、その年は他の年と比べると、極端に少ないのだ。しかし、少ないけれども、それは女性だけではなく、男性の方も少なく、男女の比率はほぼ同数なのである。人間がいくら小細工をしても、神のなさることは依然変ることがないということを、この事実ははっきり示しているのではないだろうか。

だから、私たちは、この事を厳粛に受けとめる必要があると思う。つまり、私たちは神によって男か女かに召されたのである。このことが分ると、男として召された人はそのことを、女として召された人もそのことを自覚し、神が召してくださった以上、そこには与えられた使命があるのだということを自覚することができ、そこに男の生きがい、女の生きがいを見出すことができると思う。

今日なお男女間に差別があることは事実である。それゆえ、女と生まれてきて、損をしたとか、貧乏くじを引いたと感じている女性がいることも事実である。男女間の差別撤廃のために私たち男性が力を尽すことは当然のことだが、それと同時に、女性自身が生きがいを見出す努力をすることも必要だと思う。

女性の生きがいは、女性としての誇りから生まれてくるのではないかと思う。女性でなければできないものがあることの自覚から始まるだろうと思う。その重要なものの一つは、女性が子供を産むということである。どんなに時代が変り、あらゆるものが進歩していったとしても、男性が子供を産む時代は来ない。もちろん、女性だけに子育てを任せてしまうことがよくないことは十分分っているつもりだが、授乳、子育ての中心は母親である女性なのである。だから、女性は幼い頃から母性本能を持っている。ままごと遊びをしている時、女の子はいつも人形を赤ん坊にしつらえ、母親として面倒を見ようとしている。この女性にしかできない仕事の中で最も重要な子育てこそ、次代を背負う子供を育てることになるのである。次の時代などどうなっても構わないと考える無責任人間ならいざ知らず、次の世代の責任を感じる人なら、この世のいかなる仕事よりも重要な子育てに誇りを持たなければならないだろうと思う。

こうした女性の生きがいは、どこから生まれて来るのかといえば、自分が女性として召されているということの自覚からだと思う。神がこの尊い働きへと自分を召してくださったのだという自覚からである。

子育てをだれにでもできる簡単な働きだと考え、それよりも社会に出て、社会に貢献する働きをしたいと考える人が案外多いようだが、私は人間を育成する働き以上に大切な働きはないのだと言いたい。社会で働く働きは、同じ能力を持っている人ならだれでもよいのだが、子育てはそうはいかない。その子供にとって世界広しと言えども母親はただ一人しかいない。その人の愛情がなければ、健全な人格を持った人には育っていかないのである。

神が私たちを男か女に召しておられるということが本当に分ってくると、私たちにはそこから自ずと男の生きがい、女の生きがいが生まれてくる。そして男だけ、女だけの働きと同時に、男と女の協力なしでは出来ない働きがあるのだということも分ってくるはずだ。