2008年10月19日日曜日

信仰の分りにくさ

この前、健康であるためには、ストレスをまともに受けないようにすることが大切だと言った時、嫌な事、耐えられないことが起ってきたら、主イエスのみもとに行って、その心の重荷を下すことだとも言った。

ところで、「主イエスのみもとに行く」とか、そこで「心の重荷を下す」とは、具体的にどうすることなのかということについてお話したいと思う。これは、キリスト教信仰を持っている人々にとってはよく分ることなのだが、信仰を持っていない人にとっては、何のことなのか、さっぱり分らないだろうと思うからである。

主イエスは、神であられる方なのに、私たち罪に陥った人間を救うために、天から降りて来られ、私たちと同じ人間となってくださった。そして、地上生活をされた後、私たちの罪を身代りに背負って、十字架上でその罪の刑罰として、神の裁きを受けてくださった。それから三日目に死人の中から復活して、天に帰っていかれた。天と言うと、何かはるかかなたにあるように思うかもしれないが、次元が違うだけで、私たちのすぐそばにあると言ってもよい。その主イエスが、今私たちを助けようとして、私たちのすぐ近くにいてくださるのである。私たちがそのことを自覚するかどうかにかかわりなく、すぐそばにいて、私たちを助けようとしておられるのである。

その主イエスが、「疲れている人や重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)とおっしゃっておられるのである。だから、私たちのすぐそばにいて、私たちを助けようとして待ち構えてくださる主イエスに心を開いて、自分の思い煩いをありのままに申し上げればよいのである。ちょうど小さな子供が、自分よりも少し大きな子供に、理不尽なやり方でいじめられた時、母親のもとに行って訴えるのと同じである。難しいことをするのではなく、自分の心の中に今ある重荷、思い煩いをそのまま主イエスに申し上げるだけでよいのである。

このことを一度でもやって、心の平安が与えられるという経験をしたら、このすばらしい体験を決して手離すことなどできなくなるに相違ない。それでもまだよく分らない人のために、もう一つの例を挙げて説明しようと思う。私たちは毎日呼吸をしている。ほとんど意識することなく、呼吸している。しかも、だれ一人としてそのために努力している人はいない。なぜなのかと言うと、私たちの周りには大気の圧力があって、必要な空気を体の中に入れようとしているのである。だから、呼吸器を開きさえすれば、空気は私たちの肺の中に入ってくるわけである。むしろ呼吸をとめようとする時でないと、努力する必要はない。これと同じで、主イエスは私たちを助けようとして、私たちのすぐ近くにいてくださるのだ。だから、主イエスに心を開きさえすれば、主イエスは助けてくださるのである。

そこで、次に問題になることは、主イエスは本当に信頼できるお方なのかということになるだろう。本当に信頼できるお方なら、そうできるけれども、はたしてどうなのかということが当然問題になることだと思う。だから、信仰における課題は、信仰する対象をよく知ることにあると言えると思う。

「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の歌に表現されているように、日本人の場合、信じる対象を余り問題にしない。いわしの頭でも何でもよいのである。これで、はたして大丈夫なのだろうか。

もしも私たちが、なけなしのお金を預ける場合、金利の高いことだけに釣られて、お金を預けるだろうか。月一割の金利を払ってくれるというふれこみに釣られて、なけなしのお金二千万円を預け、一ヶ月目に行くと、その一割の二百万円の金利をくれた。二ヶ月目に行くと、また二百万円の金利をくれた。この分で行くと、一年も経たないうちに元は取れてしまい、元金と合せると、倍になってしまうと思い、三ヶ月目に行ってみると、もうそこはもぬけの殻、近所の人に聞いてみても、どこへ行ってしまったのか、だれも知らないと言う。そんな所へ、大切なお金を預ける人がいるだろうか。たとえ金利は低くても、安心できる金融機関に預けておくのではないだろうか。

ところが、お金よりももっと大切な自分の命を、相手をろくすっぽ調べもしないで、そこに預けておくということほど愚かなことはあるまい。信仰において大切なことは、だれを信じるかである。信じて、本当に救ってくださるお方なのか、どうかである。つまり、信仰において重要なことは信仰する対象なのである。

だから、主イエス・キリストというお方がどういうお方なのかということを調べる必要がある。アメリカの南北戦争の時の有名な将軍リュー・ワラスは、キリスト教を迷信であると独断的に思い込み、それを証明する意図で調べ尽し、ついに否定できぬ真実の前にひれ伏し、イエス・キリストを本当の救い主と信じた。その彼の信仰告白の作品こそ、あの「ベン・ハー」なのである。