2009年2月2日月曜日

ごく普通の家庭

私が生れ育った家庭は、ごく普通のものだった。両親と兄と妹の五人で、父親は三越百貨店に勤めていた関係で、日曜日は休みではなく、休日は八の字の付く八日と十八日と二十八日だけ。その日は大抵ゴルフに行っていた。結構上手だったらしく、家には、優勝カップがいくつもあった。そのほとんどは、戦闘中、貴金属供出で、戦後一つだけ残っていたカップは、私が開拓伝道をした初期のころ、洗礼式に水を入れるのに使わせてもらった。

私は自分の家庭がそれほど金持でもなく、そうかと言って、食べていけないほど貧乏でもなく、ごく普通の家庭だったので、ほかの人々も皆同じなのだろうと単純に考えていたが、牧師になり、多くの人と接するようになると、こうした普通の家庭の方がむしろ少ないことを知って、驚いた。片親しかいない人、親が再婚して、腹違いの兄弟姉妹がいる人、さらには親のいない人もいる。親はいても、どこのだれなのか分らない人もいて、私が特別に恵まれた環境の中に育ったのは、そうでない人のために何か役に立つことをしなければならないのだということが分った。

母は、どちらかと言うと、教育熱心な方で、勉強をするように私を仕向けた。担任の先生との合い性が良かったということもあって、学校の成績は良い方であった。そして、そういう環境の中にいると、とかく人間を学校の成績によって決めてしまうという考え方に染っていかざるをえなかった。後になって、そういうものの見方がいかに偏ったものであるかということを痛感しないわけにいかなくなるのである。

戦争が激しくなり、そのままでは二等兵として召集されることになり、それを避けるには、陸海軍の将校になるための学校に入るのが一番近道であるということが分った。そうなると、猛勉強して、旧制の中学を終えるとすぐ、陸軍経理学校へ入ることができた。この学校へ入ったのは、まだ十七歳であったが、二等兵、一等兵、上等兵を飛び越して、いきなり兵長の下の位をもらい、士官候補生となったのである。ここから、いよいよキャリヤー組に向う生活が始まることになる。しかし、敗戦によって、私の人生は挫折してしまった。それはよかったのだと思う。もしもあのまま行っていたら、おそらく鼻持ちならぬ人間になっていたことだろう。ピンチはチャンスなのである。