2009年3月1日日曜日

私は変節したわけではない

コチコチの聖書信仰であった私が、今ではリベラルな立場の人々も、ローマ・カトリック教会やギリシャ正教会の人々も皆同じクリスチャンなのだと考えるようになったと言うと、変節したのではないかと思う人もいるかもしれない。しかし、決して変節などしているのではない。私は今なお聖書信仰に堅く立っている。聖書信仰というのは、聖書が誤りのない神の言葉であるということを信じているだけを言うのではない。聖書が教えているところに従い、その御言葉に生きているのである。

そのことと、私が広い考えをするようになったということの間には、何ら矛盾はない。というのは、主イエスの仰せられているところに従って、そのような考え方になったのだから。

クリスチャンの一致ということは、主イエスの悲願なのである。従来、私は「教会一致運動」とか「エキュメニカル運動」と呼ばれるものを見て、嫌悪感を感じていた。しかし、主イエスが祈っておられる祈りにおいては、「わたしたちが一つであるように彼らも一つになること」である。三位一体の神の一致性がそこで言われているのである。組織の一致協力ではなく、内的一致なのである。

それと、前回にも言及しておいたヨハネの忠告と主イエスのお答えの中に、私は主の御心を知ることができた。「わたしの名前を使って力強い奇跡を行っている人で、わたしに反対する人はいないでしょう。わたしに反対しない人は、わたしの味方です」(ルカ9:50)。これは私にとっては大きなショックだった。

今まで、聖書信仰以外の立場は、いくらキリスト教と称していても、それは異端とは言えないまでも、キリスト教の唖流だと、ずっと思っていた。だから、味方だとは考えることができなかったのだ。もちろん、敵というほどの思いはなかったにしても、決して同士だなどとは夢にも考えていなかった。

それなのに、主イエスのお考えは、私の考えとは全く違っていた。そのことが分った時、私は自分の考え方がいかにねじ曲がったものであったかということが分り、主イエスのお考えに従うことができたわけである。だから、私は変節したわけではない。主イエスのお考えに従ったにすぎないし、これからもそうしていきたいと思っている。