2007年7月7日土曜日

前提を設けることの可否


「神が存在するかどうか分らないのに、神が存在するというようなことを言うことは、独断ではないか、非科学的ではないか」という人によくお目に掛る。神が存在することを実証してからでないと、話を進めるべきではないというのである。
 しかし、どんな考え方であっても、必ず前提というものを持っている。実証に先立つものとして、前提(ア・プリオリ)を持っている。それは、自然科学においても同様だ。普通、自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提としている。「・・・の原理」とか、「・・・の公理」とか、「・・・の定理」とか、「・・・の法則」などと呼ばれるものがそれである。原理とか、公理とか、定理と呼ばれるものの前には、大抵、アルキメデスとか、ピタゴラスとか、パスカルといった発見者の名前が付けられている。しかし、このようなものだけでは研究を進めていくことができないために、仮説を立てなければならないのである。

もっと基本的な事柄として、自然科学においては、いくつかの前提を持っている。たとえば、数概念が実在するとか、比較の概念が実在するということは、実証することはできないが、これを前提としているではないか。1、2、3といった整数や、0.1、0.2、0.3といった小数や、2分の1、3分の1といった分数や、√2、√3といった無理数や、循環数など、いろいろな数がある。こうした数の概念が実在するということを、どのようにして証明することができるだろうか。また、これはあれよりも大きいとか、こちらが重くて、あちらが軽いとか、こちらが赤で、あちらが青であるとか、こちらが美しくてあちらが醜いとか、いろいろな形の比較がある。ところで、そうした比較の概念が実在するということを、私たちは証明することができるだろうか。

このように、前提を設けること自体が悪いのではない。要は、その前提が、それから導き出されてくる結果を、すべてよく説明できるかどうかに掛ってくる。

それでは、キリスト教の前提は何だろうか。この世界を創造された唯一人の神がおられて、その神が私たち人間を罪から救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書にあるということである。この前提に立って事柄を進めていく時、イエス・キリストを信じることによって本当に救われるのかどうかが問題の焦点となるのである。参照「聖書の教理」(羊群社)