2007年7月1日日曜日

怒りの効用

前回、「笑いの効用」について書いたので、今度は「怒りの効用」について書くことにしよう。アメリカのワシントン大学の実験心理学者のケーツ教授が、こんなを実験をした。かんかんになって怒っている人の呼気をガラスの入れ物に採って、そのガラスの入れ物の周りを液体空気で冷却する。すると、その呼気から凝結した水滴が得られた。その水滴を蒸発させると、精神的に平静な人の場合には、後に何も残らないのに、かんかんになって怒っている人の場合には、そこに灰色のかすが残るのだ。そのかすを水に溶かして、実験用の動物に注射してみたところ、その動物は苦悶して頓死してしまった。

そこで、ケーツ教授は、被実験者の憤怒の状態の強弱によってその実験をしてみると、それぞれの毒性の強弱も異なったというのである。ケーツ教授の実験によると、一時間怒り続けていた人の呼気を全部採取して得られた毒性を、実験用に動物について検定してみると、数百頭の動物を即時に倒すことができたということである。これを、ピロキロに換算してみると、七十人の人間が死んでしまう毒性だということであった。

だから、怒る人は、自分の肉体をその怒りの毒によってむしばんでいるのだということが分る。ほかの人を怒りによって傷付けているだけでなく、自分自身を害しているわけだ。

だから、怒るということは、何としても避けなければならない。ところで、怒りの処理法として、一般的には二つの方法が考えられる。一つは、怒りを表に現さないように抑制する方法であり、もう一つは、怒りをぶちまける方法である。前者は、ほかの人を傷つけることはことはないかもしれないが、自分の体を害してしまう。後者は、一時的にはよいかもしれないが、根本的な解決にはならない。

それに対して、聖書はどう教えているか。

たとい怒ったとしても、罪を犯してはいけない。寝床で静かに祈りなさい。(詩編4:4)

聖書が勧めていることは、怒りを抑制したり、爆発させたりすることではなく、神の御前に出て、自分の今の気持ちを注ぎだして、神に申し上げること、つまり祈ることである。つまり、怒らないではおられない心の状態を、そのまま神の御前に申し述べるのである。そうするとき、神が私たちの恨みつらみを聞いてくださり、私たちの心に平安を与えてくださるのである。