2007年7月17日火曜日

生き生きとした人とそうでない人

クリスチャンと言っても、生き生きとした人とそうでない人がいるのはどういうわけだろうか。それは、生まれ変わった人かどうかで決まる。生れ変わりを体験していない人は、本当のクリスチャンではないから、命がなく、生き生きとした生き方をしないのは当たり前ではないか。聖書はこう教えている。

だれでもキリストを信じるなら、その人の心は全く新しく変えられる。もうそれまでと同じ人生ではなく、全く新しい人生が始まったのである。(2コリント5:17)

この生れ変わるとか、新生と称される体験は、聖書が一貫して主張しているところである。

洗礼(バプテスマ)を受けたらクリスチャンになれるという考え方は広く普及しているが、そんなことは聖書のどこにも教えられていない。御霊によるバプテスマ(コリント1.12・13)とか、キリストに合うバプテスマ(ローマ6:3-5)と言われているのは、水によるバプテスマ(洗礼)のことではない。その実質としての生れ変りのことである。

新しい命を神から与えられた人だけがクリスチャンであり、その人が個々の教会に加えられる時に受けるのが、水によるバプテスマ(洗礼)である。

教会には2つの面がある。ちょうど人間にも、霊という目に見えない面と、肉体という目に見える面とがあるように。目に見えない面というのは、霊的普遍的教会であり、かしらであるキリストの体としての教会のことである。すでに天に召されて行った人々から現在全世界に生きている人々、さらにこれから生れてくる人々に至るまでの人々が含まれる。だから、目に見えないのは当然である。

この霊的普遍的教会は、歴史的社会的に具体化された教会という形を取る時、個々の制度化された教会となる。

この霊的普遍的教会に加わるために必要なものが、聖霊によるバプテスマ(キリストに合うバプテスマ)であって、それが新生体験である。その実質を持っている人が個々の制度的教会に加えられる時に受けるのが、水によるバプテスマ(洗礼)なのである。

だから、いくら洗礼を受けていても、その実質としての新生を経験していなければ、新しい命を頂いていないわけだから、生き生きとした生活ができないのは当たり前である。本当のクリスチャンとそうでない人との区別は明快である。聖書が教えている通りである。