2008年8月10日日曜日

働くこと

今日、働くことに喜びを感じなくなってしまった人が沢山いる。それは、働くことの意味や目的が分らなくなってしまったからだと思う。ある人々はこう考えている。遊ぶためにはお金がいる。だから、お金を得るために働くのだと。こういう人々は、主として独身者だろうが、遊ぶことが人生の目的ぐらいに考えているのだ。しかし、人生の目的は決して遊ぶことにあるのではない。

私たち人間は働く者として神によって造られた者たちである。だから、よほど疲れているか、体の具合が悪い人でない限り、横になって寝ていることはできない。疲れが取れ、病気が治れば、布団の中に入っていることが苦痛になってくるはずだ。働く者として造られた人間は、働かないではいられないのだ。ただ何のために働くのかという、働くことの意味や目的が分らなくなったために、働くことに苦痛を感じるようになってきた。働くことの意味や目的が分らなくなってしまったのは、人類が罪に陥ったからなのである。

さて、私たちが働くという場合、それにはどういう意味や目的があるのだろうか。それは、自分で考えても出て来るものではない。神が私たち人間をお造りになったという原点に帰って考えてみなければ分るものではない。それでは、それは何なのか。一つは、神の御業への参与である。神は天地万物をお造りになった後、すべての被造物を動かしておられる。この神の御業は、創造以来ずっと続いてきており、私たちはその御業に参与させていただき、この宇宙の完成に向っての働きの一端にあずからせていただくのである。

もう少し身近に考えてみると、私たちは働くことによって、誰かの役に立っているということを知らなければならない。たとえば、衣食住のことについて考えてみよう。もしもそれを全部自分でやるとしたら、大変なことだ。食べるご飯一つとってみても、それを苗代から始めて、田植、草取り、そしてようやく刈入れをし、脱穀をしても、それはまだ玄米である。たとい精白をしても、それだけではご飯しかない。

味噌汁が欲しければ、大豆を蒔き、収穫してから味噌を作らなければならない。けれども、それだけなら具のない味噌汁だ。あさりの味噌汁が飲みたければ、海へ行ってあさりを取って来なければならないし、わかめの味噌汁が飲みたければ、海の中のわかめを取って来なければならない。卵が欲しければ、鶏を飼わなければならないし、牛乳が飲みたければ、乳牛を飼わなければならない。鮪の刺身が食べたければ、大きな船に乗って、鮪を釣って来なければならないのである。

着る物についてはどうだろうか。肌着は木綿が良いと思えば、綿を栽培しなければならないし、そこでできた綿花を糸に紡ぎ、次に織らなければならない。織り方にもいろいろあって、平織でよい場合と、綾織にしなければならない場合と、メリヤスのように一種のニットにしなければならない場合がある。Tシャツなどは、メリヤスで作らなければならない。ウールのものを着たければ、綿羊を飼わなければならないし、化繊のものが着たければ、化学工場を作らなければならない。また、色物を着たければ、染色工場を作らなければならない。

しかし、これだけでは食べる物と着る物だけである。住む所となると、自分で木を切ってきて、組み合せ、建て上げ、屋根をふき、壁を塗り、棚や家具を作ることもしなければならない。

こう考えてくると、自分一人の力だけでは、到底何も出来ないことが分る。私たちは、何から何まで自分一人でやることは出来ないのである。だれかの厄介になっている。このことが分ると、私たちもまた、だれかの役に立たなければならないことが分ってくる。それが働くことの意味なのである。働くことによって、その仕事がだれかの役に立っていることが分ると、そこに働くことの喜びがあるはずだ。

ところが、今日一人一人の働きが、社会の大きな仕組の中の一つの歯車のようになってしまい、自分がだれかの役に立っているという感じが持てなくなってしまっているため、多くの人々は、だれかの役に立っているということが実感として湧いてこないのである。

それでは、私たちが自分の仕事を選ぶにあたって、どういうことを考えたらよいのだろうか。まず第一に、その仕事を通して神の栄光を現すことである。今日では、とかく人の弱みにつけ込んだり、余り感心しない仕事もないわけではない。そのような人間性に反する仕事を選ぶべきではない。

私たちが仕事を選ぶ場合、自分に与えられている賜物と関係のある仕事を選ぶのが普通である。たとえば、血を見ると、気分が悪くなってしまうような人は、医者には向かないだろうし、高所恐怖症の人は、高い所へ上ったり、そこで仕事をしなければならないような職業は避けた方がよいし、自分でも決してそういう仕事を選ぶことはないだろう。