2008年8月24日日曜日

仕事とつき合い

職業というものは、ただ私たちが自分の生活の資を得るためのものと考えるべきではない。それを通して神の御業に参与するのであり、まただれかほかの人の役に立っているということを知らなければならないのだということを考えてきた。そして、自分が勝手にその職業を選んだのではなく、神が自分をその働きに召してくださっているのだということも考えてきた。

そういうことになると、神が私たちをその職場に遣わしておられるのだということにもなるだろう。私たちがその同じ職場にいる人にあかしをしなければ、生涯主を知らずにいる人がいることも知る必要があると思う。その人に対して主をあかしする責任は自分にあるのだ。その使命を忘れて、過ぎ行くこの世のことに夢中になってしまったとしたら、本末転倒と言わなければならないだろう。

仕事の上でのつき合いは、仕事がうまくいくためだけだと考えるべきではない。むしろ、もっと深い人間と人間とのつき合いであることを考えていくべきである。それは、その人の人生を祝福し、その人に幸福をもたらすためなのである。そのことを考えないで、ただひたすら自分の仕事がうまくいくことだけを考えて、自分に利益のある人だけとつき合っていくというのでは、余りにも利己的なつき合いであるとは言えないだろうか。職場における人間関係も、同様に考え、ただ目先のことだけに捕われず、もっと高い見地から考えていくべきではないだろうか。

同じ仕事仲間、職場の友人と仲良くすることは良いことだが、単なる表面的なつき合いで終始したり、遊び友達程度のものであるとしたら、余りにも無駄をしているのではないかと思えてならない。時間という点からしても、限られた自分の精力という点からしても、無駄遣いをしているように思われる。このようなことを、はたしてどれだけの人が真剣に考えて、友達づき合いをしているだろうか。友達を作ることは良いことなのだが、一体心の友なのか、仕事上だけの友なのか、それとも友という名の利用価値にすぎないのか、よく考えてみる必要があるのではないだろうか。

この世の中において、人間関係は非常に重要だ。この重要な人間関係を決してテクニックなどで出来ると考えてはならない。心と心の深いところでつながり合う交わりであるべきだ。そういう友を作るためには、私たちがどういう心掛けで友達づき合いをするかによる。相手を自分の仕事上で利用価値がある人ぐらいにしか見ない場合には、結局のところ、心と心の触れ合う交わりにまでは要らないだろう。私たちが一生涯、広く浅く適当につき合っていればよいと考えているのであればまた別だが、もしも心と心の通い合う交わりにまで至る友を作ろうと考えるのであれば、あらゆる機会にテクニックではなく、誠実なつき合いをすることが必要だろう。つまり、相手のことを真剣に考えてあげることである。

仕事とつき合いは、どの程度に考えたらよいかという質問を受けることがしばしばある。その答えは、人間関係というものをどう考えているかというところに帰着するわけで、そこのところをよく考えてみることが大切だと思う。そうすれば、一時的なつき合いとしてではなく、生涯にわたるつき合いとして考えることが出来るだろうし、私たちが心の友を得る機会は、あらゆるところにころがっているとも言えるわけである。こちらが誠実に接することをしないで、相手にだけ誠実を期待し、要求することは、どだい無理なことだと思う。

仕事が終わった後、一緒に何かを見に行くとか、一緒に何かをするとか、あるいは一緒に旅行に行くとか、一緒に遊ぶといった程度のつき合いではなく、もっと深い人間関係を作り出していくことを私はお勧めしたいと思う。そして、そういう人間関係の中から、必ずキリストを仲立ちとした人間関係が生まれてくる。

ただ、この世のこと、仕事のこと、趣味のことなどだけでつながっている友ではなく、永遠に至る友が出来てくる必要がある。そういう友達関係は、私たちが誠実に生きるところから始まるはずだ。私たちは、クリスチャンとして何が一番重要なことなのかということを知っているわけだから、それを友達づき合いの中においても、ごまかしたりしないで、第一としていくべきである。そうした中から生まれていく友情こそ本物で、永遠に続くものであると思う。小さなことの中においても、よく物事を考え、意味のある行動をしていくのがクリスチャンであるとするならば、このように考え、行動するのは、当然のことではないだろうか。

ところで、あなたは本当の心の友を持っておられるだろうか。何でも話すことのできる友、相手が困っている時には、心底から愛を持って助けてあげることのできる友を持っていないとしたら、あなたの生き方のどこかに問題があるということを知ってほしいと思う。