2007年9月1日土曜日

救いとは何か 1/2

キリスト教では、よく「救い」と言うが、これは何を意味しているのであろうか。一般的にこの言葉が使われる場合は、何か助けを必要としている人に助けの手を伸し、助けてあげることを意味する。溺れかかっている人を助け出したり、病気の人を治したり、落第しそうな人を進級させたりする時に使う。

「救い」という言葉の宗教的意味は、もう少し人間の内面的なことに関わるもので、キリスト教だけでなく、仏教やその他の宗教でも使っている。しかし、聖書が使っている使い方と、ほかの宗教の使い方とでは全然違う。たとえば、仏教などで、「悟りの境地に入る」とか、「安心立命の境地に入る」というものと、キリスト教の「救い」とは同じではない。

一般的に言って、ほかの宗教が「救い」と言う場合、現在、不幸とか悲惨と考えられているものからの救出を意味するのがほとんどだ。たとえば、病気にかかった人や、貧乏な人は、そういうものから救い出されたいという願いが極めて強く、そのため、そういう病気や貧乏から逃れることができれば、問題は解決すると思いやすいわけで、こういう現世的ご利益を「救い」と教えている宗教が沢山ある。もちろん、病気や貧乏の問題がどうでもよいと言っているのではない。こういう問題の解決も大切であり、必要だ。しかし、こうしたことさえ解決すれば、人間の問題は解決してしまうのでないこともまた事実である。

聖書が教えている「救い」というのは、それらの根源を問題にし、その解決をはかろうとするものである。病気や貧乏といった今の生活上の悩み、苦しみは、どこかに本当の原因があるわけで、それを問題にしないかぎり、本当の解決にはならない。その根源にある「罪」を問題にしなければならないのである。

病気や貧乏という問題は、人類に罪が入って来なければ決して起らなかったし、病気や貧乏が悩み、苦しみであるのも、人間の心に罪が入って来たからである。

「罪」とは、法律で言う犯罪のことではない。法律で言う犯罪を犯していない人は沢山いる。しかし、少しでも良心的に敏感な人であれば、たとい法律で言う犯罪を犯してはいなくても、良心の呵責を感じることによって、道徳的罪について知ることはできるだろうと思う。隠れた心の中で、罪を感じることはできるはずだ。これを無視しては、本当の救いはありえないのである。