2007年9月22日土曜日

報いを求める心は卑しいか

私は若いころ、倉田百三の「愛と認識との出発」、「出家とその弟子」や阿部次郎の「三太郎の日記」をよく読んだものだ。こういう書物に共鳴するのは、若者の心が純粋さを求めているからだと思う。しかし、私は聖書を知り、信仰を持ち、聖書を熟読していくうちに、これらの非現実的な教えに満足できず、聖書の深い教えに捕えられ、誤った異教主義から目覚めさせられた。

若い人たちは、確かに純粋なものにあこがれる。それは良いことだが、理想と空想を混同していることがしばしばある。報いを求める心は卑しいのだという言葉にぶつかる度に、私はその純粋さにひかれていった。そして、最初のうちは、聖書の中にも、この報いを求める教えを見出して、失望したものだった。しかし、はたして報いを求める心は卑しいのだろうか。そして、報いを求めることなしに、人間は何かを行なうことができるほど高尚な者なのだろうか。この問題にぶつかった時、私ははたととまどったことを覚えている。

マタイによる福音書6章1節-18節は、報いという思想がその基調となっている。そこでは、人からの報いを期待する人は、神からの報いを受けることができないと教えられており、決して報い自体を否定してはいない。報いという思想は、聖書のこの箇所にだけ出て来るのではなく、聖書の至るところに、いや、聖書を一貫して出てくる思想なのである。報いという思想は、聖書において基調をなしている。聖書の中には、報いを求める心は卑しいとか、報いを求めず、犠牲と奉仕をするようにとは教えられていない。

報いを求める心は自然なのである。決して卑しい心ではない。それを卑しいと考えるのは、私たち日本人の精神的土壌がそうさせるのだと思う。私たちのものの考え方の中には、儒教的な禁欲主義が入ってきていて、いつしかこのような考え方を形成していた。

報いを求めずに何かをすることは、純粋であり、美しいように見える。しかし、それは不可能なことだ。報いを求めないとすれば、人間は一体どんな動機で行動できるだろうか。人間が罪に陥って以来、自己中心主義(エゴティズム)は、利己主義(エゴイズム)と密接に結びついてしまった。そのため、自己中心主義が罪だと思っている人が案外多い。自分のために報いを求める心が必ずしも卑しいわけではない。ほかの人などどうでもよいと考える利己主義が問題なのである。