2007年9月11日火曜日

実存的問題-エゴイズム 2/4

私たちは、自分がいかにエゴイストであるかということをよく知っている。エゴイストは、いつも「自分さえよければ」という考え方をその底に秘めている。

芥川龍之介は、学生時代に、彼の親友恒藤恭にあてて一通の手紙を書いている。彼はその手紙の中で、エゴイズムと言わず、イゴイズムという言い方をしている。
「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのままに生きる事を強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑う(僕自身にも)。僕は時々やりきれないと思う事がある。何故、こんなにしてまでも生存をつづける必要があるのだろうかと思う事がある。そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失う事だと思う事がある。僕はどうすればいいのだか分らない。君はおちついているかもしれない。そして僕の言う事を浅薄な誇張だと思うかもしれない。(そう思われても仕方がないが)。しかし僕にはこのまま回避せずにすすむべく強いるものがある。そのものは僕に周囲とのすべての醜さを見よと命ずる。僕は勿論滅びる事を恐れる。しかも僕は滅びるという予感をもちながらも此のものの声に耳をかたむけずにはいられない。」

私たちがこうした芥川の言葉に、恐れと共に共感を覚えるのは、彼が自分自身の偽らざる姿をここに語っているからではないだろうか。私たちにとって、この悩みは、自分の両親であろうと、友だちであろうと、ほかのだれかであろうと、そのひとがエゴイストであるということの悩みなのではなく、この自分が徹底的にエゴイストなのだというところにある。エゴイズムこそ、私たちの心の深みにおける悩みなのではないだろうか。

「自分さえよければ」というこのエゴイズムこそ、私たち人間のありのままの姿ではないだろうか。これを、聖書では罪と呼ぶのである。私たち人間が何故破局性を持っているのかと言うと、この罪を持っているからである。このことの解決がなければ、真に人間として生きていくことはできないのである。