2007年11月21日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 1/5

人間は生れながらにして偏見を持っている。偏見を持っていない人はまずいないと言ってよいだろう。それほど偏った考え方を持っているのだ。しかも驚くべきことに、ほとんどの人が自分は偏見など持ったことはないし、今も持ってはいないと思っていることである。異文化圏の人と交わる時、初めて自分の考えは、世界中の人の中の一つの考えにすぎないことを知るだろう。

日本で自動車を運転している人ならご存じだろうが、交差点などで反対車線の車がライトでピカピカサインを送って来れば、「お先にどうぞ」という意味になる。ところで、韓国で運転する場合にはそうではない。ピカピカサインを見て、先に曲ったら事故を起してしまう。韓国では「お先にどうぞ」ではないのだ。「曲らないでくれ。私の方が急いでいるから、先に曲るよ」という意味なのである。

事々左様に考え方は違う。日本人同士ならまだかなり共通の考え方があるけれども、それでも「あの人は非常識な人だ」とは言わないだろうか。相手の人は別に非常識な行動をしているわけではなく、その人にとって極めて常識的な行動をしているのだが、こちらの常識の枠の中に納まらなかったにすぎない。だから、いろいろな考え方の人がいるのは、むしろ当り前のことだと考えなければならないだろう。ところが、日本という小さな島国の中に生きていると、みんな同じであることがよいことであり、それが当り前のことだと考えやすい。そして、違っている人を排除してしまおうという考えすら起ってくる。

ところで、問題を筋道に持ってくると、クリスリャンになる人は、必ずしも少なくはない。60億余りの世界総人口のうち、約33パーセントに当る20億以上のクリスチャンがいるという統計が出ている。次に多いのは、イスラーム教徒で、20パーセントで10億余り、仏教に至っては3億しかいないのである。しかし、日本だけに目をやると、確かにクリスチャンの数は少ない。同じ人種、同じような文化を持ちながらお隣りの韓国では、全人口の25パーセントから30パーセントがクリスチャンになっている。なぜこのような差がついてしまったのかということについては、ここでは取り上げない。しかしどうしてもお知りになりたい方は、拙著「日本人とキリスト教の受容」(羊群社)をご覧いただきたい。ここでは、一般的にキリスト教が受容されにくい点について見ていこうと思う。