2007年11月25日日曜日

キリスト教を信じることの利点 5/6

5. 心配事が少なくなる

この世の中には心配事が沢山ある。私たちが生身の体を持っている以上、いつ病気にかからないとは限らないし、交通事故や死の危険にもさらされているわけである。入学試験や、子供の事、仕事の事、人間関係の事、将来の事、老後の事など、考えれば考えるほど心配でたまらないというのが本当のところではないだろうか。ほかの人にとってみれば何でもないことであっても、当人にとっては心配事の種になる場合もあることだろう。

私もキリスト教信仰を持つまでは、長い間母親譲りの取り越し苦労性であった。取り越し苦労をしたからどういうということはないのに、そうせざるをえなかった。取り越し苦労をする人は、思い煩う原因となるべきものがまだないうちから悩み始めるのだ。時として、雷をひどくこわがる人がいて、雷がまだ鳴らないうちから、雷の鳴る日にはお腹が痛くなったりするあの敏感性とよく似ている。しかし、取り越し苦労というのは、実に愚かで、ほかの人よりも一回ずつ多く、いつも悩まなければならないのである。実際に苦しいことが起る前に一度悩んでおき、実際に起ってからもう一度悩む。そして時と場合によっては、自分ではそれがやって来ると思い込んでいるにすぎないこともあって、ほかの人は悩まないでいるのに、自分だけ一人で悩んでいるということもある。

ところで、私たちはどうして心配するのかというと、自分の力不足と知識の不足によるのである。何か困難なことにぶつかった時、それを乗り越える知恵や力が十分に備わっているのであれば、だれも心配をしないのだが、それがないために心配をするわけである。

ところが、キリスト教を信じると、神にすべてをゆだねることができるようになる。私たちの心配事をすべてゆだねることのできるお方を知るわけで、そのお方に私たちの心配事をゆだねる時、心に平安が与えられるのである。神が私たちに代って心配してくださるからである。

もちろん、クリスチャンにも次から次へと心配すべき事柄が起ってくるけれども、神にそれをゆだねてしまうことによって、思い煩わないですむわけである。これは、キリスト教を信じる者たちにとって、大きな利点と言うことができよう。