2007年11月7日水曜日

アジアの人々への謝罪運動 1/2

日本の近代化の歴史、百数十年は、アジアの人々を踏み付けにしてきた歴史だった。こういうことについては、案外知らない人が多い。それもそのはず、私たちが学校で教えられてきた日本の歴史は、五大強国にのし上がってきたものであった。つまり、それは栄光の歴史にほかならなかった。学校で使う教科書には、これしか書かれていない。ところで、この栄光の歴史のかげに、恥辱の歴史があることを知らなければならないのである。

当時の世界情勢はどうであったかと言うと、ヨーロッパの列強が、アジア、アフリカの国々を植民地化していた。アジアだけに焦点を合わせると、インドはすでに十八世紀のころからイギリスによる侵略を受けており、十九世紀の半ばまでに、イギリスは現在のインド、パキスタン、ミャンマー、セイロン(現スリランカ)、ネパール、マレーシアなど、南アジア全域を支配下に置いていた。

インドシナ半島東部地域は、フランスが侵略していた。今のヴェトナム、カンボジアそれにラオスも十九世紀末までにはフランスの支配下に入っていた。

また現在のインドネシアはオランダが支配していた。フィリピンは、すでに十六世紀からスペインが領有していた。

アジアで植民地化を免れていたのは、タイと日本だけであった。このように、アジアの各地は、ヨーロッパの列強によって侵略されていた。中国はアヘン戦争でも、またアロー戦争でも敗北したが、このどちらの戦争もイギリスが起こした戦争で、目的は中国をイギリス工業の市場とすることであった。

こうした情勢下にあって、日本が欧米の侵略に備えて生きる道としては、統一国家を樹立する以外にはなく、1853年のペリー来航をきっかけとして、幕藩体制から近代国家としてスタートするために、明治維新による新政府が1868年に出来ることになる。

そして新政府が取った道は、アジアの諸国と手を組んで、共闘するということよりも、欧米の仲間入りをすることによって、植民地化を免れようとしたのである。もちろん、アジアの国々と手を組んで共闘して勝利を収める可能性がどれほどあったかは疑問だが、しかし、わが国は海外侵略を開始し、アジア、アフリカを通じて、唯一の植民地保有国となり、そのことのために、アジアの国々から恨みを買うようになってしまったのである。