2008年11月23日日曜日

トルストイの生涯(1)

ロシアの文豪トルストイの名前を知らない人はいないだろうと思う。たとい彼の本を読んだことはなくとも、彼の大作「戦争と平和」の名前を知らない人はいないだろうと思う。

世界的文豪レオ・トルストイは、1829年8月28日、ヤスナヤ・ポリヤナに生まれた。一歳の時に母を失い、八歳の時に父を失い、その後、母親代わりとして彼を育ててきてくれた叔母を十三歳の時に失ってしまっている。そうしたことから、彼は十六歳になると、深い懐疑に捕えられ、それ以来「青春の荒野」の旅をしなければならなくなった。そのため、それまでずっと続けてきた祈祷をやめ、教会にも行かなくなってしまったのである。そして数年間というものは、虚無的な考え方に走り、賭け事にふけったり、ジプシーの女に迷ったり、また酒におぼれたりして、獣のような生き方をしていた。

しかし、彼は驚くほどの健康体の持ち主で、クリミヤ戦争に参加した時も、セバストポーリの籠城戦では、勇敢に戦い、将来、将軍になることを夢見たこともあったほどである。しかしながら、戦争の悲惨さを見るに及んで、人間の運命と人生の目的と永遠の真理を瞑想して、その中から初期の文学作品が生まれていった。

彼は三十四歳の時、モスクワの王宮に仕えていた医師ベールスの次女ソフィヤと結婚した。その時、ソフィヤはまだ十八歳になったばかりの乙女であった。その結婚は極めて幸福な結婚であって、彼は友人に「私は全く新しい人間になりました」と手紙をしたためているほどである。結婚後、彼は「戦争と平和」の大作に取りかかり、妻ソフィヤの助けを借りて、数年にしてこれを完成することが出来た。そして、彼が五十歳になった時には、「アンナ・カレニナ」も完成して、文士としての名声は世界に広まり、文豪としての地位も確保していた。

ところが、世界的に名声を博した五十年の彼の人生も、トルストイの心には平安をもたらさなかった。そして、年齢にも似合わぬほど若々しい煩悩が彼の心を捕えていたのである。時には、自殺の誘惑にもかられるほどであった。しかしその時、彼はかろうじて新約聖書の福音書によって救われた。彼は、当時のロシア正教会の持つ迷妄から解放されたいと思い、聖書を原語で学ぼうと決心し、ヘブル語やギリシャ語さえも勉強するようになっていた。

このように、文学者としてのトルストイは、宗教家としての面も持つようになっていった。いや、むしろ文学者という過去の一切の名声をかなぐり捨てるために、自分のすべての作品を、ちりあくたのように思い、聖書の研究と宗教論文に熱中していったのである。そのようなトルストイの姿を見て、彼のうちにある従来の才能に期待していた人々は失望し、多くの友は彼のもとを去って行ってしまった。しかし、トルストイは、ヤスナヤ・ポリヤナの預言者と認められ、その名声はとみに上がり、彼を慕う人々もまた現れるようになっていった。

ところが、ここにはからずも、トルストイを破滅に至らせる不幸がきざしていたのである。それは、文学的労作を去って宗教に熱中するトルストイに対して、どうしても心から喜ぶことのできなかった妻ソフィヤとの衝突であった。全ロシアの文豪であるだけでなく、世界的大文豪となることを夫に期待していた妻のソフィヤの目には、トルストイの宗教活動が、いわば気まぐれな遊び事ででもあるかのようにしか思えなかった。だから、一日も早くこのような事が過ぎ去ってくれることを願っていた。しかも、心の中でひそかに願うだけではなく、時には面と向かってののしることもあった。こうして、この夫婦は、寄ると触ると、けんかで明け暮れるという有様になっていった。

ロシアの国に革命のきざしが見え、アレクサンドル二世が暗殺されたのは、トルストイが五十三歳の時のことであった。五十四歳になった彼は、静かに自分の生涯を顧み、人生の区切りを付けようと考え、「わが懺悔」を発表した。この同じ年の冬、モスクワでは民勢調査の企てがあって、彼は自分の目でモスクワの貧民窟の実状を見る機会があった。その時、彼はみじめな人々の有様を見て、自分が罪を犯していると感じた。彼は家に帰って来て、じゅうたんを敷いた階段を上がり、じゅうたんを敷いた部屋に入り、毛糸の暖かい上着を脱ぎ、それから白いネクタイを着け、白い手袋をはめて食卓に着き、揃いの服を着た二人の召使いの給仕によって、五品の料理を食べようとした時、自分がどんなに深い罪を犯しているのかを感じた。それは、だれかが良い生活をするということは、だれかを貧しく不幸な生活の中に突き落とすことになるのだと思ったからである。