2008年11月30日日曜日

トルストイの生涯(2)

トルストイがモスクワの貧民窟について彼の友人たちに語る時、彼は泣き叫び、こぶしを振るいながら、
「どんな人でもこのような生き方をしてはならないのだ」

と言っては、呆然とするのであった。こうして、56歳になった時、彼は、「私たちは何をなすべきか」という論文を書き、不幸な人たちが救われなければ、私たちも本当には救われないのだと告白し、このように語っている。
「本当の人間は、理性的な生活を送らなければならない。そして、理性の活動は愛であって、愛は直ちに実行が伴わなければならない。」

トルストイは、主イエス・キリストの山上の説教を実践しなければならないと考え、それを主張しながらも、実践しきれない自分に悩み続けた。

このようなトルストイの人間性に徹した主義主張に対しては、多くの追従者が現れてきた。とくに50歳の時から書き出した、宗教的な通俗物語は、ロマンロランが、「芸術以上の芸術」と推薦したほどのもので、それは、ロシア本国だけでなく、全世界の人々にも広く読まれ、その発行部数は、なんと一年間に400万部にも及んだと言われている。

トルストイの主張は、ロシア正教会の教えとは相容れないところから、ついに彼が73歳になった時、彼はロシア正教会から除名されてしまった。その除名が発表された時、それとも知らずにクレムリン宮殿の近くの広場を散歩していたトルストイを、労働者を加えた学生たちの一群が取り囲み、除名に憤慨し、かえってトルストイを激励するという場面もあった。やがて、各地からはトルストイを激励する文書が舞い込み、トルストイの誕生日のようなにぎやかさを呈したほどであった。

日露戦争が勃発し、トルストイを悲しませたのは、彼の76歳の時のことであった。彼は年老いて、なお自分の言行の矛盾に悩み続けた。特に彼の言葉に従って立派に実行しているように見える、いわゆる彼の弟子たちの姿を見ては、自責の念にかられた。そのころトルストイは、よく目に涙を浮べながら、こう言った。
「よく人が、お前は立派な説教をするけれども、お前の生活はどうだ、お前のやっていることはどうだと言って責める。その通り、私も本当に悲しく思っている。自分は説教したいのはやまやまだけれども、説教はしないつもりだ。自分のやっていることが主流なら説教もできようが、自分のやっていることがよくないのだから仕方がない。私のは説教ではない。ただ人生の意義を見出したいと努力しているにすぎない。私もその教えを守ろうと努力していることだけは認めてほしい。」

トルストイは、パウロが語っている福音(パウロの手紙の中にある)は、神秘的説教であり、倫理的な面が欠けていると言って批判していたが、彼の理解していたキリストの福音は、いわゆる道徳訓にすぎなかった。そして、それを実行するところに重点が置かれていた。

主イエス・キリストの山上の説教にある、
「右の頬を打たれたら左の頬も向けてやりなさい」

を実行することだった。また、
「あなたの敵を愛しなさい」

を実践することであった。

このように、キリスト教の福音をただの道徳訓と規定したトルストイは、自らその実践が出来ないことに悩み、絶望しなければならなかった。そこに、妻から逃げ出し、家出をし、ウラル・リヤザン線の一寒村アスターボーの駅で、独り寂しく死ななければならない運命が待っていたのである。

トルストイは、自分の心を責めるものが、彼の名声であり、富であり、彼の人間としての幸福であると考えた。そして、彼の晩年は、それらの一切から逃れたいと思ったのだ。80歳の坂を越し、厳しい妻の監視の元で、トルストイの心は若者のように悩んだ。彼の悩みを病的わがままと見て、二度までも試みた家出を防ぎさえすれば平和が与えられると堅く信じていた妻は、夜も昼も親切な言葉を使って、トルストイの周囲につきまとい、監視し、自由と解放を望むトルストイの魂を、自分自身に縛り付けておこうとした。しかしながら、ついにトルストイは家出に成功するのだが、自由になった彼にはすぐに死が訪れてきた。

人間の力で愛の人になることは出来ないのだということを、トルストイの生涯は私たちに教えてくれている。トルストイの涙ぐましいまでの苦闘も、ついに実を結ぶことはできなかった。聖書が一貫して、人間は自分の力によっては決して愛の人にはなれない罪人なのだと教えていることが、これでよく分ったのではないかと思う。