2008年11月16日日曜日

「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」

もう何年も前のことになるのだが、私はある本を読んでいて、その本の中に出てくる強烈な印象を与える詩との出会いを経験した。今もなお私の心の中に生き続けている感動とともに、その詩は私の心に焼き付いて離れないのである。それは、重度の脳性マヒで、しかも短い十五年の生涯を送った土谷康文君とそのお母さんの詩である。

私たちが文章を書くのとは違い、一つの言葉を選ぶにも、その言葉を構成している字を、五十音図の中から一つ一つウインクのサインを出しながら、字の書ける人に示していくわけである。こうして出来たのが、次の詩なのであった。

ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくは言う
ぼくさえ 生まれてなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわの子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら

この母を思いやる切ないまでの美しい心に対して、母親の信子さんも、彼のために詩を作った。

わたしの息子よ ゆるしてね
わたしの息子よ ゆるしてね
このかあさんを ゆるしておくれ
お前が脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと 泣きました
いっぱい いっぱい 泣きました
いつまでたっても 歩けない
お前を背負って 歩くとき
肩にくいこむ重さより
「歩きたかろうね」と 母心
"重くはない"と聞いている
あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ ありがとう
ありがとう 息子よ
あなたのすがたを 見守って
お母さんは 生きていく
悲しいまでの がんばりと
人をいたわる ほほえみの
その笑顔で 生きている
脳性マヒの わが息子
そこに あなたがいるかぎり

このお母さんの心を受け止めるようにして、康文君は、先に作った詩に続く詩をまた作っている。

ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは 生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが、大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

この母親と子供の間に通ういたわりと、やさしさに、私の心が強烈に反応したのは、もはやこのような強い絆(きずな)で母子が結ばれているのを見ることがまれになってしまっているからであろうと思う。親子とは名のみで、そこにあるものは、相手のことよりも自分のことしか考えていない醜いエゴイズムしか見られないというのがほとんどではないだろうか。親の面倒を見ないで、老人ホームに預けっ放しであったり、たとい面倒を見たとしても、世間体を気にしてのことであって、愛が全く見られないのが現実である。親は親で、自分のために子供を利用し、子供は子供で、自分のために親を利用し、利用価値がなくなると、ポイと放し出してしまうのがほとんどである。最近では、平気で親が幼い子供を殺し、また子供が自分の気に食わないことを親に言われたと言って、平気で親を殺すという風潮がある。それほどまでとは行かないまでも、今日、ほとんどすべての家庭で、親子の関係は冷たく、多くの家庭は崩壊寸前である。
このような現実の中で、この心温まる詩は、泥沼に咲く美しい蓮の花を思い出させてくれる。と同時に、今日私たちが失ってしまったものが、どんなに価値のあるものであったのかということに気付かせてくれるのではないだろうか。それは、愛であり、相手を思いやる優しさである。