2008年11月10日月曜日

信仰のからくり

前に、「キリスト教信仰のからくり」について書いたこたがあった。キリスト教信仰は、何かをすることによって救われるのではなく、信仰によって救われると聖書は教えるのだが、そこで言う「信仰」というのは、「何もしない」ということなのではなく、「受け身になる」ことだと言った。そのことについて、もう少しここで考えてみようと思う。

私は元々、寝付きの悪い人間で、横になるとすぐ眠ってしまう人をうらやましく思ったものである。そんなに宵っ張りの朝寝坊の方ではないのだが、翌朝早く起きなければならないという日には、いつもよりも早く床に入る。早く寝付かなければいけないという思いが強いせいか、なかなか寝付くことができない。いつも寝ている時間が来ても、眠れずにいる。十一時、十二時、一時になっても、目はさえてしまって、眠れずにいる。そして、いつしか眠り、翌朝起きた時には、睡眠不足で、頭痛がするという具合である。夜、早く眠ることができないのは、低血圧の体質のせいだと思っていた。

ところが、ある日のラジオの放送で、一人の医者がこんなことを話しているのを聞いた。「私たちは疲れると、夜眠ります。眠ることによって疲れを取り去るのです。ところで、眠らなくても、暗い部屋で心を静かにして横になっていれば、疲れの70%は取れるのです。」これを聞いた私は、「眠らなくてもいいんだ。少し時間を長く取って体を休めていれば、疲れは取り去られ、体は回復するんだ」と分った瞬間から、眠ろうと努力する必要がないことが分り、寝付きがよくなった。それから、私は寝付きの悪さから解放されたのである。

信仰も同じだと思う。「信じなければいけない。信じなければいけない」と言って、いくら努力してみても、そんなことで信仰が持てるわけではない。神が聖書で教えておられることを、そのまま受け止めればよいのである。

これは、水泳からも教えられる。泳げない人は、妙な迷信を持っている。太っている人は水に浮くけれども、やせている人は浮かない。これは、何も知らない人の理屈である。太っていようが、やせていようが、リラックスすれば、だれでも浮くし、緊張すれば沈むのである。水がこわいと思っている人は、水に入ると緊張するから浮かずに沈んでしまう。海水ではなく真水のプールでも、リラックスすれば、顔も手も足も水の上に出すことができる。水の中に入って、リラックスすれば、体は浮き、泳ぐことはだれにでもできる。水泳の場合は、あと呼吸法を覚えれば、本当に楽しむことができる。私は時間の取れる時には、週一、二度プールに行って泳ぐことにしている。これは健康維持のためにしているのだが、しなければいけないからやっているのではなく、水の中に入って泳ぐことが楽しいから泳いでいるのである。

私は元々水がこわくて、泳げなかった。今考えてみると、水は冷たいし、泳ぐことを楽しく教えてくれる人がいなかったということもあったろう。しかし、今は夏でも冬でも温水プールだし、ゴーグルを付けて泳ぐので、目が痛くなることはなく、本当に楽しめるようになった。それは、水がこわくなくなったからである。そして、人間の体は水に浮くということが分ったからでもある。水というものがどういうものか分ったということが一番かもしれない。

信仰も同じだと思う。私たちが信じる神とはどういうお方なのかということが分ると、信じることのすばらしさが分ってくる。神というお方を、何か悪いことをしたらすぐ罰を加えられるこわいお方と思っているうちは、あたかも冷たい水と、目が痛くなるということと、よく息つぎができなかった時には、水を飲んでしまい、水は恐ろしいものというイメージが強く、いきおい水泳はいやだという思いが強かったのと同じであったのだと思う。しかし、今は水が恐ろしくなくなり、温水とゴーグルと息つぎができるようになり、水を飲んで苦しい思いをしなくなり、水泳が楽しくなったように、神が本当によく分ってくると、信仰生活ほど楽しいものはないということも分ってくるのである。

神はいつも私たちを助けようとして、私たちのすぐそばにいてくださる。聖書の御言葉を実行しようとすれば、それができるように助けてくださるお方である。そのことが本当に分れば、信仰生活の醍醐味を味わうことができる。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、あなたがたについて、キリスト・イエスの神の御心なのである」(1テサロ二ケ5:16-18)

これは、信仰者のゴールないし理想図なのではなく、今できることを教えている御言葉である。それが出来るためには、神の助けが必要で、それを求めれば、神がそれを出来るように助けてくださるのである。