2008年1月13日日曜日

人間として生きる5 - 動物と人間の違い

人間が進化論の末、動物から進化したのだと考えている人たちにとって、人間と動物との違いは大したことはなく、相対性の域を出ないだろう。

ところで、人間と動物との違いは何かと言って、ある人は染色体数が違うと答えるかもしれない。確かに人間は動物とでは染色体数は違う。しかし、人間でも男と女とでは違うのだから、これも必ずしも人間と動物との違いを表す基準にはならないはずだ。

私たちは人間はノイローゼになったり、精神的に正常さを欠くのに、犬や猫はほとんどそういう現象を持たない。その一番よい例は、人間の場合、生きることに苦痛を感じて来、ついには自殺してしまうことがしばしば起るが、動物の場合、自殺をするということはまず聞いたことがない。それは、なぜなのであろうか。人間には動物にないものがある。聖書によれば、人間だけが神のかたちに似せて造られているのである。その神のかたちが満たされず、困難が起り、それが余りにひどくなると、自殺や発狂に至るのである。自殺や発狂にまで至らなくとも、今日どれほど多くの人が生きることに希望が持てず、うつ状態の人が多くいることであろうか。これは、人間だけに起る現象である。

今日、中国はすっかり変った。今でも政治体制は一応共産党独裁制ということになっているが、経済界は資本主義体制に移行してしまった。やがてこれも落ち着くところに落ち着くようになるだろうが、中国という大国においては、昔からそれを統一することは難しかった。中国統一が全くなかったわけではないが、それが必ずしも長くは続かなかった。中国の大衆は一つの国として統一されることを皆求めていた。孫文は必ずしも成功しなかった。国民党も失敗した。中国共産党だけが成功した。このことについて、イギリスの作家ドーソンが、次のようなことを言っている。「中国民衆は、神のようなものによってのみ満たされる欲求不満を持っていた。」彼は「神のようなものによってのみ満たされる欲求不満」のことをディヴァイン・フラストレーションと言っている。人間の魂は、ただ神によってしか満たされることができないのである。神によって神のかたちに似せて造られたからである。中国民衆は共産主義にそれを見出して、中国革命に飛び付いた。しかしそれは、神のようなものではあっても、神ではないので、やがてまた失望するに相違ない。