2008年1月6日日曜日

人間として生きる4 - 人間性の疎外

パッペンハイムが「近代人の疎外」(岩波新書)という本を書いている。その本の中で、彼は一つの出来事を記し、それを説明している。数年前のある通俗雑誌が写真コンテストの結果を発表した時、ほやほやの現場のニュースをとった写真に賞が与えられたのだが、それは二台の自動車がメチャメチャにこわれた交通事故をとったもので、それを背景に、犠牲者の一人の、今にも死のうとしている苦痛にゆがんだ顔の大写しであったというのだ。

この文章を読んだ時、私はすぐに日本において起ったあの社会党委員長の浅沼さんが刺された時のことを思い出した。真昼の日比谷公会堂の公衆の面前で、浅沼さんを刺したあの十七歳の山口少年の姿の中に、私は人間が人間でなくなった時に、人間がどれくらい恐ろしい存在になるかということを、まざまざと見出した。そしてそこにもう一つの現実を見逃すことができなかった。あの事件の時、刺されて苦痛に顔をゆがめ、眼鏡が外れた浅沼さんの死の直前の姿に、冷静にカメラを向けて写していたカメラマンがいたのである。その人にとっては、カメラマンとしての絶好のチャンスという思いはあっても、苦痛にもだえている人の心への同情は全く見られない。ニュース・カメラマンとしての自分の出世作品への思いしかないのである。

パッペンハイムはこう言っている。
「こうした冷淡さや関与の欠如ということは、他の人間の苦痛を目撃しながら、もっぱら自分のカメラを使うことばかり考える写真家のような人たちだけの特徴だと言えるだろうか?こうした気休め的な考えは現実的ではないと思う。われわれは誰でも無関心な傍観者になる傾向を持っているように見えるのである。他の人たちと交際したり、また重大な出来事に反応したりする場合、われわれはとかく断片的な出会いしか持たないような傾向がある。われわれは全体として他の人物、または全体としての事件にかかわりをもたないで、むしろわれわれにとって重要な一つの部分を切り離して、残りの部分に対しては多かれ少かれよそよそしい観察者にとどまってる。」

人間が人間でなくなるということは、実は人間が人間としてのあり方をしなくなるということである。そういうあり方をしていると、人間関係が崩壊してしまい、自分もまた人間ではなくなってしまうのである。