2008年1月26日土曜日

人間として生きる7 – エゴイズムのない愛

私たちの人間関係は、どうやらほかの人を自分のための利用価値と考えるところが多いのではないだろうか。利用価値のある人とは仲良くし、利用価値のない人とは疎くなる。こういう人間関係は、利害関係が一致している間はよいのだけれども、それが相反するようになってくると、途端にその関係は途切れてしまう。それは、夫婦の間においても、友人関係においてもそうではないだろうか。

あなたは本当の親友を持っているか。遊び仲間であるとか、仕事仲間といった、いわゆる付き合いという表面的な関係は持っていたとしても、いざという時、本当に頼りとなる友人を持っているだろうか。

夫婦にしても同じことが言える。心の中を本当に打ちあけ合い、慰め、励まし、助け合う間柄だろうか。夫が職場での苦しみを話し、それに妻が相槌を打っているうちはよいのだが、少しでも夫に忠告がましいことを言うと、「うるさい。黙っていろ」と言って、相手を自分の対等の人とは考えず、いつも圧倒しようとする態度に、妻は我慢の限界に達している夫婦が少なからずいることを知っている。妻を召使いぐらいにしか考えていない夫は、妻を便利な使用人ぐらいにしか考えていないのだろう。妻は妻で、夫を月給運搬人ぐらいにしか考えていないとしたら、こういう夫婦は、形の上では夫婦かもしれないが、本当の夫婦ではない。いつかは破綻するのがオチである。

芥川龍之介がまだ一高の学生であった時、友人の恒藤恭にあてた手紙の中で、次のように書いている。「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか、イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑う。」こう書いて、彼は後に自殺しはてた。

確かに、相手を自分にとっての利用価値としてしか見ることのできない考え方は、エゴイズムの愛だろう。そういう愛しか人間は生まれながらにして持っていないことは確かだ。そういう愛では、本来共同体であるはずの家庭も、崩れていってしまう。その問題を、聖書では罪と言うのである。この問題を無視して、人間は決して幸福になることはできない。人間と人間の間に成り立つ関係、それが愛なのである。