2008年4月26日土曜日

罪の現実3 - 悔いのない人生

私たちの人生はたった一度しかないもの、やり直しのきかないものだ。このたった一度しかない人生を、私たちはどのように送るべきだろうか。

多くの若い人たちの願いは、きよく、正しく、美しく生きたいということだろう。若い人たちは正義にあこがれ、純粋を求め、真実でありたいと望んでいる。これがまだ世間に出て汚れていない人たちの姿である。しかし、この人たちが世の中に出て、何年、何十年とたっていくと、ほとんど一人の例外もなしに不純になり、醜くなり、うそと偽りで固めた人生へと陥ってしまう。それはなぜなのだろうか。一生涯、きよく、正しく、美しくありたいという願いを貫いていくことはできないものなのだろうか。

わが国では、きよさ、正しさ、美しさというものは無力なもの、それに反して力のあるものは、多少、不純でも醜くても、汚れていても仕方がないものという考え方が一般的だ。

きよく、正しく、美しくありたいという願いを生涯貫き通す道は決してないわけではない。一時、「三十以上の人は信用するな」という言葉がはやったことがあったが、三十歳以上、つまり中年以後の大人だけが不純なのだというのだろうか。そのように言う青年たちの心の中に、すでに不純の種は蒔かれているのである。若い人たちは、まだ発芽していないのを見て、自分たちのうちに正義や真実や純粋だけしかないと思い込んでいるけれども、やがてその不純の種が発芽し、花が咲き、実を結ぶのである。このように、若い時には、きよく、正しく、美しくありたいとあれほど熱望していた思いが、いつしか消えて、現実派となり、醜くなり果てていくのではないだろうか。

そういうことが分ると、決して自分の力で、きよく、正しく、美しくありたいという願いを一生涯貫き通し、実行できるなどとは言えないことが分る。私たちを不純にし、醜くし、堕落させてしまうものを取り除くことは、自分の力ではできない。というのは、それが罪だから。罪は、それを犯した人が自分でそれを取り除くには、その罪の償いがなされなければならない。罪はいつでもそれを犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。その償いが終るまで、その力は決して失われることはないからである。