2007年10月13日土曜日

本当のキリスト教 2/3

それでは、本当のキリスト教とは、どういうものなのだろうか。まず何と言っても聖書観が重要である。聖書はキリスト教の原点であり、聖書をどう見るかは、本当のキリスト教とそうでないものとの分かれ目になる。正統的なキリスト教は、何と言っても聖書を最終権威とする以上、聖書を誤りのない神の言葉と信じる。これこそ主イエスの聖書観である。

ところが、今日キリスト教と称しながらも、聖書を誤りのない神の言葉と信じないものが少なからずあるもので、注意しなければならない。聖書を人間の書いた書物と同一視したり、誤りがあると教えるものがある。参照「聖書の権威」

次に、神をどう見るかだ。父と子と聖霊の三人格を持った唯一のお方、つまり三位一体の神を信じるのがキリスト教である。それに、神が全世界の造り主であることを信じる。その神がイエス・キリストによってご自分を現してくださったのだ。だから、イエス・キリストは人の姿を取られた真の神であって、それが具体的にキリストの処女降誕という事実によって行われた。

次に、人間をどう見るかと言うと、人間は神によって造られた者であり、しかも自分の意志で罪を犯した罪人にすぎない。神の恵みによる救い以外の方法では、決して救われることのありえない存在である。

このような人間を救ってくださるために、神はキリストをこの世に遣わされ、キリストは私たちの罪を背負って十字架上で私たちの身代わりとして罪を償うために死んでくださった。キリストの十字架上の死は、実に私たちの罪を贖ってくださるものであり、キリストは私たちの罪を贖うために死なれた後、三日目に死人の中から復活し、私たち信じる者たちに対して、最後の日に、復活する希望を与えてくださった。

このようにキリストが十字架上で成し遂げてくださった贖いが私のためであることを信じるとき、その人は罪から救われる。罪から救われるだけでなく、最後の日になされる裁きからも救われる。この救いを自分のものとするためには、信仰と悔い改めが必要である。

最近、イエス・キリストが十字架上で死なれたとき、全人類は救われたと教える異端が現れた。これは信仰も悔い改めも必要としない教えだ。これは、聖書の教えるキリスト教ではない。