2007年10月17日水曜日

実存的問題-死 3/5

なぜ私たちは死をそんなに恐れるのだろうか。死の肉体的苦痛を恐れるのだろうか。そうではない。今日私たちは、いわゆる安楽死と呼ばれる方法を知っている。しかしそれでも、死ぬことができない。それは、死そのものに対する恐れというよりは、死の後に何かがあるということを知っていて、それに対する恐れであるとは言えないだろうか。確かに、この世は不公平だ。悪いことを散々やり、かなりあくどいことをやりながらも、結構うまくやっている人がいて、往生を遂げている。そして、もう一方では、正直にことをやり、人々にあわれみの心を持っていながら、生涯、正当な報い受けないでこの世の生を終えていく人もいる。そのような姿を見る時、だれでもこの世だけがすべてなのではなく、この世の生が終わった後に、必ずこの世の総精算とも言うべき公平な裁きがあるはずだと思わざるをえない。もしもそうしたことがないのなら、自分のためにやりたいことの限りを尽くし、自分のために楽しい人生を送った方がはるかに利口だ。しかし、私たちにそれが出来ないのは、この世の人生の後に、私たちの人生は必ず公平な総精算がなされるのだという思いがあるからだ。それは、だれでも生れながらに持っている生得観念ではないだろうか。人が死を恐れるのは、それを予測しているからである。

確かにそれは不気味である。単に未知の世界であるというだけでなく、身に覚えのあるすべての人は、裁きの待っている死後の世界について、不気味でないわけがない。神は、聖書の中で、はっきりとこう告げておられる。「人間は、だれでも一度は死に、死後裁きを受けなければならないことが決まっている」(ヘブル9:27)。

確かに、死や死後の世界のことについては、神よりの啓示によらなければ、だれにも分らないことである。死人に口なしだからである。死んだ人に聞くわけにはいかない。臨死体験をした人がいて、ある程度は分っていても、死後の世界のほんの入り口のことしか分らない。私たちの知識のほとんどは、自分たちの経験に頼っているが、死と死後の世界のことだけは、人間の経験に頼るわけにはいかないのである。いきおいほかの道を求めなければならない。そこで最も確実な道としては、私たちの生も死も支配しておられる神からの啓示によるのだ。だから、死と死後の世界のことについては、この神からの啓示である聖書から学ぶ以外にはない。