2007年10月10日水曜日

実存的問題-死 2/5

私は牧師となって54年。多くの人の臨終に立ち会い、死に居合わせるようになって感じるのだが、人間は、結局は一人であるということだ。その人がどんな思想を持っていようと、国際人であろうと、有名人であろうと、金持であろうと、貧乏人であろうと、死においては、全く一人の人間にすぎない。だから、人間は自分自身で、自分の真実な人生を追求しなければならないことを感ぜざるをえない。そして人間はだれでも、借りものの思想でこの世を送ることのいかに愚かであるかということを、この死に立ち会わされて、感ぜざるをえない。借りものの思想では、この死という厳しい現実を絶対に乗り越えることはできない。学者や知識人は、古今東西の多くの人々の知識や知恵を、自分の脳裡に蓄えている。そして時として、それがあたかも自分のものででもあるかのような錯覚に陥る。しかし、それが借りものにしかすぎなくて、本当に自分のものでない場合には、死に際して、ばけの皮がはがれてしまう。厳しい死の現実の前に立たされて、ごまかしは決して言うことをきかないのだ。だから、真実を求める人生が必要なのだ。そうでなければ、最も孤独な死の瞬間に、どうして耐えられようか。

人間は、健康な時ほど死を恐れない。自分など死なないとか、自分などは死から最も遠くにいると思っているからだ。そして、あたかも死など全く意に介しないかのように、勇ましくしている。けれども、死の足音がひそかに迫ってくる時、人間はその勇ましかった向こう見ずの言葉を恥じるようになるものだ。

死に臨む時こそ、人生における最後の孤独の瞬間である。ただ一人なのだということを、しみじみと経験させられること、死に臨むがごとき時は、ほかにないだろう。日ごろ父と呼び、母と呼び、あるいは夫、あるいは妻と呼んだ人たちが、一様に少しも頼りにならない冷たい他者として、また訴えても求めても力にも慰めにもならない者として、ただむなしく枕辺にそのその面をさらす他人と化してしまう時こそは、その死の床においてなのだ。ただ一人、死の前に打ち捨てられた人は、はたしてだれに頼り、だれに訴え、だれにすがったらよいのだろうか。頼るべきものは、ついにこの世にない。神を否定し、信仰なくして生きてきた人も、ついに信仰なしには死ねないのだということを、死に臨んで、初めて体験せざるをえなくなるのである。